#36 生きづらさは何処へ
我々20代は「生きづらさ」を感じる。
「個性的であれ!」
ユーチューブのインフルエンサー、テレビの芸能人、SNSを開けば、如何に他人と違う尖った「個性」を持つことが良いことだと褒めそやされているのか感じられる。けれども、大抵の人は平凡で尖った「個性」なぞない。
強い「個性」がないゆえに劣等感を抱いたり、逆に強い「個性」を作り出したがゆえに周囲を競争相手にしか見えず人と仲良くなれなず孤立を招いたり、その「個性」が個性的であり続けるよう変な努力をしてしまい、返って自分の気持ちを見失ってしまったり。
僕らの世代は「個性/個性的」という言葉に踊らされている。
幼少期からだいたい高校生くらいまでは集団の秩序を重んじるよう躾られる反面、大学生になり就職活動を控えると途端に周囲との違いをアピールするように求められる。
「自分らしさ」なんて一体どこにあるのだろうと若者が困惑するのも無理はない。
もう一つ、
僕らが受けているものに「社会はどんどん悪くなっている」という空気がある。
その辺の大人もニュースも不況、少子高齢化、格差社会、戦争、環境問題なんだのと四六時中語りかけてくるので、「この世界で生きていて良かった」よりは遥かに「この人類が作ってしまったとんでもなく大変な状況の世の中でどう慎ましく幸せに生き延びられるだろうか」という暗く切実な哲学チックな問いに晒されている。
この問いはしばしば、私が私の人生を全力で楽しむ前にひとまず世界が悪くなるのを食い止めなければいけないという答えを導き出してしまう。
しかも、食い止めるには隣人とも大して仲良くできないし、仲良くできてこなかった私たちが協力し合うという難題を突きつけてくる。
一方で、自分の努力次第で可能性は無限大なのだから個性を発揮してあなたらしい人生を生きなさいと言われ、他方、自分の人生を楽しむ余裕なんてなく、今すぐみんなで力をおわせて合わせて解決すべき問題に取り組まないとみんなで不幸になると言われる。
これは大変なジレンマで、どう生きればいいのか途方に暮れてしまうのも無理はない。
じっくり立ち止まり
「本当はどう生きたいか」なんて考える暇すらない。
というこれまでのお話しは、ほとんど自分の辿ってきた道の話しなので、世の若者全員がそう思っているはずはないことを一度ここで弁明しておく。
ところで、どうしてこうも「個性」はこんなに勘違いされてしまうようになったのだろうか。
当たり前の話しをすると、産まれた環境は人それぞれだ。
例えば家族親戚、体格、地域や地方の文化、学校で出会う友達、人生で出会う人々、見聞きする事、経験の解釈は千差万別で、人誰しも個性的でしかあり得ない。
個性は別に人に見せつけるものでもひけらかすものでもないはずである。
我が家で暮らしていると、こうも人は違うのかとまざまざと感じる。誰も個性的になぞなろうとしていないが、強烈に違いを感じてとっても面白い。
さて、先日、再び近所の住職を訪ねた。
個性を巡る話しはそこで出たのだけれども、住職がぽつりと言った一言、
「いのちがわたしを生きていて、わたしが命を生きているわけではないんですよね。」
というのがとても印象的であった。
僕らは、ついついこの肉体を持った私が私の人生を私が自由に描き選ぶことができると信じて生きている。
けれども、意識に反して腹は減り、おならは出るし、病気にもなる。人生は思い描いた通りに進まないし、なんならいつ死ぬのかもわからない。まるでコントロールが効かない。
私のことは私が決められる、つまり私は私の物であるという所有感に惑わされている私たちは、進歩どころかこの仏教の数百年の叡智の蓄積を前に退化しているようだ。
かくいう僕も、その日の午前中はたっぷり将来のことで悩んでいた。増収の方法、収入源の見直し、理想の働き方や職場と現状のギャップ、生活の向上etc. ぼんやりには随分聞いてもらった。
住職と話すと、悩みようのないところで悩んでいることや問いのスタート地点が可笑しいことに目を開かされる。
生まれ方も死に方もまるでコントロールできないままに生きる僕らは、いったい日々何をしているのだろうか。
現代、「私」や「個人/個性」が思い通りになるものだと半ば信じられている。人生だって設計可能だと思われている。
「私」や「個性」という何か確固たるものがあるとも信じられている。
そこに疑念の余地がないと、それはやっぱり実体や現実に則さないので、そこで人は葛藤してしまう。
別に葛藤することに良し悪しはないのだけれども、個性は高めるものであったり、磨くものであったり、競い合うものであったり、見せびらかすものであるといった、観念(思い込み)に惑わされて生きるのはどうも勿体ない。
この世界が仮に悪くなっていても幸せになれるし、人類が滅んでも生命は困らない。
問題は問題ではないかもしれないし、そもそも何の問題もないのかもしれない。
僕は、近年どんどん「生きやすく」なっている。なんという不思議。
「いのちがわたしを生きている」
いったいそれはどういうことか、わかるようでわからないこの一言が我が家へのお土産となった週末でした。