けもののからだをりったいにひらいてやる ~『すべて未知の世界へーーGUTAI 分化と統合』展ライブレポ~
僕が具体に出会ったのは10年前。
無名の、いまだ名もなき幽体の、叫び渡る静けさのさなかにぶつかったに違いない。
ヨシダミノルのブルーの肉体を犯すヒップのグリーン、そのキュートな突き出しの感触に打たれた。
どこか妙な感じがした。
性器を木切れでくすぐられるような。
てっきり現代絵画のニューカマーだと思い込んで慌ててキャプションを見ると、制作年は1956年。
1956年!?
ポロックやロスコと同時代の日本にこんな画家がいたなんて!
だから僕が出会ったのはあんたらが酒のツマミに盛り上がっている“GUTAI”とかゆー抽象的なムーブメントではない。ヨシダミノルという無名の人物の具体性に出会ったのだし、その生きた感触に触れたのだ。
いや、触れられた。
抽象は触ってくる。
余裕の片頬だけ吊り上がる笑みを浮かべながら、キュートに。
それがさも当然であるかのように。
ポルノちっくに朗らかな握手は、なぜか抽象画でしか起きない。
中学二年生の時、美術の資料集を飽かず眺めていた僕は、ジャクソン・ポロックの『No.5』に衝撃を受け、サルバドール・ダリの『記憶の固執』にうっとりし、ルネ・マグリットの『血の呼び声』を見て静かでおそろしい夜の森の木立ちをあたまに広げていた。
最初から恐怖と官能、戦慄とわななきはひとつのものだったし、絶頂の瞬間ピンと張り詰めるおにんぎょうの痙攣する手足にようやくそれを感じ取るような鈍い輩は消えてなくなってしまえ。こちとら中学の頃からクールにぶっ飛んでる。
絶頂しながら世界をくすぐって生きていくのだ。全身を小刻みに痙攣させながらあいつらを笑わせてやるのだ。笑って笑って笑い死ぬまで。誰にも見放されたひとかたまりの肉となってすべてが真っ白な白熱の中に焼ききれるまで。突如の白痴の衝撃で脳髄を叩き割ってやる。
抽象は語りかけてこない。
ただそれは衝撃として、時間と空間が切り結ぶ今ここを占領するはしたないからだのモノ性として、いるだけ。
だらしないのだ。
エロティックで、かっこよく、冷たい。けっして逆らえないともだちのように軽々しく僕のからだに触れてくる。
抽象は苛立たせる。
ひどくからだの感覚を刺激する。
皮膚を裏返しミキサーで掻き回して内と外の仕切りをごちゃ混ぜにする。
「なに言ってんの?最初からそうだったじゃん(笑)
ずっとそうだよ、君は。ぐちゃぐちゃなのが、当たり前。
もし君が言うようにほんとに仕切りがあるなら、なんで僕が今君に触ってるの?
貫通してるんだよ、これ(笑)」
不敵なやつ。まったく許しがたい。
触れているときかならず触れられている主客のまぜ返しによって行き渡り充満してゆく知。この一滴一滴の脈動。だからたぶん、視神経の呪わしきジャンクション。あの手品のような立体交差の交わりにだけうそがあるのだ。
目だけが一方的にモノを掴む。
見られることなくして対象を見る目の欺瞞を、抽象はモノそれ自体の行為の具体性によって暴き立てる。
「君が僕を見ているように、僕も君を見ている。
当たり前でしょ?(笑)」
抽象はいつも具体的だし、はちきれんばかりに肉感的だ。それは静かに股を開き、蜜のような愛液を滴らせている。
はしたないなあ。
支配はもう始まっている。
その時きっと、知らぬ間になにかがすり変わっているのだ。
それぞれがからだの奥深くまで流入し、手を繋ぎながら互いの存在を食いあっている。
その残酷さに耐えうる残虐を身の内に飼っていない人間に、抽象は見れない。
見えないのだ。
見られることを深く許し、諦めうなだれていないからだに見る官能は開かれない。
しかたのないことだ。
ほかにしようのない、関わるための犠牲の営み。
ヨシダミノルに見られたとき、僕は見られるこわさを許したし、作品の肉体にじぶんのからだを開いた。
興奮したまま、からだがざわめきを湛え発光したままその忘れ形見を持ち去り、すぐさま調べてみる。
“ヨシダミノル 画家”
具体美術協会。
1950年代に兵庫県芦屋市で結成された芸術家グループ。
こうして僕はひとりきりの孤独の中で、見放された肉体の実存において具体を発見したのだ。
それが10年前。
ひとりきりの発見は神からの啓示。殉教者の飢(かつ)えはいつか見出された旅路を逆向きに辿ることによってでしか満たされ得ない。
あちこちの美術館を回って、僕は具体の作家たちを新たに発見していった。
だからこの10年のうちに世界とかゆー醜い全体がGUTAIを見つけたとて、いったいそれになんの意味があろう!
