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#27 そうなっている。
今朝、友人の誘いで近所のご住職とお話しする機会を頂いた。
僕からしたらおじいちゃんの年齢のお友達とお母さんの年齢のお友達。個性はもちろんライフステージが全然違う方との交流は本当に面白い。
現代、人は人間の知的活動で対象の分析と知識集積によって真理が明らかになるかの如く思っているように見える。
けれども、
どういうわけだが人は生きている。
生き続けられるようになっているし、出来ている。
自分は日頃生きていて、人間如きではこの世界は到底わかり得ないという点が知的活動の前提にあるべきだと思うのだけれども、住職はどう思いますか?
お寺カフェは問答無用、ご住職への率直な疑問の投げかけで幕を開けた。
僕の記憶は曖昧だが、住職は「そうですね、論理でなんでも説明がつくと思っている人が多いですね。」と答えた。
それをきっかけ話しはあっちにこっちに展開し、次第に納得という現象の不思議に話題が移っていった。
納得する。
これは本当に不思議な体験だ。
まず第一に誰がなんと言おうと自分が納得したことは覆らない。
第二に、なぜかそれを納得できるようになっている。
第三に、覆らないけれど深まっていく。
納得、別の言い方をすると腑に落ちると表現してもいい。
今日、住職からよく生きるための指針、真言宗の三密(身・口・意)の話しがあった。
身は体や行動、口は発する言葉、意は意識。
この3つの統合が生きるうえで重要だそうだが、僕はどういうわけかその通りだなと納得してしまった。
納得しようとしてしたわけでもなく、三密についての知識や論理もしらない。それなのに、おっしゃる通り、それは大事なことだとわかるのだ。
わかるのに、なぜわかるのかわからない。
なぜだが、それを納得するようになっている自分。
考えれば考えるほどに面白い。
わからないから生きるのはやっぱり面白い。
ああ、そうだな
しみじみそう思うおしゃべりであった。