もうイキっている経済メディアも他人を裁くのに夢中な政治メディアも十分だけど、テレビっぽい「共感」ほどつまらないものはない。じゃあ、どんなメディアが欲しいのかという話。
最近、「昨日考えたこと」を翌日に整理がてらnoteにまとめるのにハマっている。そこで今日は久しぶりにメディアの話をしようと思う。昨日、久しぶりに業界の人と話す機会があり、いまあったらいいのはどんなメディアか、という話になった。そして結論から述べるとそれは意外にも「ちゃんとしたワイドショー」ということになった。
ワイドショーと言えば、芸能人の不倫や事件や事故を扇情的に煽り立てて、そのとき「叩きやすい人」を叩いき「自分たちはまとも」だとスタジオの中で確認しあって、その「共感」を視聴者に売る商売だ。言い換えれば、バカに対して「あなたたちはやらかしていないから〈まとも〉ですよ」と安心させるメッセージを売っている番組だ。構造としては、多くのバラエティ番組同様「いじめ」と変わらない。
ここには僕が心から軽蔑する「ちびまる子ちゃん」的な「普通」の「戦後中流」の卑しい「ボトムアップの全体主義」がある。まる子は大野くんや杉山君といったカースト上位のイケメンに媚びて、藤木や永沢と言ったイケてない男子をヘイトする。ただし「いじられ役」としては重宝する。この卑しさがワイドショーの、バラエティ番組の、そしてこの国の「テレビ」文化の卑しさだ。
僕は数年前に、某ワイドショーで2年半、毎週こうした陰湿なショーを生放送中に妨害し続けた結果として、局に疎まれて追放されたのだが、ここではそういったことはどうでもいい。
僕の考える「ちゃんとしたワイドショー」の「ちゃんとした」というのはこうしたバカに対するヒーリングとしての「いじめ」「共感」を提供「しない」という意味だ。
じゃあ、それを取ったらワイドショーには何が残るのか……。これが問題だ。そしてここも先に結論を書いてしまえば、それは小さなこと(今晩のおかず)から大きなこと(戦争)までをつなぐ「総合性」だ。ここが情報番組(ワイドショー)とニュース(報道)の違いなのだ。
つまり戦後中流的、ちびまる子ちゃん的、テレビバラエティ的な「いじめ」で「共感」と「安心」を与える回路を「使わず」に、「小さなもの」と「大きなもの」を結ぶ。これがいま、必要なのではないかと思う。
経済や政治についてドヤ顔で語りたい、頭がよく見られたい人たちのコンプレックスに漬け込んで数字を取るやり方(NewsPicksのコメント欄)も、もちろん拒否したい。このやり方が卑しいのはもちろんだけれど、それ以上にこのマーケティングは「大きいことにかまけて等身大の問題から目をそらしたい欲望」に漬け込んでいるからだ。身の回りに、政治や経済など「大きなこと」を語るのが大好きなのに等身大のコミュニケーションがまったくダメで、魅力に欠ける人はいないだろうか。「大きさ」が逃避になってしまっては意味がないと僕は思うのだ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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