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なぜジャニーズやフジテレビを「なんとなく庇いたく」なる人がいるのか
最近フジテレビの問題について考えることが(イヤでも)多く、そのせいでジャニーズの問題についても(イヤでも)考えてしまうことが増えた。そして僕がこれらの問題を考えるときにいつも気になるのは、どうも最初からこの問題を「擁護する」と決めている人たちを、割と見かけることだ。
いや、態度や評価は人それぞれでよいと思うのだが、最初から「解釈」をなるべく「被告発者」に有利なように傾けて、なんとか「グレー」に持っていく、そして「疑わしきは罰せず」という判断に着地「させたい」という願望がミエミエな人を割と見かけるのだ。
僕は大衆のストレス発散としての「魔女狩り」文化には軽蔑しか感じないし、推定無罪の原則ももちろん大事だと思う。キャンセルカルチャーの自己目的化にも、警戒は必要だと思う。しかし、このタイプの人は明らかに最初から弱者の告発や、それによる体制の崩壊そのものを嫌悪しているのだ。それも利害関係者でもまったくないのにそうなのだ。身の回りにあまりそういう人がいない人はピンと来ないかもしれないが、僕の観測範囲には割といる。共通点は割とエリートで、あまり経済的、社会的に「困っていない」人たちだということだ。
断っておくが、彼ら彼女らは決してSNS、特にXに溢れかえっているような「自分を体制派の強い側に置くことによって、自分を強く見せようとする」いわゆる「冷笑系」の弱く、寂しい人たちではない。むしろその逆で、社会的経済的に安定してる人たちに、この傾向がしばしば見られるのだ。僕はこれをとても不思議に思う。
では、なぜ彼ら彼女らは態度を保留するのではなく、積極的にジャニーズやフジテレビを擁護したがるのだろうか。繰り返すが、彼ら彼女らはSNSでいわゆる「逆張り」をすることによって、自分を賢く見せようとするような気持ちは微塵もないと思う(そんなことをする必要がない階層の人たちなのだ)。
僕には仮説がある。それはおそらく彼ら彼女らが半ば無意識にこうした擁護的な態度をシェアすることで、ある種の仲間意識、もっと言ってしまえば、共同性を確認しているというものだ。
そもそもの話として、あらかじめあるイデオロギーとそれに準じた規則があって、それに従うメンバーが共同体の「空気」をつくるというパターンは、現代社会ではかなり稀だと僕は思う。
大半の場合はまず、何かの出来事がある。それはしばしば誰かに対する加害だったりする。それを周囲の人が「あの人はああいうキャラだから」「世間なんてそんなもんだ」と「免罪」することで、罪を共有する。この「罪の共有」が「共同体」を生むのだ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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