「学校」の最大の使命は「親ガチャのキャンセル装置」であること、だという話
いま、PLANETSでは春刊行の新刊の作業が進行しているのだけれど、昨日はそのうちの一冊、白井智子さんの『脱学校論』に収録する、智子さんと安宅和人さんとの対談を収録した。
智子さんは日本にフリースクールという文化を導入した人、という説明が分かりやすいと思うのだけど、この本は彼女が考えるかなり大胆な教育界への「提言」になっている。安宅さんと対談してもらったのは、智子さんが安宅さんの主宰する(そして僕も参加している)「風の谷を創る」のメンバーで、敎育(人を作る)班の担当者だからだ。
さて、そこで今日はこの二人の対談を聞きながら考えたことを書いていこうと思う。結論から先に述べてしまうと、僕がいまの教育、とくに小中学校の教育が今できていなくて、そしてこれから絶対に必要だと思うのは
1.世間ではなく社会を教えること
2「親ガチャ」のキャンセル装置として機能すること
3.発信するノウハウを教えること
の3点だ。以下、その理由を書いていこうと思う。
この今日公開されたインタビューで述べているように、僕は小中学校というものにまったく馴染めない少年だった。
僕がいわゆる「転勤族」の子供だったこととは何度も述べたはずだけれど、基本的に1980年代、90年代の地方都市もまだまだ排他的で、余所者に厳しかった。そしてそれ以上に、学校という場所が異質なものを異様に嫌悪する場所だった。児童や生徒の大半は「普通」であろうとし、変わった人や異なった人と見られるのを恐れ、「みんな」と同じであることを確認して安心していた。僕もずっと歴代の担任の教師からもっと「空気を読み」「みんな」と同じように振る舞うべきだと諭され続けてきた。
これは今考えると恐るべきことなのだけど当時の学校社会を担う教師たちは、このボトムアップの全体主義的な多様性の排除をまったく疑っていないかった。もっとも当時は、バブル景気の前後で、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」なんて言われた時代だ。日本的な「みんな」と同じことで安心する「世間」を疑う人は、とくに地方社会にはほとんどいなかったと思う。ただ、僕はそれが本当に苦痛だった。
特に我慢できないのは、学校が「鈍感なふりをすることが大人になることだ」というメタ・メッセージを発することだ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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