「都市の中の自然」と「里山」についての思考メモ
今日はとある打ち合わせで、久しぶりに「里山」について考えた。僕はこの「里山」の再評価については複雑な立場を取っている。人間が生活圏のそばにある(ものから)自然をメンテンナンスする、という発想には強く同意するのだけれど、それが地域の共同体を「都市の個人化の中で失われたものがある」といったハートフルな物語で持ち上げる主張と結託するのは、その閉鎖性や差別性を都合よく忘れたどうしようもなく浅薄な議論にしか聞こえないからだ。
人間の自由は基本的に醤油が切れたら醤油を借りられる世界にはない。それは「人間関係」で良い位置にいなければ醤油すら手に入らない世界は弱者にとって「地獄」だからだ。やはり国家(など)の再分配を前提に、醤油が切れたらコンビニに行けば、それだ誰だろうと醤油が(安価に)買える世界こそが、自由を人間に与える。資本主義批判みたいな大きな話をしたがる能力とプライドの釣り合わないナルシストたちは、この基礎中の基礎をそれっぽい固有名詞と造語で誤魔化しながら都合よく忘れ過ぎだと思う。
要するに僕は「里山」的な人間と自然との関係から「共同体」を抜き去ったものを考えている。つまり「里山」を「共同体」が日々の暮らしの営みの必然性から身近な自然をメンテナンスするものだとするのなら、ポスト里山的なもの(僕は「里山」という言葉自体が好きではないので、他の言葉にしたいのだが)は「個人」が気候変動リスクなど(つまり未来)のために、あるいは現在の自分の楽しさといった「暮らしの必然性」ではない動機で自然のメンテンナスにコミットするというモデルではないとうまくいかないと思うのだ。
この議論はエマ・マリスが『自然という幻想』で展開した「他自然ガーデニング」の発想と親和性が高い。
「手つかずの自然」は論理的に「成立しない」と考えるマリスは、あくまで人間にとって望ましい自然の姿を、土地ごとに考え、ガーデニング的にメンテナンスすることを主張する。マリスの「手つかずの自然」批判に心情的に反論したくなる人も、とくに都市部の自然環境のデザインについては、これ以外の選択がないことはすぐに理解できるだろう。とりあえず大規模再開発の「アリバイ」的に適当に植樹すればいい、という発想で進めるのではなくこの土地(都市)のあるべき生態系はなにか、を考え、デザインしていくという発想がないと、「持続可能性」も「生物多様性」も絵に描いた餅になるだろう。
このときもうひとつ、特に日本のような島国で重要になるのは「流域」管理という発想だ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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