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和歌山紀北の葬送習俗(27)本葬翌日と三日干し
▼本葬が終わったあとの習俗は、遺体がもはや埋葬された後であるという状況から、成仏儀礼としての仏教習俗が多くなります。成仏儀礼とは何かについては、『和歌山紀北の葬送習俗(1)予備知識』を参照して下さい。
▼仏教における成仏儀礼や、さらにその後の追善儀礼の内容は、形式的、制度的なものが多く、「初七日、四十九日にこれをやります」という決められたスケジュールにしたがって、淡々と公式行事が行われます。これらの公式行事は、仏教諸派関係者の方には失礼ながら、率直に申し上げて遺族が心から本気で取り組むという性質のものではありません。そこで、ここではそのような公式行事はあえて取り上げず、その周辺に存在する、より生活色の濃い習俗を取り上げてみたいと思います。
▼なお、登場する市町村名とその位置は『和歌山紀北の葬送習俗(3)死亡前の習俗』を参照して下さい。ほとんどの事例は全国各地にみられることから、掲出している市町村名にあまり意味はありません。
1.本葬翌日の埋葬状態の確認と墓参り
▼土葬の場合は通常、本葬翌朝にサンマイ(三昧)に行き、埋葬場所がそのままの状態であるかどうかを確認します。事例をみましょう。
・墓が荒らされていないか見回りに行く(山見舞いという)(和歌山県旧那賀郡岩出町根来:昭和50年代)
・家人がサンマイに行って異常がないか確かめる(和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代)
・喪主がサンマイに行って異常がないか確かめる(和歌山県旧那賀郡粉河町中津川:平成初年代)
・男性がサンマイに行って異常がないか確かめる(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
・若い衆がサンマイに行って異常がないか、オオカミに掘られていないかなどを確かめる(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)
・僧侶や垣内の者が参る前に、一本花を持って墓の様子に変わりがないかどうかを確かめてから参る(和歌山県旧那賀郡粉河町野上:平成初年代)
・前日持って行った枕飯が食べてあると「死人は極楽に行った」という(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)
▼本葬翌朝に墓に行くのは、供え物やモンドリ、そして土盛りが獣に荒らされていないかを検分するためです。
▼昭和後期までの田舎には、野良犬が普通にいました。子どもが野良犬に噛まれるなどの事件は日常茶飯事で、管理人も幼児期に野良犬数匹に取り囲まれた経験があります。今ではおよそ考えられないことで、おそらく墓場を掘り返したり、供え物を食べるなどして生きていたのでしょう(野良犬は1980年代後半に全く姿を消した!)。
▼また、奈良県吉野郡野迫川村の事例では「オオカミに掘られないように」とあります。このナラティブはあながち嘘とはいえず、管理人の祖母は「昔は高野山にオオカミがいた」とよく話していたものです。当時でいう「昔」とは、おそらく戦前のことでしょう。
▼さて、埋め墓の状態が確認された後に墓参りが行われます。事例をみましょう。
・早朝に参る(和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代,和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代)
・早朝4時頃に参る(和歌山県旧那賀郡粉河町中津川:平成初年代)
・家人が塔婆を持って参る(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)
・塔婆と花を持って参る(和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)
・一本花を供える(枕元の一本花は本葬当日に墓地に供える)(和歌山県旧那賀郡粉河町野上:平成初年代)
・配偶者が先に一人きりで墓に参る(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・男性がサンマイに行って埋葬地の周囲に川原で拾ってきた石を積む(大阪府河内長野市滝畑:昭和50年代)
・男性がサンマイに行って埋葬地の上に平たくて丸い石(笠石)を置く(大阪府河内長野市滝畑:昭和50年代)
・女性らが墓に参る(山参りという)(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・8時頃に近所の者が埋葬地に参るので、喪主とその家族は墓の下でお礼をし、9時頃に家に帰ると僧侶が来て仏壇に参る。そして2人が付き添いとなって僧侶が墓を参る。再び帰宅して鎌や埋葬に使用したスコップ等の加持をして浄めてもらう(和歌山県旧那賀郡粉河町中津川:平成初年代)
