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お義母さんのご飯が食べたい
先週に中国人の義母が亡くなりました。
享年86歳でした。
死因の直接の原因はコロナでした。
中国で義両親の家にホームスティ
義母と私は中国と日本ということもあり、そんなに頻繁に関わったわけではありませんが、一番の想い出と言えば、私が34歳の時に夫の実家(中国)に3か月間ホームスティしながら、大学の中国語クラスに通ったたことでしょう。
夫の実家は大学の敷地内にありますが、中国の大学というと一つの町のようで敷地内にホテルやレストラン、病院、郵便局、小売店もあり、大学に関わる教職員の住宅や学生寮もアパートも連立しているような場所です。
授業は朝8時から12時まででしたが、実家から日本語クラスの教室までは歩いて30分掛かるような広さです。ですから私も毎朝遅くとも7時半には家を出ないと遅刻します。
授業が始まった頃は、両親を朝起こさない様と自分で朝食の準備をしてたんですが、プロパンガスの使い方に使い慣れていず、私が使うとプロパンガスがすぐなくなるから、ということで義母が見かねて朝の準備をしてくれるようになりました。
そんなわけで義母が普段よりも早く起きて準備をしてくれて、授業から帰ってくると昼食ができていて、夕食も作ってくれました。
私は食事の後片付けと洗い物担当です。娘のいない義両親の家で、嫁というよりも、まるで娘気分でいい大人なのに過ごさせてもらいました。
食事の後はみんなお昼寝をするんですが、しばらくすると義母は鼻眼鏡でよく新聞を読んでいて3時ぐらいになるとおもむろに買い物に出かけます。そして帰ってくると夕食の下準備を始めます。
義母の1日は家事、特に料理に多くの時間が掛けられていました。
中国語を少しでもわかりたい
私が中国に中国語を勉強に来た理由は、私が中国語が全くわからないため、中国の両親はもとより、夫の友人たちとも全くコミュニケーションがとれなかったので、少しでも会話ができるようになりたかったのです。
ですから、このホームスティ当初もお互いにほとんどコミュニケーションが取れない状態だったのです。それでも義父は英語が私よりもできたので、義父とは辛うじて英語で会話ができましたが、義母とは全くできませんでした。
そんな私にも中国語で根気よく付き合って説明しようとしてくれたのが、義母でした。学校で少しずつ中国語を習うようになると私も少しずつですが、義母とも会話ができるようになりました。
同級生の話など他愛のない話は、真面目な義父にはしにくいけど、義母なら女同士でいっしょに夕飯の下ごしらえを手伝いながらするのが楽しいのです。
義母の誕生日
ホームスティ中に義母の誕生日がありました。
私は全然気がつかず、全く何の準備もしていませんでした。
義母の誕生日の夕食はいつもよりもたくさんの料理が食卓に並びました。
そしてその日は義父も数品料理を作りました。
義母が「お父さんの料理は上手なのよ」と誇らしげに私に言いました。
普段は飲むことのない青島ビールも義父と私のために用意してありました。
食事の時に、義父が感謝とお誕生日のお祝いの自作の詩と自筆のオシドリを描いた色紙を義母に渡しました。義母は嬉しいそうに色紙を見つめています。
なんかいいなぁ。こんな夫婦の形もあるんだぁ。
私はこの義母のお誕生日を忘れません。
26年前のことですから、当時は中国も徐々に人々も豊かになることに関心が強まっていく中でしたが、夫の両親は質素で余計な贅沢をしません。
義母は、持病のある義父を気遣いながら、節約しながら、たくましく切り盛りしていました。二人のペースを大切にしながら、助け合って穏やかに暮らしていたのです。
うちの両親とは大違い。
義母が買ってくれたセーター
ホームスティ中の初めのころ、予想よりも寒かったにも関わらず、私はセーターを持ってきていませんでした。
そんな寒そうにしている私を見かねて義母が「買い物に行こう」と言ってくれました。私は中国語もわからないし、どこに買いに行けばいいかもわからないし、買いたくても買えない状態だったのです。
義母について衣料品店に行くと義母が「好きなものを選びなさい。」と言ってくれました。
ビーズの飾りが縫い付けてある黒いセーターが目に留まりました。
これなら日本でも着れそうですが、ちょっと高そうです。迷っていると義母が「これが好きならこれにしなさい。」と言って会計を済ませてしまいました。
自分たちの洋服なんて全然買いそうもないのに私のちょっと高めのセーターを迷うことなく買ってくれました。申し訳ない気持ちと義母の心意気に驚くと同時に有難くてとても嬉しかったのを覚えています。
このセーターは以後、私のお気に入りになりました。見るたびに義母を思い出します。そのセーターは何度か洗っているうちに縮んでしまったため、今は私の母が大事に着ています。
お母さんの料理が食べたい
ホームスティ中に義母に教えてもらった料理を私も作るようになりましたが、やっぱり義母が作る料理がとっても美味しいのです。
ホームスティ中の楽しみと言えば食べることです。
それしかなかったと言うよりも
「美味しいものをみんなで食べることがこんなに幸せな気分になるとは知らなかった」のです。
レストランで美味しいものを食べるとも違うんです。
よく「おふくろの味」を食べたいから、実家に帰りたくなる、なんて言いますが、私も実感します。本当に義母さんの料理が食べたい。
味も美味しいのはもちろんですが、作っている過程から好きなんだと思います。下ごしらえから丁寧に作っていって、ジャーっていう炒める音が聞こえたり、匂いが台所からしてきたり、お皿から湯気が立ち上っていたり。
中国での生活は質素で不便なこともありましたが、食事に関しては、義父母のおかげでどれだけ贅沢な思いをしただろうと思います。
そんな義母の手料理も食べられなくなってしまったけど、どれだけ私の心に沁みついているか。義母さんは知らないだろうな。
母の灰
義母が亡くなった日、それは10年前に義父が亡くなった日でした。
二人は同じ日に亡くなったのです。
10年前に亡くなった義父の遺言は、義父の灰を海に撒いて欲しい、お墓はいらない、ということでしたが、義母は義父の遺灰を手放すことはありませんでした。
そして今回、義母が亡くなり、コロナの中、慌ただしく火葬されました。
義父と義母の二人の遺灰は、一昨日いっしょに海につながる揚子江に流されました。
義母は自分の灰をそうして欲しかったのです。
現在、揚子江に遺灰を流す専用の船もあるらしく、船上で簡単な葬儀のような儀礼もできます。このコロナ下で、葬儀らしい葬儀もできない中、簡略的とは言え、こうした故人を送る儀式ができることは、残されたものにとっても慰めになります。
二人の灰がいっしょになって海に落ちていく様子を思うと義母の死も穏やかなものに思えてきます。
私も義母との記憶が薄れていく中こうして書き留めることができてホッとしました。こうして義父母を思い出すことが私からの感謝で私の思い。
二人ともありがとう。
天国でいっしょに安らかにお過ごしください。 合掌
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