とりあえず「再分配よりも互酬性」と言ってしまう「罠」について
少し前に、宇沢弘文没後10周年記念イベントの、あるセッションに登壇した。占部まりさんの司会で、安宅和人さん、安田洋祐さんと議論した。そのときの話は以下の記事に書いたのだけど、週末に部屋を整理していて当日のパンフレットが出てきた。そこに掲載されていた僕たちが登壇したもの「ではない」セッションのプログラムを眺めながら、少し考えたことがあるので、今日はその話をしたい。
この手の議論では、資本主義は行き詰まっている、したがって個人化に歯止めをかけ、共同体ベースの社会を再構築して互酬性の回復による再分配しかない……というストーリーが人気がある。それは資本主義批判という、20世紀で一番人気のあった大きな話のアップデートだからだ。国家の枠組みが揺らいでいるので、再分配がきちんと機能していない、というのはそれほど難しい話ではなく、普通に暮らしていれば誰でも体感していることだと思う。超絶単純化して述べればGoogleやApple、といった分かりやすい固有名詞を出すまでもなく、市場はすっかりグローバル化しているのでローカルな存在である国家がそこで生じた富をうまく再分配することはできないということだ。したがって、そもそも格差が開かないように、共同体の互酬を再召喚しよう、と考えるのがある方面でのトレンドなのだけど、僕はこのトレンドにかなり冷ややかだ。具体的に説得力あるモデルがまったくないのはもちろん、そもそもの問題として、この手の議論は資本主義に対するラディカルな批判をするというロマンチックな語り口にウットリするあまり、基本的な現実を都合よく無視しているケースが多すぎるからだ。
共同体の互酬性は、閉鎖的な人間関係とそれによる個人(というものをそもそも想定しないので)の人権の軽視(蹂躙)の温床でしかなく、やはり資本主義と再分配の組み合わせでやっていくしかないと僕は強く思う。そしてそのためにどう考えても機能していない再分配の方をしっかり考え直そうという路線(ピケティ)のほうに圧倒的に説得力を感じる。それは小さな話だ、ロマンチックじゃないという人は、20世紀左翼の呪縛の中にいるか、自意識のことばかり気になって考える力を失っているタイプの人だと思う。ピケティが複数の小さなアイデアの集合しか提示していないことから明らかなように、グローバル資本主義に対応した再分配の仕組み、というのはこれはこれで大変すぎる難題のはずで、そもそも充分……というかとてつもなく「大きな話」だ。ただ、あるタイプのナルシストが使いやすい「語り口」とは相性が悪いだけだと思う。
その一方で再分配を機能させるために、つまり「ここからここまでは同胞」という線引を機能させるために国家という共同体を見直そう……的な方向にも違和感がある。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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