続・三木聡ファンからみた映画『大怪獣のあとしまつ』

映画『大怪獣のあとしまつ』
2022/日本 
監督 三木聡

なぜ三木聡監督の最新作、『大怪獣のあとしまつ』はギャグがスベっていると酷評されてしまったのでしょうか?

このことについて超映画批評の前田有一さんはこう語っています。
「お客さんは、『シン・ゴジラ』で描かれていたような、緊迫感のある政治や軍事シミュレーションを観られると思っていたのだと思います。だけど、実際そんなものは1ミリたりとも観られなかった」
「全然笑えないですよね。ギャグもわかりやすければいいんですけれど、今作のギャグはナンセンス系、脱力系です。三木監督は演劇の脚本も手がけられていますが、なんとなく、舞台演劇風の演出なんですよね。舞台演劇だと、お客さんとの距離が近くて、くだらないナンセンスなことをやってもお客さんは笑ってくれたりするんですけど、映画では距離感が近くないお客さんも集まってきている。『思ってたのと全然違うじゃないか!そんなもん観たくないよ!』っていう、笑う気が全くない、温まっていないお客さんなんですよ。これを、間抜けなナンセンスギャグで笑わせるっていうのは無理がありますよね」


説得力があって、納得できそうな理由です。しかし、三木聡監督は、舞台演劇的な、ナンセンス系脱力系のギャグを、映像(映画)に定着させることが得意な監督なんです(それは過去作を見れば分かります)。それが出来る数少ない人だから、私は三木聡監督のファンなのです! 
それなのに今作『大怪獣のあとしまつ』でギャグがスベっているなどと言われてしまったのでしょうか? 

この映画の最初のギャグはどれなのか


序盤の展開をいくつか追ってきたいと思います(あくまで記憶なので大意だと思ってください)。

(A)まずクラス会で、緊急地震速報によく似た音(映画の中では怪獣の警告音としてですが)を出して周りを驚かせるという笑えない冗談

(B)  西田敏行さんと濱田岳さんがエレベーターで災害対策本部に向かう時に、西田敏行さんが「玄関の前で何の動物が死んでたら一番嫌かなあ?」と聞き濱田岳さんが「猫でしょうか」と返します。それに「ええー猫よりラクダの方が嫌じゃない? ……まあ今はもっと嫌なものが横たわってるんだけどさ」といいう会話

(C)  そして西田敏行さんが災害対策本部に到着して、揃っている閣僚たちに向かって「わざとらしい上着脱いだら?」と発言して、閣僚一同笑います。しかしあまりににぎやかになりすぎた結果、言った西田敏行さんが「うるさいですよ」とみんなを注意。

(D)  災害対策本部で、文部科学大臣の矢柴俊博さんの顔のことを「トンボ顔」だと閣僚一同笑います。

まず(A)ですが、個人的には実際の地震の経験があって本当に笑えなかったですし、これは笑わせるシーンでもないのだと思います(実際、その様子を見ていた土屋太鳳さんは笑っていません)。このシーンはギャグではなく、怪獣を災害に見立てた臨場感を描くのが目的だと思います。なのでその前に、ふせえりさんが出ているニュース番組が映りますが、そこでも(まだ)ふざけたりなどはしていません。

(B)では西田敏行さんが突然「玄関の前で何の動物が死んでたら一番嫌かなあ?」と突拍子もないことを言います。このセリフ自体は、過去の三木聡作品のナンセンスなギャグを彷彿とさせるのですが、その後に「まあ今はもっと嫌なものが横たわってるんだけどさ」と付け加えることでストーリーとセリフが結びつき、怪獣の死体についての思いを伝えた、ギャグよりもシニカルなシーンという印象があります。

(C)はギャグ的なシーンです。西田敏行さんが、みんなの笑うリアクションが会議の進行の邪魔、または場に相応しくない言動になっていることに対してちゃんと注意します。初めて閣僚たちが登場するシーンでもあります。

