そんな夜
いよいよこれは何のためにやっているのか、分からなくなってきたぞ、と午後4時を少し回ったところで夏元は思った。6時間前から彼の眼前のパソコンには「スキー、好き好き、キス」とだけ書かれていた。その歌詞の絶望的なセンスのなさと、それを求める需要の存在が彼をここまで追い詰めたのだ。表の通りを断続的に通り過ぎる部活帰りの高校生の集団の歓声が、彼に「もう諦めろ」と唆しているようにさえ聞こえた。
夏元は自分が書いた詞に対して、少しも愛着を持っていなかった。そこにあるのはただ「売れそう」とか「若い女が共感しそう」といった、商品に対する冷静な評価で、趣味で小説を書いていた学生の頃のような言葉に触れる喜びや感動はなかった。
彼の生業は、芸術というよりも栽培や漁に近かった。決まった時間に机に向かい、デモ音源を聴きながら、しかるべき詞を頭の中から採ってくる。するとその詞が市場に出回り、そこそこの高値がつく。空しい職業だよ、と親しい友人に漏らすこともあったが、自分が受け取っている印税の額を思うと、そんな愚痴を言うのも憚られる気がした。
だいたい31才にもなってスキーをやったことすらないのに、スキー場のテーマソングの仕事を引き受けたのがよくなかった。俺だってそろそろ仕事を選んでもいいキャリアになっているんじゃあないか。彼はもはや、この仕事を放棄する言い訳を何とか見つけようとしていた。
夏元はシミひとつない真っ白な天井を仰ぎながら静かに絶望してパソコンを閉じた。そのとき彼の部屋に流れていた音楽らしいものといえば常に強(きょう)にしてある空気清浄機の、ごうごうという音だけだった。
夕方に人と会う約束をしていた夏元は、シャワーを浴びて、風呂場でヒゲを剃ってから、外出用の服に着替えた。洗面台の鏡に映る彼の姿は、大学生のころからほとんどアップデートされていなかった。
彼は自分の外見について、社会に揉まれて、腹が出たり禿げあがったりしてしまった同級生たちよりはましだろうと思っていた。だがしかし、鏡を見ると自信をもってそう言い切ることもできないような、釈然としない気持ちになって、少し首を傾げたまま家を出た。
「きみの仕事はもしかしたら教科書に載るかもしれない、さすがに教科書は無理かもしれないけど、国語便覧くらいにだったらきっと載るよ。俺はどうだろう?カラオケの背景映像に、ちょこっとだけ名前が載って、それでおしまいじゃないか。今どき誰もCDなんて買わないし、歌詞カードも読まない。俺の書いた歌詞なんて、十年後にはみんな忘れてるよ」だいぶ酔いの回った夏元は、慰めてもらう前提で、くだを巻いた。
「確かに。あんたはクソみたいな歌詞ばっかり書いてるもんね。こないだの映画の主題歌もサイアクだった。なにあれ?『青春のときめきは プライスレス』って、ああおかしい。エンドロールであんたの顔が浮かんできて、笑いそうになっちゃったんだから」彼と小学校以来の付き合いである友人の近田は、けらけら笑いながら言った。
近田はそれなりに有名な作家だった。出版パーティでは「黙っていれば美人なのになあ……」と、数多くの老作家たちに溜息をつかせ、ツイッターではしばしばフェミニストと喧嘩をして炎上するなど、そういったエピソードには事欠かないものの、一部ではカリスマ的な人気があった。
近田の作品は自らの精神世界を高度に抽象化したものだった。彼は近本の作品を読むたびに、彼女のことをより深く理解できたような、それでいて彼の知る近田がどこか遠くに行ってしまうような、不思議な感覚になることがよくあった。彼は、彼女の才能に憧れると同時に嫉妬し、彼女に抱いている好意は余計にくすぐられた。夏元が近田をよく飲みに誘うのは、彼に友人が少ないというだけではなく、そういった下心もあった。
「ひどいよ。近田にそんなこと言われたら、落ち込んじゃうじゃないか。おれは慰めてもらいたかったのに」
「あら、夏元が自分で言ったんじゃない」近田は悪びれる様子もなく答えた。
「これは嫌味じゃなくて、マジな話だけど」と前置きをしてから三杯目のジョッキを空にすると、近田は言った。
「一切の作家性を排除して詞を書けるなんて、大した才能よ。どんな詩や文章だって、普通はその人のクセが出るんだから」
「あんまりうれしくないけど、ありがとう」
「褒めてるのよ。誰のものでもないからこそ、誰のものでもありうる。だからあなたの歌詞は老若男女に支持されてるんでしょう?」
「そうかもしれないけどさ、それって格好悪くないかい? 客ウケだけの漫才師みたいなことだろ?」
「いいじゃない、それでも。それともなに、同業者に評価されたいの?」夏元らしくない、と言いたげな表情で彼女は訊いた。