・昨日サンマイに置いた鎌を持って帰る(和歌山県旧那賀郡粉河町中津川:平成初年代)
・サンマイは葬儀翌日以外には参らない(和歌山県旧那賀郡粉河町町方:昭和30年代)
・サンマイには翌日の確認に行くだけで、その後は参らない(和歌山県旧那賀郡岩出町根来:昭和50年代)
・サンマイには翌日限りで以後一切参らないし掃除もしない(和歌山県伊都郡九度山町笠木:昭和40年代)
・サンマイに詣るのは死後3年間とされるが、真言宗ではずっと詣ることもある(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
▼サンマイ(三昧)は、翌日以外には参らないという事例がいくつかみられます。三昧と限定していることから、これは両墓制であると考えられます。両墓制における三昧は、参るためではなく埋めるために設けられた場所であって、きちんと埋葬されているかが確認されれば、あとは詣り墓(墓石のある所)に参るということでしょう。
▼墓守や有志がきちんと管理している場合、三昧は整然として、どこが最近の土盛りなのかが一目瞭然です。一方、管理人の知る三昧はどこも荒れ放題で、鬱蒼とした茂みに囲まれており、詣り墓がきれいに掃除されているだけに、逆にそこが三昧なのだと分かってしまうほどです。火葬が主流となって三昧の存在価値がなくなった今、管理する有志はどうすればよいのかがわからないのでしょう(勝手に整地するわけにはいかないですし・・・)。
▼なお、本葬翌日の墓参り以降は、7日目まで毎日墓参りをし、その間線香を絶やさない(ここでいう「絶やさない」とは、毎日線香をあげるの意)とする地域が多いようです。
2.ミッカボシ
▼ミッカボシ(三日干し)ないしはミッカセンタク(三日洗濯)という、おかしな習俗があります。これは、故人が愛用していた着物を北向きに干して、それに水をかけ続けるというもので、和歌山県北部から奈良県南部にかけてのほぼ全域にこの習俗がかつて存在していました。
▼三日干しは、「故人の霊魂が火の山を越えなければならないから」「故人の霊魂が死亡後三日目に火の山を越えるから」という、仏教上の観念に由来した行為であると考えられます。
▼三日干しの行為主体は、例外なく女性です。これは、被服や洗濯などの家事を女性がつかさどっていたという性別役割分業上の歴史があったためと考えられます。
・女性(奈良県吉野郡野迫川村今井:昭和40年代)
・遺族や血の濃い親戚の女性(大阪府河内長野市:年代不詳)
・近隣の女性(和歌山県紀北地域:昭和50年代)
▼次に、三日干しを行う期間については、以下の事例があります。
・本葬翌日(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・本葬後3日間(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・本葬翌日から3日間(大阪府河内長野市:年代不詳,和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:昭和50年代)
・一週間(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)
・本葬翌日から7日間(奈良県吉野郡野迫川村今井:昭和40年代,大阪府河内長野市滝畑:昭和50年代)
・本葬翌日から四十九日まで(大阪府河内長野市流谷:昭和50年代)
・死後3日目から初七日まで(和歌山県紀北地域:昭和50年代)
▼以上のように、三日干しの実施期間は仏教儀礼のスケジュールと連動しています。三日干しにおける「故人が火の山を越える」という理由付け自体が仏教思想によるものであることから、三日干しは成仏儀礼の一つであるといえるでしょう。
▼次に、三日干しの作法については以下の事例があります。
・故人が生前着用していた着物を洗って北向きに干し、水をかける(和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:昭和50年代)
・故人が生前着用していた着物を洗って北向きに干し、絶えず水をかける(大阪府河内長野市流谷:昭和50年代)
・故人が生前着用していた着物を洗って北向きに陰干しし、ときどき水をかける(大阪府河内長野市:年代不詳)
・故人が生前着用していた着物を北向きに干し、乾かないように水をかける(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・故人が生前着用していた着物を北向きに干し、一日中乾かないように絶えず水をかける(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・故人が生前着用していた着物を北向きに陰干しし、乾かないように水をかける(奈良県吉野郡野迫川村今井・弓手原:昭和40年代)
