エッセイ:哲学的ゾンビ/押し付けられるとやらない/考えがまとまらない理由
・哲学的ゾンビ
哲学的ゾンビ、という概念があります。
もうちょっとわかりやすい漫画も貼っておきます。
端的に言ってしまえば、普通の人間と違って意識がないけれども、まったくおなじ振る舞いをするのが哲学的ゾンビだそうです。
しかし、意識がないというのはどういうことなのでしょう。
冒頭の引用のように、「楽しさ」の意識も、「怒り」の意識も、議論の厄介さに対する「苛々する」という意識も持つことがなければ、まったく違う行動をとるはずです。
楽しいからやる、怒りを覚えたから相手に怒る、苛々するからぶっきらぼうな態度をとる。
そういった、感情に基づいた行動をとっています。
ちょっと考えてみましょう。
全く感情がないのに、同じ行動をとれるのであるのなら、意識には感情が関係ないことになってしまいます。
そうすると、引用部分には矛盾が生じてしまいますよね。
さらに、身体的機能のみで同じ行動ができるというのなら、それらに意識と同じ構造のものがあることになってしまうでしょう。
なぜそんなことになるのかというと、意識自体がそもそもにおいて身体的な機能だからです。
だって脳の働きから生まれているんですから。
もし意識が身体的機能から断絶されているなら、わたしたちはどんなに疲れていても超然とした態度をとれるし、人に殴られてももう一つの頬を差し出すでしょう。
ある意味では、すでにわたしたちは哲学的ゾンビなのかもしれませんね。
・押し付けられるとやらない
人は誰かから、これをやれと押し付けられると、逆にやりません。
よく宿題をやれと言われたら、いまやろうとしてるじゃん! って怒る子供がいますよね。
そしてたいていその後もやりません。
仕事だったら誰かにやれと言われたら、立場上、社会の制約からやらざるを得ないといけないからやりませんが、押し付けられた、強制されたと思える頼み方をされたら、内心あまり面白くはないでしょう。
どうしてもやってほしいから、あなたにしかできないから、といったように頼み方を工夫されたり、それが仲のいい友人から言われたものだったりすると、しょうがないな~と思いながら頼られるのが悪くない気持ちでやれます。
依頼はどういったものであれ、相手の行動を制限する行為ですので、言い方やシチューエーションが大事なのです。
この間やっていた、ICEYというゲームがちょうどこの話を上手にうまく使っていたのが印象的でした。
このゲームでは露骨に進行方向の矢印が背景に表示され、ナレーターがその通りに進むようにと言ってくるのですが、そのナレーターの素性が怪しいこと、また横柄な言い方をしてくるので、プレイヤーは往々にして、まずは矢印を無視して進みます。
そうすると、矢印を無視してもストーリーが進むこと、またその先に物語の核心を突くような内容があることに気づく。
そして、プレイヤーはステージごとに矢印、ナレーターの依頼を無視して、なにかあるかを確認してから進むようになります。
ナレーターが押し付けてくることには、反抗がしたくなるように、ナレーターの頼み方やシチューエーションがデザインされているのです。
プレイヤーは自らの意思でナレーターに反抗しているように見えて、実はゲームには誘導をされているんですよね。
真実を求めようとして、むしろ誘導された方向にプレイをさせられている。
なかなかよくできているゲームだなと思いました。
・考えがまとまらない理由
以前書いた誰かの記事にコメントをしている人もそうでしたが、よく考えがまとまってないからどうこう~という人がいます。
なぜ、こういったことを言うのでしょう。
書いてる時点である程度まとまってない?
そもそもまとめようと思えばまとめられるよね?
なんでそんななめたこと言ってるの?
まずまとめてから人に話せよ。
と、仕事だったら詰められてもしょうがない発言です。
この発言は、予防線のための発言です。
テスト勉強してないわ~w、ッカァー全然してないわ~w
って言っている中学生と同じ。
まとめてない、ということである程度不確実なことを言っても許される。
自身の発言に、まったく責任を負わないための発言とも言えます。
まとめてしまって、しょうもないことだったら嫌だ。
まとめた発言で、自身を評価されるのが嫌だ。
そういう気持ちがあるから、考えがまとまらない、というよりまとめたくないのでしょう。
それではまた。