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小泉進次郎出馬会見における「侮辱的な質問」について

先日、小泉進次郎の自由民主党総裁選出馬会見の配信を思わず作業の手を止めて最初から最後まで観てしまった。よく練り込まれた内容だと感心した。選択的夫婦別姓は導入を明言する一方で、同性婚などについては触れない、という「(悪い意味で)賢い」戦略が見え透くところが鼻につくが、実際に彼が言葉にした政策の内容そのものは(概ね平成の「改革」派が主張してきたことの最小公倍数であるだけに)異論はなく、素直に応援できると感じた。まったく知らない仲でもない年下の人間が総理大臣になる可能性が少なくないという事実にいろいろ考えるところもあったのだけれど、僕のこういった俗世間的な焦りとか、そういったものはまあ、ここでは一旦置いておこう。

さて僕がここで考えてみたいのは、話題になっている質疑応答の問題だ。当日にあるフリーランスの記者が進次郎議員に対しあなたがは知性が低いので総理大臣になると国際政治の場で恥をかくのではないか、と訪ねたのだ。これはどう考えても「質問」ではなく「侮辱」を目的にした行為、つまり進次郎議員をよく思っていない人物が彼に恥をかかせることを目的に質問したものだった。しかし進次郎議員の「返し」のほうが一枚も二枚も上手で、この記者の嫌がらせは進次郎議員の度量の広さと頭の回転の早さ(もしくは、この種の会見に対する周到な準備力)を印象付ける結果になった。

しかし僕がここで問題にしたいのは、この記者の安易さとか進次郎議員の「活躍」ではない。そういうことにはあまり関心がない。僕が気になっているのは、この記者がなぜ会見の場で「侮辱」を優先したのか、ということだ。結論から述べれば、それはおそらくここで「質問」ではなく、「侮辱」を優先したほうが、(どこまで自覚していたかは分からないが)彼の「生存戦略」的に「効率的」だったたからだと思うのだ。

誤解しないでほしいが、僕は右派の陰謀論者が妄想するようにこの記者が進次郎側による「仕込み」だったとはまったく考えていない。むしろ「そうではない」からこの記者は「侮辱」を優先したのだ。僕がこの記者だったら、進次郎議員が改革を「決着」するイメージを流布するために話題に「選んだ問題」と「選ばなかった問題」との差異を「質問」したと思う。具体的には同性婚や、パレスチナの問題だ。しかし、この記者はすでにインターネット上の「いじめ」文化の一環として定着していた進次郎議員に対する人格攻撃を優先した。その理由は、おそらく「敵」に対する「侮辱」がもっとも彼の読者に「受ける」からだろう。

この現象は、別に今回の会見だけではなく、インターネット以降の言論シーンの特徴として根付いている。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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