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もはや「インターネットが暮らしを変える」のではなく「暮らし」からインターネットを変える」フェイズなのではないかという話
このnoteの有料マガジンにも転載している「群像」連載の『庭の話』は、12月売りの1月号で最終回になる(来春単行本化する予定)だ。その中で、考えたことを今日はスピンオフ的に展開してみたい。連載だとどうしても前後の流れからはみ出ることが難しいので、番外編的にこのnoteに少し書こうと思う。
結論から述べると、僕は現代社会は既に「インターネットで暮らしを変える」のではなく「暮らしからインターネットを変える」フェイズなのではないか、と考えている。
インターネットが「暮らし」を変えてきた時代に僕らは生きてきた
今の現役世代の大半はインターネットが暮らしを、社会を変えるという大きな波の中で生きてきた。インターネットの出現で、僕たちは「その場で調べられればどうにかなる」暮らしを手に入れたし、しばらく会ってなくてもなんとなく気持ちが続いている友人が増えたり、買い物の感覚がガラッと変わり、そして政治的に「声を上げる」ことが簡単になった結果、社会に参加している「手触り」が良くも悪くも身近になった。
この「インターネットが社会を変える」実感があったからこそ、僕たちはインターネットを変えることで社会を変えることを「基本」だと考えてきた。僕も思いっきりそう考えてきたし、いまでも別にそれが間違っているとは思っていない(だから「遅い」インターネットなんてことも主張している)。
しかし、それだけじゃダメなんじゃないか、とも感じるようになってきたのだ。だから今日はこれから、その理由を書いてみたいと思う。
インターネットと政治の「不幸な」関係
いま多くの人が、特にインターネットで「政治」を変えると主張していた(僕のような)人は、状況に少なからず失望していると思う。インターネットはたしかにそれまで「声を上げる」手段を持たなかった人に声を上げる手段を与えたが、その一方でSNSプラットフォームの台頭以降人間の承認欲求を金と票に変えるモデルが発達した結果、インターネットの存在はほとんど民主主義の前提を破壊し始めている。
たとえば承認を効率よく交換するためには、既に支配的な話題に言及し、主流な意見に対しなるべく扇情的な表現で肯定か否定を述べる戦略が正しい。このとき話題も意見も多様化せず、問題設定を疑う視点も排除されてしまう(「日本維新の会」が第三極として機能せず、左派への後出しジャンケン的な批判を好む理由がここにある)。
「堕落したWeb2.0」をどう克服するか
この状況を変えるには、インターネットのプラットフォーム化(疑似中央集権化)を解除することで、それに依存した集金/集票モデル(アテンション・エコノミー)を弱体化させるしかない。普通に考えればそうなる。だから多くの人がSNSプラットフォーム以降のサイバースペースを「堕落したWeb2.0」だと批判する「Web3推進派」に合流していったのだけれど、2023年の現在この可能性に賭けるという選択は控えめに表現すれば「時期尚早」だし、言葉を選ばなければ「詐欺同然のポジショントークで集金を試みたプレイヤーの社会的責任が問われるフェイズ」ですらあると思う。
その上で、僕が今考えているのは「インターネットを変える」ことで暮らし変えるのではなく、先に僕たちの暮らしを変えることでインターネットという、いまや社会そのもの(少なくともその最大の基盤ではある)を変えるべきなのではないか、ということなのだ。
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