(D)はストーリーとは全く関係性を持っていないナンセンスなギャグです。

おそらく、この映画にギャグが入り始めるのは(C)か(D)、つまり災害対策本部のあたりからです。そして、そのギャグがスベっていると酷評になっているわけです。
まず、このギャグが入る場所なんですが結構遅いと思いました。
ここまでに、かっこいいオープニングから、クラス会での主人公の山田涼介さんと土屋太鳳さんのシリアスなやりとりがあり、そして総理執務室での西田敏行さんと濱田岳さんのシリアスなやりとりが合ってから、エレベーターの移動(B)をして緊急対策本部のシーンになるからです。

怪獣というものに対して、ここまで映画はシリアスに災害時のような臨場感を積み上げたきました。その後だと(C)も(D)が笑えない冗談になってしまったのだと思います。(A)と(B)の部分はストーリーにおいて意図している笑えない、笑えなくてもいい冗談なのですが、(C)と(D)はストーリーと相性が悪いために、笑いにくいギャグになっているのです。
観客がこの映画の認識を改め、シリアスなストーリー部分と、ナンセンスなギャグパートを切り離して見るようになれば、楽しめるようになる可能性はあります。しかし、それは一般的ではありません。基本的に、観客は映画をストーリーに沿って観ているからです。
こうして、つかみに失敗した結果、ストーリーとギャグの齟齬にそのまま最後までまったく慣れることができなかった、という人たちが大勢出てきてしまったのだと思います。
ちなみに私が観た回ではゲロとウンコのくだりで子供がゲラゲラ笑っていました。子供は、ゲロとウンコにメチャクチャ弱いようです。

『俺俺』以後の三木聡監督作品はあまり笑えない

実は、私は三木聡監督のファンと言っていましたが、2013年に公開された過去作『俺俺』を観た時に正直、あれっ? と思いました。それ以前の三木聡監督作品のように、なぜか素直に笑えませんでした。三木聡監督の何かが変わってしまったんだな、と思いました。
その次に公開された2018年の『音量を上げろタコ! なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!!』も嫌いではないのですが、これも以前のように笑うことは出来ませんでした。

三木聡監督は『俺俺』から何かが変わったと私は思いました。その何かとはなんだったのかを、今考えてみます。

そのヒントが2012年に翻訳されて日本で出版された、カール・イグレシアスという方の著書『脚本を書くための101の習慣 ──創作の神様との付き合い方』という本にある気がします。お断りしておきますが、私はこの本を読んだことがありません。いま大事なのはこの本の内容ではなく、帯の文章を三木聡監督が書いていることです。以下はその文章を写したものです。

「ある日、「これを読め」とばかりにこの本のゲラが届いた。脚本家として一から出直せという意味か? 読んでみて愕然。中に出てくる駄目な例は全部私のことを言っている。もっと早くこの本が出版されていれば…。賢明な脚本家志望の方、脚本家として道を歩き始めている方、私の様にならない為にも何があっても御一読を! そして映画関係者の皆さん『お願いです、もう私を探さないでください』」

この文章を読んで何か嫌な予感がしたのを覚えています。この言葉を額面通りに受け取ると、私の好きな三木聡監督作品を、三木聡監督自身が否定しているようなニュアンスを感じたからです。中に出てくる駄目な例は全部私のことを言っている、というのが具体的にどういうことを指しているのかは分かりません(読んでいないので)。ただ、この本はハリウッド映画の脚本家たちが、テーマに沿ってトピックを答えているという本のようです。
ハリウッド映画のストーリーの基本的な考え方に、コンフリクトをちゃんと作ることがあります。コンフリクト、つまり葛藤や対立などのことです。
一般的なハリウッド映画というのは、主人公が、葛藤や対立に対してどう立ち向かい乗り越えるか、という話になっています。主人公が乗り越えられないような高い壁を乗り越え、とても敵わないような強い敵に打ち勝つ時、感動が生まれます。その感動を生むためには、葛藤や対立がしょぼくては駄目なのです。
そして私が『俺俺』から素直に笑えなくなってしまった、三木聡監督が変わってしまったと思った理由は、そんな具合にストーリーにしっかりとした葛藤や対立を、(ハリウッド映画のように)三木聡監督が強く入れるようになってしまったからだと思っています。これは葛藤や対立がしょぼくては駄目と書いた直後なので、混乱するかもしれません。
ではなぜ、葛藤や対立を強くして、ストーリーがしっかりすると、三木聡監督作品は素直に笑えなくなるのでしょうか。

