大人の夏休み
天国の気温設定がされた事務所から、人間などお構いなしにお天道様が照りつける外へ出ると、日傘を差す大人たちをすり抜けて、はしゃぐ声をあげた子供たちが駆け抜ける。
こんな時間に?と疑問に思った数秒後に、彼らはもう夏休みだと気がつく。
社会人には待てど暮らせど夏休みは訪れない。
せいぜいお盆休みが数日。なんとも寂しい話よ。
けれども、ちょうど繁忙期を抜けてきたのだから、夏休みだと思い込んでいい気がしてきた。
夏休みだけどちょっと習い事があるのよね、とませた小学生風に職場へゆく。
こんな調子で休みもろくにないのに、自主的に夏休みの宿題をしている。
ある種のマゾヒズムかもしれない。
1日1枚、写真を撮っている。
1日1枚、構図を意識して写真を撮るだけ。
見栄えの良い写真作品を作るのではない。
あくまでも構図の勉強なので、カメラにもこだわらなくていい。
私はスマートフォンで撮影している。
これは先日読んだ『絵はすぐに上手くならない』という本で紹介されていたトレーニング方法である。
本書内ではワークがあって、自己分析ができるようになっているのだが、壊滅的に構図力がないという結果だった。
目を見張るような光景のはずが、カメラを通すとなんだかそうでもなくなる、ということが往々にしてある。
自分の目に映る光景が、「なんかいいな」と思ったとき、その感覚をこぼさずにフレームに収めるにはどうすればよいのか。
どの対象物が、具体的にどのようによかったのか。
どのように画角に収めれば、見せたいものが最も目に飛び込むのか。
日頃、ぼんやりと世界を見ている私には厳しいがかなり力になりそうな宿題だ。
先日、noteをはじめて1周年記念のバッジが送られた。この1年間、記事を書かない日もちょくちょくとここを覗いていたので、私にあっているツールなのだと思う。
noteをはじめたのは舞台の演出助手になったことがきっかけだった。
今年の頭に舞台が終わり、配信も終わり、いまは何も関わっていない。
はじめての記事を書いたとき、私は普通のOLでは経験できないであろう舞台制作の役目を終えた先に何があるのか、胸をふくらませていた。
演劇でなくてよいが、せめて芸術であってほしいと願っていた。
私の前にあったのは、「絵を描くこと」だった。
それはどこからともなくやってきたのではなく、ただ私の中に埋まっていたもの。
公演3日目、職場から会場へ駆けつける道すがらアトリエに電話をかけていたのも不思議ではない。
雨が土中のにおいを掘り起こすように、
夢を現実にする人々からこぼれる輝きが土を掘り起こし、かつての夢のにおいを大気中に溢れさせてくれた。
まさに子どもの頃のように、果てしなく長い夏休みが始まったようだった。