いつだって作家と作品は、人間と人間は一対一だ。命がけのからだがそこにベットされていなければ意味がない。
とはいえ、僥倖かな。
このたび実現した『すべて未知の世界へーーGUTAI 分化と統合』展。
大阪の中之島美術館と国立国際美術館の、なんと二館同時開催。
国内初となる大規模な回顧展だ。
あらかじめ歴史に書き込まれている出来事の一部になる苛立たしいような経験の幸福。
展示は圧倒的だった。
すべてが確信と「あいつらといっしょに、あいつらよりおもろいことやったんねん(笑)」という関西的おもしろがり精神に満ちていて、どの作家・作品にも文句のつけようがない。
とにかく中途半端がいっさいないのだ。
やったらやる。
やりはじめたらやりきる。
やってやる。やってやる。やってやる。
どないしてでもあいつらよりおもろいもんつくったんねん!
いやたぶん、もっとずっとリラックスした緊張があって、とにかくやっていて楽しくて楽しくてしょうがない、無我夢中の高揚が生まれていたのだろう。
あっという間に独立した個人と個人による“集団制作”の哄笑と熱気のただなかに放り込まれる。
具体は、同時代のポロックら抽象表現主義やアンフォルメルらの動向と共振しつつ、固定化された絵画概念を自在に拡張し、制作のメディウムとしての“えふで”を絵筆から解き放ち、意味ではなくモノとヒトの実在の重みをその具体性において信じた。
戦後芸術の中心地がパリからニューヨークに移り、二度の大戦を経て瓦礫の焦土と化したヨーロッパに代わりアメリカが活きのいい若者として新たに登場してきた1950年代。若くしてニューヨークに渡ったオノヨーコや草間彌生は偉大な先駆者だが、あちらさんからの輸入翻訳を避けあえて日本に踏み止まることで独自進化を遂げた具体美術協会の作家たち=“GUTAI”は、現在、ダーウィンにとってのガラパゴス諸島のように世界から再発見されつつある。
今回初めて大量の作品を一度に見ることができ、こうした変異の要因は集団性と関西的おもしろがり精神にあったのではないかと強く感じた。具体が兵庫や大阪の地で盛り上がった事実はことのほか重要だ。
なにも絵筆だけがわれわれと絵との繋がりを媒介する“えふで”である必要はない。身の回りにあるものならなんでも、それを使ってわたしが描きたいと思えるようなものならなんでも、“えふで”と呼んで差し支えないのではないか?
こうして彼らは、土を、草を、ガラスを、和紙をえのぐに変え、足を、コテを、そろばんを、電動振動機を、自らのえふでとして変質させていく。
だがそれは、作家としての自己像にしっくり来るメディウムの探求というよりはむしろ、「こんなんやったったらおもろいんちゃうかな。あいつ笑てくれるかな。よっしゃ笑わしたろ(笑)」という関西ノリのくすぐり合い合戦としての自由闊達な魂の交流であったように思う。
具体の作品たちが持つ異様な明るさはここから来ているのではないだろうか?