1つ具体的な作品をあげて説明してみたいと思います。三木聡監督が手掛けたテレビドラマに『時効警察』という作品があります。この『時効警察』いうテレビドラマは、警察官が、時効になった事件を趣味として捜査するという一話完結型の刑事ドラマシリーズです。警察官が事件を捜査し犯人を見つけ出す、というのは刑事ドラマとしては一般的ですが、『時効警察』はタイトル通り事件は時効を迎えてしまっているため、解決しても逮捕などはしませんし(趣味なので)、もしも解決できなくても、あまり困る人はいないことがほとんどです(時効なので)。そして1つの話の中で、容疑者のポジションに毎回1名しかいないため、主人公も視聴者も、犯人は誰なんだろうと特別悩むことがありません。
つまり事件はもう全部終わった(時効になった)あとから捜査が始まり、そして犯人は誰なのかすぐ分かるように出来ています。つまり『時効警察』というTVドラマは出てくる葛藤や対立がものすごくしょぼいのです。その代わりに、捜査の過程でナンセンス系脱力系のギャグがてんこ盛りに出てきます。『大怪獣のあとしまつ』はギャグがスベっていると言われてしまいましたが、この『時効警察』の第1シリーズは第23回「ATP賞テレビグランプリ2006」のドラマ部門で最優秀賞を受賞、2019年になっても続編として第3シリーズが作られており、三木聡監督作品として1番成功しているといってもいいのかもしれません(このテレビドラマは大勢の方が監督・脚本として参加していますが、その中心にいるのは三木聡監督といって間違いないと思います)。
では、『時効警察』は葛藤や対立が強なったら、もっと面白くなるのでしょうか? 実際にやってみましょう。

まず事件を時効を迎えているの設定をやめて、現在進行形で犯行が次々行われている事件にしてみます。そうすることにより、次どうなるのかという、サスペンスが増します。そしてきちんと容疑者を何人か用意して、視聴者に最後まで見ないと犯人がわからないようにします。これでミステリーの要素も強まりました。これで葛藤や対立が以前より強くなったといえると思います。
しかし、まず時効の事件を趣味で調べているという主人公の個性が無くなってしまいましたし、そのことで作品が持っていた独自性が完全に消えています。そして最後まで犯人がわからない事にしたので、視聴者は誰が犯人なのだろうかという興味で最後まで見ることになってしまいます。すると元々あったナンセンス系脱力系のギャグというのは、犯人が誰か気になっている状態で先を見たいと思っている視聴者にとっては、ギャグは笑うどころか邪魔に感じてストレスになってしまうのです。ナンセンス系脱力系のギャグは披露するたびに、捜査の進行が止まってしまう要素を持っているためです。

今のは、少し極端な例かもしれません。もちろん、葛藤や対立がしっかりしたことにより、ストーリーは面白くなり、ギャグもより笑えるようになる、というやり方もあるのだと思います。ただ、ハリウッド映画のセオリー通りに葛藤や対立をちゃんと設定し、ストーリーを強くしまうことによって、ギャグはストーリーの邪魔となってしまい、ストーリーは面白くなったが、作品は面白くなくなってしまうということが起きる可能性はあるのです。
映画やドラマの面白さはストーリーで決まる、と思っている人も大勢います。もちろんほとんどのエンターテイメント映画はそうかもしれません。しかし『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』という公開されてから何度もリバイバル上映が行われている人気の映画があるのですが、この作品の面白さはストーリーなのでしょうか? この作品は、ストーリーはあまりにシンプルなものです。しかしそれでも人気が出たのは、ストーリー以外からも映画の面白さを受け取れる観客が大勢いたからだと思います(この映画を爆音上映という、通常より音量を上げて上映する映画館も現れたのも、ストーリーとはまた違うところを楽しんでいる証だと思います)。
そして『俺俺』より以前の三木聡監督作品も、ストーリーではないところに魅力が溢れているタイプの映画だったと思うのです。三木聡監督の初期の映画が好きな人も、キャラやギャグや世界観が好きという人はいても、あのストーリーが好きという人はあまりいなかったのではないでしょうか。
通常のエンターテイメント映画のエンジンを担うのは、ストーリーです。ストーリーがエンジンとなって、観客を映画持つ運動性に巻き込んでいきます。
観客はストーリーに沿って映画を観るからです。
しかし三木聡監督作品は『俺俺』以前、ストーリーが映画のエンジンとなっていたわけではなく、ナンセンスなギャグ自体がエンジンとなって、映画を動かしていたと思うのです。観客はストーリーに沿って映画を観ています。しかしストーリー以外の部分も当然観客は観ています。ましてや、ストーリーがシンプルだったり、弱かったりすると、観客はますますストーリー以外の様々なものを画面から探し出そうとします。そして、そこにストーリー以上の魅力的なものを仕込むことも、珍しいかもしれませんが、可能なのです。

