#31 多様性を認める暮らしから多様だと知る暮らしへ

牡丹華(ぼたんはなさく)。


ふたつの暮らしがひとつになって約半年。


法人なんてものを作ってしまったのは2ヶ月前。


来たるゴールデンウィークには、若者向けのプログラムを開催することになった。


一年前の今日は、まだこの家に住めるかどうかさえわからなかった。


僕らの暮らしは「話しあえないモヤモヤ」で息苦しい空気が蔓延する度に話す時間を生活に織り込み、今日までやってきたとも言える。


今や毎月恒例の合宿も数々の変遷があり、また合宿なるものをやろうとなるまでにも幾多のライフイベントがあった。


そもそも「話し合い」なんてものをわざわざやる必要があるのか?と大抵の人は思うと思う。


時代は移ろい多様性の尊重が叫ばれる現代、色んな意見や認識があることを認め合おうという風潮を強く感じる。個性、わたしの意見とあなたの意見、違っていてもいいじゃない。

一昔前のみんな同じが安心から随分変わってきた。ライフスタイル、働き方、趣味、家族の形はすっかり選択肢が増えた。違うことはダメなことではなくなってきている。前より自由な社会になってきていると人は言うかもしれない。


何をしてもいい、何をどう表現してもいい。


果たしてそれは本当に自由なのだろうか。


自由と身勝手は何が違うのだろうか。


違いを違っていてもいいと思う人は確かに増えたのかもしれない。


しかし、意見や認識が違うことを確認し合うことだけでいいのだろうか。いいかどうかというのは、そういうことがしたいのかどうかということだ。


キッチンでこんなやりとりがあった。


「洗濯物干して欲しいって頼んで『うん』て返事したけど、マンガ読み続けていたよね。あれはどういう心境なの?」


「自分のやりたいを優先したんだよね。マンガきりが良いところまで読みたかったからね。」


「俺は、今日集まって話したいことあったから洗濯物を干してもらえたら集まりを時間通り始められると思って頼んだんだよね。俺だったらあのタイミングで漫画は読まないな。」


「そうなんだ。俺は読みたかったし、読んでからでも洗濯物干す時間あると思ってたんだ。」


「そっか。俺にはその感覚わからないけど、そういう考えもあるんだね。聞けてよかった。」


二人の価値観は違う。ふたりとも互いが自由であることを尊重したいと思っている。それは、悪いことではない。

けれども、価値観や意見を表明し合った結果、方向性が異なることが明らかになったとき、力を合わせる必要があるのにも関わらず協力しようと思えなくなってしまう。

関係性は育たないばかりか希薄になっていく。ペースが合う人同士が集うクローズドコミュニティが生まれていく。


こうして世の人は多様であることを認めている風の態度を取りながらも、実のところは違いに対してそれを知ろうと試みる一歩を踏み出さず、いつまでも「自分」の世界の見え方に固執する。自分の見え方や態度は正しいとどこかで思っている。もしかしたら同じ方向を観ているかもしれないとは想像もしないのだ。


話し合えない、というより話し合おうとしない人々によって運営される社会に僕らは生き、その社会を自分の手で強化し続けている。対話だのコミュニケーションだのの重要性があちらこちらで騒がれるし、そういうスキルというものが必要なように喧伝されるが、それをしてどうしたいのだろうか。


わかりあいたいとどこかで思うのだろうか。


わかりあえないのはなぜなのか。


わかり合おうとしないのはなぜなのか。


キッチンでの話しには続きがある。


「俺、漫画読むことについてはなんとも思わないけど、漫画読むことが本当にいい時間の使い方なのか気になってるんだよね。」


「よく考えてみると、どっかで後ろめたい感じがしてる。指摘されて、いや自分はこれはやりたいことなんだと反発する感じもあった。たぶんこれが人生で一番やりたいことだ、と自信持ってやっているようなことではないんだろうな。」


「もっといい時間の過ごし方できたらいいね!」


二人がわかりあえたのかどうなのかはよくわからなかったけれど、本人もよくよくわからないままにとっている行動を一緒の目線で考えようとするだけで、どうもサバサバ素っ気無い雰囲気から柔らかくじんわりした雰囲気になっていく。


これが話し合いなのかどうかは全然わからない。

それでも、違うからバラバラになるときと違ってもバラバラにならない境目がある。


言いたいことが言えないとき、言いたいのに言わないとき、話しの内容は噛み合っていても気持ちはバラバラしてきて、話したい気持ちがなくなる。


人は言葉をやりとりしたいのではなく、言葉を介してもっと他の何かをやりとりしたいのではないか。


そういうところ、誰にとってもわからないこと誰にとってもなんかどこかでわかること、それを一緒に考える。人はそれが本当は好きだと僕は思う。

話し合いはやったほうがいいことなのではなく、ただただ好きでやりたいこと。暮らしながらそう思う。

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