勘違いされがちだが、僕は暗いのは大っ嫌いだ。
己の暗がりを作品として現に存在させるためには、その暗さに呑み込まれぬだけの圧倒的な爽やかさが、なにものにも犯されぬ自由な魂の健康さがなければいけない。
ただ暗く陰鬱なだけの作品のみっともなさは、自分一人では処理しきれぬ泥のような自我を他者に押し付ける無責任さ、作家として生きる覚悟のない弱々しいロマンティシズムを明かしている。そーゆーものに出会うと僕は、おい貴様シャキッとしろー!と思わず怒鳴りつけたくなる。
ちゃんとした人間が、ちゃんとした人間であり続けようと努力している人間が、作品の中では安心しきって堕ちていく。
その眩い落下の瞬間にこそ、エロティシズムの熱損失が生にしがみつくエネルギーに変換されてこそ、こちらのからだに触れてくる具体性の指を得るのだ。
ほんとうは、前衛というやつはみな呆れ返るほどにすこやかで健康なのだ。
僕が具体を好きなのは、からだにいい笑いと実験のさざ波を体感できるからなのかもしれない。
すべてが素晴らしく、限度がなく、楽しく心地良い爆発に満ちているなか、やはりヨシダミノルの絵画の妙なキュートさ、双子のきょうだいのような色のまぐわり方にはなにか非常に違った感触がある。
だがそれは、具体の首謀者・吉良が説明を嫌ったというエピソードとは異なる意味で、“説明”を付け加えなくてもいいもののように思う。
ずっとずっと、心に留めたまま、歩きながら考えるぼんやりしたスピードでつきあっていけばいいのだ。
だが·····
中之島美術館の展示の最後に置かれた白髪一雄の絵はそうもいかない。
白髪は天井から吊るした縄に掴まり足で絵の具を直接掬いとって描いた。手の弱々しい繊細に比して新たに呼び覚まされた足という“えふで”は自らの力強い野蛮をみずみずしく開放する。
そのこわさ。おそろしさ。息苦しさ。
窒息するほど美しい内臓のあたたかな衝迫。
もうこれだけでいいや。
ほか、いらない。
こいつに比べりゃあ、他のやつらがやってることなんて方法と戯れるだけのお遊びじゃないか·····
断っておくが、展示作品はみな例外なく素晴らしい。その上でなお、そう思うのだ。
それほどの輝きが、死に物狂いの闘争の痕跡が、一人の人間としての圧倒的な意思の力が、白髪の絵からは放たれているのである。
触る、なんて尋常なもんじゃない。
こいつは裸に剥かれたからだの暴力だ。
毛皮と油絵の具を使って描かれた真っ赤な絵。人体をかっぴらいて取りだした内臓を高速度で壁に叩きつけたかのような。無惨。その一字が浮かぶ。
思わずんぐっとえづいて吐いてしまいそうになる。
対決だ。からだとからだの、たましいとたましいの避くべからざる対決。
この絵の前面が大量の吐瀉物で飾られてなきゃ嘘だ。なにかが今この瞬間、激しく嘘なのだ。
本気でそう思いながらなお見続けていると、不意に、きらきらと光り輝く色彩の清涼な塊のように見える瞬間もあって、不思議な気分になる。
暴力の極限的な高まりのさなかにのみ現れる凪いだ静けさ。
その穏やかさに揺すぶられ、呆然と立ち尽くしたまま、そこにいた。
後年、油絵の具に含まれる化学薬品にじかに擦れ合い続けたせいで、白髪の足は壊死したという。
こわれるのだ。
抽象は、最後には壊れる。
人間の具体性によって破壊される。
白髪の絵は僕にこう言う。
とても残酷な、耐えがたいまでにスウィートな声で。
「俺はおまえを見ている
おまえは俺に出会っている
既にして、もう
いやずっと前から
おまえは俺に出会っている
それは避けられなかったのだ
避けられるはずもなかった
取り返しがつかない出会いを、俺がおまえのからだに植え付けてやったから」
くっくっ、とそれから少し笑って
「けもののからだをりったいにひらいてやる」
ああ。
とうとう僕が絵になる時が来たのだ。
えのぐに溶けていく内臓の疼きをかすかに感じる。
その場所に手をやり、うなだれる。
「大丈夫だ、大丈夫。
すべてがもう·····」
目眩と痙攣の爆発の中でハレーションのように瞬きながら。
やがて真っ白に燃え尽きるまで。
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