しかし、ハリウッドの影響を受けた三木聡監督は、『俺俺』以後は、ストーリーを映画のエンジンに据えて、ギャグはそのストーリーに沿える形で入れるという形に変化しました。
そのスタイルの変換が分かりやすく悪い方に出てしまったのが、今回の『大怪獣のあとしまつ』だと思います。
しかし、ストーリーを映画のエンジンに据えるというのは、エンターテイメント映画にとってごく当たり前のことなのです。
それなのになぜ三木聡監督作品においては、うまくいっていないのでしょうか?

そもそも三木聡監督作品の魅力とはなんだったのか

『大怪獣のあとしまつ』のパンフレットに載っている濱田岳さんのインタビューを読んで気づいたことがあります。西田敏行さんとのコンビについて聞かれた濱田岳さんは

「可愛らしく、国民から愛されそうな総理と、ドライに仕事を進める秘書官なので、キャッキャッと会話が弾けることは無いのですが、どうしても西田さんとイチャイチャしたくなってしまうんです。そういった気持ちを抑えるのが大変でした(笑)」

と答えています。今回の濱田岳さんの役は、腹に一物あるタイプの悪役(のような)ポジションです。そして『大怪獣のあとしまつ』で描かれるストーリーとは官僚たちの権力争いという、まさにコンフリクト、葛藤と対立です。その争いの中心人物としては、キャッキャッと会話弾けて、イチャイチャするわけにはいかなかったのでしょう。
しかし、三木聡監督独自の映画の魅力というものには、このイチャイチャが、実はかなり大事な要素だったのではないでしょうか? 考えてみると三木聡監督作は『俺俺』以前、出てくる登場人物がみんなイチャイチャしていたと思うのです。

『俺俺』より前の作品の『転々』という映画の中に、妻を思わず殺してしまったため警察に自首しようとしている男が出てきます。しかも、その男はかなり悪い病気を患っていて、あまり命が長くないような気配もあります。現実的に考えるとこの設定はかなり重いはずなのですが、映画を観ていても、葛藤も対立も特別感じることはありません。なぜなら、画面に出てくる人物たちの間では、常にナンセンス系脱力系のギャグが飛び交っており、ずっとイチャイチャしているからです。
物語の途中、男が殺してしまった妻というのは、ひょっとしたら自分と一夜を共にした女性かもしれないと主人公は思います。これはサスペンスです。ここで葛藤が一瞬現れますが、男から妻の写真を見せてもらうとすぐ別人だとわかり、葛藤は早々に終わります。主人公は安堵のあまりホーミーを吹き続けて、そして男はその様子を不思議そうに眺めています。
さらに殺してしまった妻の勤め先の3人組が、連絡もなく出勤してこないのを心配して家に様子を見にいこうという話になります。男は、家に死体を置きっぱなしなので、この3人組が家に行くと死体が見つかってしまうのです。ここもストーリーとしては、サスペンスの部分のはずなのです。3人組はずっとイチャイチャとおしゃべりをしているうちに話が脱線し、なかなか家に向かうことができません。ようやく家に向かうまでは出来ましたが、途中で岸部一徳さんを見つけてしまったことがきっかけでエキストラとしてドラマの撮影に参加することになり長時間拘束されてしまいます。結局3人組はイチャイチャし続けているせいで、サスペンス(ストーリー)からも脱線してしまい、とうとう死体を発見することは出来ませんでした。
ストーリーが終わりをむかえ(この終わり方は実は泣けるのですが)、エンドロールが流れ終わった後も、相変わらず3人でイチャイチャしている姿が現れます。
ストーリーに、サスペンスは入っているのですが、葛藤と対立が弱すぎてストーリーの中で機能していないのです(おそらくこの3人組のシーンをサスペンスを担っていると気づかず、ただの笑えるコメディーパートだと思っている人もたくさんいるのではないでしょうか)。