「いいや、そんなことはどうでもいいね。あいつらも俺と同類だ。くだらない連中だ。ただ、今の仕事には手ごたえがないんだよ……自分にしか作れないものを作っているという手ごたえが。俺はただ、自分が生きた証を後世に残したいだけなんだ。つまり……紫綬褒章とかを貰いたいの!」ろれつの回っていない夏元は、なんとか言葉を絞り出した。
「ほんと低俗なやつ!そんな考えだから、ひどい詞しか書けないのよ」近田はくすくす笑いながらそう言った。夏元には、ぼんやりとした視界に映る、無邪気に笑う幼馴染の赤く染まった頬と白くて長い首の色彩が、これ以上ないほど好ましく思えた。
「あんたは文学を愛しているかもしれないけれど、文学には愛されてないってことよね。かわいそうに」近田のその台詞は、夏元にとって残酷すぎるほど残酷なものだったが、その嗜虐的な笑みの妖しさしか、彼の記憶には残らなかった。
それからふたりは、夜風を浴びながら東中野駅に向かって山手通りを歩いた。通りはオレンジ色の街灯に点々と照らされて、東京の良いところだけを集めたような美しさだった。
いま口を開けると余計なことを言ってしまうような気がした夏元は、自転車用の道と歩道を分ける白線の上をおどけて歩いた。近田も無言のまま、彼の数歩後ろをふらふらと歩いた。すれ違う車のライトが、時折ふたりを照らしたので、その時だけ夏元は「まぶしいな」と呟いた。
夏元は、すれ違う車のナンバープレートの数字を無意味に足したり掛けたりしながら、この後の公算を立てていた。
――この幼馴染は素直じゃないところがあるから、なんだかんだ言って俺のことは憎からず思っているはずだろう。気の強い女ほど意外と押しに弱いらしい。よし、そろそろ仕掛けてみるか。いや、まだ早いな。あの電柱のところまで歩いたらにしよう。こういうのは雰囲気が肝心なんだ。きちんと言葉を選んで……、いや、まてよ。女性作家相手にそんな見え透いた工夫は通用するわけがない、やはり自然体でいったほうがいいんじゃないか。自然体か、自然体ってなんだろう。そもそも俺は自然体でいたことなんてあったんだろうか、ますますわからなくなってくるな。あ、もう電柱を通り過ぎてしまった。しょうがないからあのコンビニを通り過ぎたらにしよう。やっぱり俺はこういうことには向いてないんじゃないか。多分向いてる人間だったら、もっと早くに行動を起こして、とっくに近田のことをものにしてるだろう。しょうがない、俺には元から無理だったんだ。やめとこうかな……本当にそれでいいのか? そうやって、本当にやりたいことを埋没させてきた人生の果てが俺なんじゃないのか。ようし、やってやろう。勇気を出せ、夏元。お前ならできる。あのアイドルが紅白に出たのだって、お前の歌詞のおかげじゃないか。そんなすごいやつが目の前の女ひとり抱けないわけはないだろう…………
「ねえ」駅のロータリーが見えたあたりで、近田が長く続いた沈黙を破った。
「緊張してるの~?」彼女は少し前を歩く夏元に聞こえるように、声を張り上げて尋ねた。
「お、おう、何に?」夏元は、彼女の質問がおそらく核心をついているのに気付きながら、知らないふりをして訊き返した。
「私のこと、持ち帰ろうと思ってるでしょ!」恥じらう様子もなく、彼女は依然として大きな声で夏元に訊いた。すれ違ったスーツ姿の中年男性が、ぎょっとした様子でこちらを振り返った。
「お、おう。バレた?」夏元は気恥ずかしさを偽ろうと平静を装った。
「ダサいね!相変わらず」
「このダサさが逆に良いって言う女もいるぜ」
彼女は、ふふ、と微笑んでこう言った。
「私はそんなに悪趣味じゃないわ、安吾みたいな無頼派に抱かれたいの」
「お前も十分悪趣味だよ!」
「そうかしら。大衆に媚び売る作詞家さんよりはましだと思うけど?」
「……おっしゃる通り」実際臆病なだけの夏元は諦めのいい男を演じて、この幼馴染を抱くことをすっかり諦めた。彼は不思議とすがすがしい気持ちで、改札まで近田を見送った。 夏元は自分の部屋に残してある書きかけの原稿のことをふいに思いだした。「スキー、好き好き、キス」という稚拙なフレーズに続く詞が、今となっては無限に湧いて出てくるような気がして、どうしてだろう、と心の中で首を傾げた。
「じゃあね。夏元先生。ご期待に沿えず申し訳ありません」彼女は最後までどこか夏元をあざ笑いながらも可愛がるような態度を崩さずに、総武線のホームに消えていった。その様子を見て夏元は、この女はおれのことを嫌ってもいないし、好いてもいないんだろうな、と直感した。そう判断する客観的な根拠はなかったが、彼にはそれが正しく思われた。
少し酔いが醒めて、意識のはっきりした夏元は、背すじをすっと伸ばして歩く彼女の後姿と長い首をじっと見つめながら、本当にいい女だなあ、と思った。
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