・故人が生前着用していた着物を日蔭に干し、乾かないように水をかける(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)
・故人が生前着用していた着物や布団を洗濯し、絞らずに北向きに干し、昼夜そのままにしておき、乾くとさらに水をかける(和歌山県紀北地域:昭和50年代)
・故人が生前着用していた着物を一着だけ朝9時頃から夕方まで北向きに干す。このとき、盥に水を入れておき、着物が乾かない程度に水をかける(和歌山県旧那賀郡粉河町野上:平成初年代)
・故人が生前着用していた着物を朝のうちに洗濯して干す。何度も着物に水をかけ、そのまま夜干しをする(和歌山県旧那賀郡粉河町野上:平成初年代)
・故人が生前着用していた着物をこの翌日まで出しておき、お参りに来てくれた人に水をかけてもらう(和歌山県旧那賀郡粉河町北長田:平成初年代)
・これをするのは、生前に熊野参りをしていない者が死んだときだけともいう(奈良県吉野郡野迫川村今井:昭和40年代)
▼以上の例から、まず着物を洗濯し、次に北干し(陰干し)をし、そして乾かないようにときどき水をかけるというのがデフォルトのようです。三日干しの実施期間が終わった後、その着物をどうするのかという事例は見当たりませんでした。
▼三日干しのイメージを明瞭にしたいと思い、写真を探しましたが、なかなか見つからず苦労をしていたところ、なんと兵庫県の『川西市史』にかろうじて一枚掲載されているのを発見しました。なお、このページのタイトル写真は、洗濯した着物を川原に干している様子(これも三日干しである)です。
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▼蘇生儀礼や絶縁儀礼には奇怪な習俗がやたら多く、それは成仏していない、邪悪な故人の霊魂をなんとかして制御しようとする意志の表れでもありました。それが、成仏儀礼のステージに移行すると、そうした邪悪な霊魂に対する生者の意志と努力の痕跡が認められなくなり、単なる仏教習俗上の「制度」に従うだけの儀礼となり、生者の主体的な努力という性質が失われていきます。
▼また、成仏・追善的な仏教習俗は、仏教の教義や内容云々ではなく、現実に、生者が平穏な、通常の社会生活に徐々に再適応していくための時間であるともいえるでしょう。
🔸🔸🔸このシリーズはもうすぐ終了、それでも次回につづく🔸🔸🔸
文献
●賀名生村史編集委員会編(1959)『賀名生村史』賀名生村史刊行委員会.
●堀哲ほか(1979)『近畿の葬送・墓制』明玄書房(引用p56).
●河内長野市役所編(1983)『河内長野市史.第9巻(別編1:自然地理・民俗)』河内長野市.
●川西市史編集専門委員会編(1977)『かわにし:川西市史.第7巻(文化遺産編)』川西市(引用p401).
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県那賀郡貴志川町共同調査報告」『近畿民俗』82、pp1-28.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅰ)」『近畿民俗』83、pp3369-3436.
●粉河町史専門委員会編(1996)『粉河町史.第5巻』粉河町.
●松本保千代(1979)「和歌山県の葬送・墓制」堀哲他『近畿の葬送・墓制』明玄書房.
●那賀郡池田村公民館編(1960)『池田村誌』那賀郡池田村.
●野田三郎(1974)『日本の民俗30和歌山』第一法規出版.
●野上町誌編さん委員会編(1985)『野上町誌.下巻』野上町.
●野迫川村史編集委員会編(1974)『野迫川村史』野迫川村.
●沢田四郎作・岩井宏実・岸田定雄・高谷重夫(1961)「紀州粉河町民俗調査報告」『近畿民俗』27、pp888-906.
●玉村禎祥(1972)「紀州岩出町の民俗―人生儀礼―」『民俗学論叢:沢田四郎作博士記念』pp88-95.
●東京女子大学文理学部史学科民俗調査団(1985)『紀北四郷の民俗:和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保』東京女子大学文理学部史学科民俗調査団.
●打田町史編さん委員会編(1986)『打田町史.第3巻(通史編)』打田町.
※各事例に付記した年代は、文献発行年の年代(例:昭和48年発行→昭和40年代)とし、その文献が別文献から引用している場合(=管理人が孫引きする場合)は原文献の発行年の年代を付記した。但し、文献収集の段階で現代の市町村史が近代のそれをそのまま転載している事例がいくつか判明した(例:昭和中期の『●●町史』が大正時代の『●●郡誌』を転載、昭和中期の『●●町史』が昭和初期の『●●村誌』を転載、など)。したがって、事例の年代に関する信頼性は疑わしく、せいぜい「近世か近代か現代か」程度に捉えるのが適切である。