描かれる葛藤と対立は弱いのでストーリーは薄い、それにも関わらず(それだからこそ)映画は面白い。それが『俺俺』以前の三木聡作品だったのではないでしょうか。なぜ面白いのか。
まずそこでは、ナンセンス系脱力系のギャグが数珠つなぎで大量に披露されます。その物量と映画の運動性は、コメディーというよりも、レビューというジャンルの方が近いのかもしれません。
このように、ストーリーが薄い状態で、映画の画面からイチャイチャがずっと続くと、イチャイチャが独自の磁場を生み始めるのです。イチャイチャの磁場という言葉を説明するのは難しいのですが、多幸感と置き換えてもいいかもしれません。
イチャイチャの磁場が発生し、その磁場がストーリーすらも飲み込んでしまっている状態、それこそが、三木聡監督の独特の世界観であり、大きな魅力だったのではないでしょうか。

しかし、今回の『大怪獣のあとしまつ』のストーリーは弱くありません。怪獣の死体を前にした閣僚たちのパワーゲーム、という明確な葛藤および対立構造があります。はっきりと対立してる間柄が示されているので、いくらナンセンス系脱力系ギャグを連発してもイチャイチャの磁場は発生しないのです。
『シン・ゴジラ』という怪獣映画では、あまりの政府の上層部の迷走ぶりに高良健吾さんが「こんなことやってる場合かよ」とつぶやくシーンがあります。
その「こんなことやってる場合かよ」というところに、現実に即したリアリティで政府を描ききった庵野秀明総監督であり、そこにナンセンス系脱力系のギャグで埋めたのが三木聡監督です。だから『大怪獣のあとしまつ』でギャグが始まる箇所が、主人公と関係ない災害対策本部からなのだと思います。意図もなくギャグが出てきているわけではなく、ストーリーを優先したうえで、ギャグの配置する場所は決められているのです。

それは一見いいことのように見えます。
しかし、ハリウッド映画の手法を学んで、ストーリー(コンフリクト)をしっかり作るようになった結果、三木聡監督は最大の武器であり魅力だった、イチャイチャの磁場、が映画の中で発生しなくなってしまいました。

それにこの映画も悪いところばかりじゃありません(めっちゃ叩かれてますが)。山田涼介さんはカッコよく撮られているし、その部下のSUMIREさんもチャーミングです。しかし私は

やっぱりオダギリジョーはすごい

と思いました。演じている役柄は、元特務隊・隊員という政府の下で働いていた爆破に関してのプロフェッショナル、みんなからブルースとよばれている(本名、青島涼)、長いドレッドヘアーの日本人です。
こんな絶対に現実にはいないような男を演じるオダギリジョーさんは、撮影初日に三木聡監督に「ドキュメンタリーみたいにやりたいんです」というふうな言葉を言われたそうです。

他の役者という職業の方が、この立場の時にどういうリアクションするのか、素人なので分かりませんが、オダギリジョーさんはその言葉に対して「あまり説明的な芝居はしないでおこうと思いました」とごくあっさりした反応なのがすごいと思いました。
絶対現実にはいないだろうという役柄を、ドキュメンタリーのように演じる。その矛盾を平気で抱えることができる役者なのだと思います。


長々と書きましたが、以上が三木聡ファンからみた『大怪獣のあとしまつ』の感想になります。ここまで読んでいただきありがとうございます。
ではまた三木聡監督の新作でお会いしましょう。

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