ロンドンの大きな木の下で、あなたなら何をしますか?
ロンドンの北側に住んでいる。大きな公園の多いところで、趣味の散歩には不自由しない。ただ歩いて行くにはどこの公園も少しだけ遠い(特に5歳の娘を連れていく場合には)。それで、赤い路線バスに乗る。ロンドン名物にもなっている、どこか古めかしいあのバスだ。うちの北側に2つ、南に1つ大きな公園があり、いずれもバスなら数駅で着く。
公園には平日でもけっこう人がいて、ピクニックをしたり(イギリスでは本当にこれが盛ん)、子供を遊具で遊ばせたり、あるいはベンチに座って本を読んでいたりする。
遊具やベンチが多いのも良いが、何より古い木が多いのがすてきだ。両手で半分も抱えきれないような大木が、散歩道の随所で枝を広げている。それはりすや鳥達の住処でもあり、また人間にとっては陽や雨をしのぐ屋根にもなる。
日本の樹木と比べると、こちらの木は枝が横に張るものが多いようだ。「不思議の国のアリス」にチェシャ猫が木の枝でニヤニヤと笑う有名な挿絵があるが、大きな猫がゆったりと寝そべることができるほどの大枝が、ほとんど地面と並行に伸びているのをみて、違和感のあったあの絵について妙に納得した。
人は、少なくとも私は、自分の力など遠く及ばない自然の大きさにふれると、ゆるされている感じがする。その感覚は、今よりも小さな存在であった子供の頃、おとなたちのなすがままに任せていた甘美な諦めの気分に似ているようだ。
あるいはその雄大な姿に胸を打たれ純粋な気持ちが込み上げてくる、そんな自分が爽やかに感じられるから、ということもあるだろう。
都会の便利さから離れがたい私たちにとって、樹齢を重ねた街の樹々はただ目に鮮やかというだけでなく、思考と感性のスケールを広げてくれる知恵深い師のようでもある。
大樹、特に都会における大きな木というのは、はっきりとした人間の意志がなくては残らないものだ。また戦災や火事を免れる運の良さも必要だっただろう。
街の大樹は、そこに住む人たちがその存在に敬意と感謝を保ってきた証しではないかと、散歩の道すがら思う。