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自分の中の世界を見るレンズ、測るモノサシを「増やす」方法について

今日は少し一般的な話をしたい。この仕事をしていると「本が好きなのに考える力が弱い人」というのによく出会う。ちょっとドキッとした人もいるかもしれないけど、これは話の枕で本題は別に何かを叩きのめして切り裂く……みたいなことじゃないから、安心してほしい。で、そういう人はたいてい、一人か二人依拠している思想家や論客がいて(一昔前に流行ったカリスマ的存在だったりする)、彼/彼女の語彙を脳内に既にインストールしている。そして何を読んでも、それを自分が依存するその人からインストールされた基準でジャッジする。「この本のこの議論って、◯◯でいう✕✕ですよね」と当てはめてしか考えられなくなる。

しかしこれってお世辞にも「考えている」とは言えない、むしろ思考停止の産物だ。少し落ち着いて考えてみればいい。基準になるものが先にあって、そこに合う/合わない、近い/遠いという基準に脳内が支配されてしまっている。世界を測る物差しが実質的に一つしかなくなっている。それがカリスマ的存在への「依存」的に働いた場合、最終的にはその教祖の敵か味方かでしかジャッジできなくなる。最悪の場合は本ではなく、人間関係しか読めなくなる。しかしこのタイプの人はそもそも自分は賢いと思い込むためにカリスマに依存しているので、なかなかそのことに気づくことができない(自己批評の回路をアンインストールすることで自分を保っているので)。

こうならないために、どうしたらいいかーーというのは僕がこの世界でものを書いていくなかで、ずっと考えてきたことだ。そして、僕が実践してきたのは取材者として「現場」に足を運ぶこと、そしてそこで自分と異なる分野で活動し、自分と異なる武器で戦っている人たちの知見をリスペクトをもって取り込むこと……だ。

『庭の話』は、僕の編集者、プロデューサーとしての仕事を批評家の僕が「批評」することで成り立っている本だ。作庭、ケア、民芸、建築、公衆衛生、ゴミ捨て、働き方……など、それぞれの現場で、それぞれの知見を培ってきた人たちの話を聞いて、その意味を徹底的に考えたことを書いている。そうすることで、自分の中の物差しを可能な限り複数化できるし、読者層もほどよく分散できると思ったからだ。

そしてここからが本題なのだけれど、そこで大事なのがむしろ「一方向のコミュニケーション」だ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。