「百姓」性と「マタギ」性―― 『マタギドライヴ』の旅 #3
少し間が空いてしまったが、今日から「マタギドライブの旅」の更新を再開したいと思う(途中、書きたいことが出たら別の話題を挟むかもしれないが……)。このnote自体は基本、週に4〜5日のペースで更新すると思うので、マメにチェックしてもらえたら嬉しい。
さて、前回述べたように僕たちは阿仁への取材の下準備を兼ねて、阿仁の人たちと僕らを繋いでくれた石倉敏明さんと落合君との対談を行った(司会は僕が行った)。対談そのものは9月に「楽天大学ラボ」で公開される予定だけれど、話を進めるために前回同様に少しネタバレしてしまおう。
ここで二人が議論していたものの中で鍵となる話題のひとつが、テクノロジーにおける制作の「民主化」の問題だ。前述したように100年前に柳宗悦は民藝という「運動」を立ち上げたときの仮想敵はふたつあった。ひとつは近代化の中で国家が制度として確立した「美術」であり、もうひとつは工業により大量生産される製品だった。このふたつに名もなき職人たちの「手仕事」を掲げて対峙する。それが大雑把に言えば「民藝」運動だった。そして落合陽一は生成AI前提の社会では、この名もなきつくり手たちによる「手仕事」的なアプローチを、もっとも批判力のある文化の生まれる回路として注目する。言い換えれば工業化への応答として出現した「民藝」と同じような運動を現代の情報化への応答として主張している、ということだ。そして、その手がかりを落合陽一という作家は「マタギ」という文化の中に感じているのだ。
ここでキーワードになるのが「百姓」という概念だ。
広く知られているように、この「百姓」とはさまざまな仕事をするという意味でもある。そして「マタギ」とは、その発祥の地である阿仁という土地の暮らしの延長に発生した文化にほかならない。特に、今日のマタギはかつてとは違い専業、つまりクマを狩り、その肉や皮や内臓を売ることで暮らしている人はいない。すべての「マタギ」が兼業である。むしろ今日の産業社会への対応こそが、マタギの「百姓」性を引き出しているとも言えるだろう。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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