『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』と「自意識」の問題
今日は久しぶりに、アニメについて書こうと思う。先日、ニッポン放送の吉田尚記アナウンサーの視界で(後編が)公開中のアニメ映画『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』についての座打開に参加した。今日は、そこで話しきれなかったことを中心に改めてこの作品について考えてみたい。
この『デデデデ』は浅野いにおの原作マンガ(全12巻)がすでに完結しているのだが、既読の読者はご存知の通り、お世辞にも成功できているとは言えない。広げた風呂敷をたためず、たたまないことに意味を持たせることもできず、内輪ネタでお茶を濁しながらグダグダと、はっきり言ってしまえば作者自身が納得の行く終わり方を見つけられずに迷走したまま完結している。
そしてこのアニメ版は、浅野自身が大きく参加し原作とは異なる結末を用意していることが予め宣言された。まあ、作者の公式アナウンスなど参考の参考程度にしかならないのは前提だが、それを差し引いても実際にこのアニメ版が、しっかりか完結することのできなかったマンガ版のある種のリベンジであることは想像に難くない。
さて、僕はこのアニメ版を観たあとに、別の記事で以下のようにコメントしている。
少し長くなるが、大事な論点なので引用しよう。
要するに、本作は「絵柄」的にも描写的にも、さまざまな人たちが揶揄されている。それはいい。しかし、ここまで醜く歪めて相手を描くのなら、自分たちはどうなのだろう、と僕は思う。すごく意地悪な言い方をすれば、ネトウヨも意識高い系も放射脳もSEALDsもバカにするあなたは、どれほど立派な人なのだろうか、と思ったのだ。
例外的に尊く描かれている門出とおんたん、つまり織田りらやあのちゃんのような若い女性アイドルに自己を仮託しているサブカルおじさんが、これらのバカにされている人たちよりマシだとはどうしても僕には思えなかった……というかこのようなかたちで隣のムラをアンフェアなやり方で冷笑して喜んでいるのは、むしろ自分たちがバカにしてる層よりもみっともないんじゃないかと思ったのだ。
もし仮に、門出やおんたんの提示する価値のようなものが、これらの「冷笑されている人たち」のそれよりも、魅力的に描かれていれば、まだ(卑しいアプローチだとは思うが)作品として批判力を持ち得たと思う。しかし、それすらもない。
マンガ版の結末は、ただの門手の父を通じた「なにもできなかった俺たち」に対する自己憐憫でしかない。では、アニメ版の結末で門出やおんたんが到達する場所はどうだったろうか。残念ながらこれも、かなり既視感のあるーー既に乗り越えられてしまったものだったように思う。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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