そんなに美しいわけがあるか
見苦しい文章を書きたいと思った。
はじめに
これはかなり個人的であり、ほとんど誰の得にもならない書き物です。いわば、ただ私が先に進むためだけのエゴに満ちたアウトプットです。だけど、ほんの一握り、それでもあえて醜く吐き出したほうがよい可能性を感じるので、あえて書いてみるのです。他ならぬ私が、だれかにこういうことを、恥を晒す痛みに耐えても書いてほしいと思っていた気がするから。だったら私も試しに書いてみればいいじゃないか、と考え至ったのです。
第三者の視点で俯瞰して、わかるように書くということ。十分にはできなくても、せめてそのために努力すること。それすらも今回は難しい、というよりも、あえて放棄したいのです。こと、この件に対しては、私にはなにがどこまで、なぜ伝わらないのか正攻法ではわからないから。いろいろ現実で試行錯誤しすぎて、舌が馬鹿になってまるで味がわからなくなっているのです。考えすぎた創作料理のように…いやまて、私、料理はしないな。しないのに、こんな表現を使うのは、本当は料理に失礼なのですけど。でもたぶん、ある程度は的確だとも思うのでこの言葉を選びました。
書き進めてさらに気づきました。この文章は進むほどひどくなります。ひどくというか、むしろ、むごたらしい感じになります。ここまで読んでいただけただけでも、その奇跡? 偶然? あるいは好奇心に感嘆するしかありません。いつ辞めてもだれも止めませんし責めません。良識というものがあるなら、きっとこんなものを人の目に触れるところには置かないのでしょう。
ある「新規事業」の物語の途中で
「新規事業」という枠組みならではの、不安定さみたいなものの話をしたいと思います。とはいっても、私が便宜上「新規事業」と呼んでいるこの取り組みが、世間一般の「新規事業」のイメージや実態とどれほど近いのか遠いのか、これだけ続けてみても虚像のようです。それでも取り組む前とは比べ物にならないほど解像度は高くなりました。だからこそ直面する課題もあります。ただ、解像度が高くなっても、それだけではなんともならない。そんなアタリマエのこともあらためて見えてきて、より葛藤しています。なにか記したい思いも、絶えることなく内側から出てくるけれど、なにを伝えればよいかがわからなくて、まとまらない。
続く者のため、自分をときに称えて
理不尽だけど一面正しい現実の中で、とにかくジタバタしてまいりました。だてに足掻いたわけでもない。成果だって出ているハズ。どう考えても客観的に悪くないくらいに具体的に。そもそも即物的な成果だけが成果でもないわけで。たとえば、取り組む前にはまったくなかった、いわゆる社会関係資本。もちろん、自分たちがなにかを与えられるばかりではなく、役に立てることを見つけることも、手を取り合うこともできる。そんな双方向の可能性の幹や根。現時点では、世を震撼させる変化ではないとしても。それでもこれは相当着実な一歩。いいえ二歩、歩き出し始めている段階のハズ。
大仰に「見よ私たちの偉業を!」とは言えないけれど、自分で自分をほんの少しほめたって、決してバチはあたらない。ちょっとしたカフェで、いつもよりいいカンジのコーヒーを飲むくらいなら、ちょうどいいじゃないですか。とかまぁ、その程度には。だって、それすらだめならどうなるの? 次に続こうなんて、きっとだれも思わない。だから私はあえて鼓舞して、恥知らずに称賛を浴びせるのです。もちろん、ときどき…たまに、ですよ。
熱伝導と、融けない氷のマンモス
なのに、ふと社内に立ち返れば。なんなんだ? どう火を入れても、温め続けても、見守っても緩やかに関わる関りしろを設けても。なかなか化学反応が見えてこない。反響が完全にゼロではない。ありがたい支援もたくさんある。だけど、それ以上に無邪気に凍り付いて阻んでくる根雪みたいな粘土層があるのです。分厚い万年雪に阻まれているかのように、冷め切ったスープは冷めきったスープのまま。熱伝導率がのド低さが、水はけの悪さが、ちょっと想像以上です。
いや、怒られるのも覚悟でもう少し本音をぶちまけてみましょうか。ある程度想像はしていました。基礎体温の低さ、その正体は分らないけれど、火のつかない異様な湿り気のようなものを感じてはいました。そう考えれば、むしろ予想以上に応えてくれた人たちがたしかにいます。ハッとするうれしい反響をくれた人もいます。なにより仲間がいます。それだけでも「でかした」「よくやった、私」と思わないこともないわけです。しかし、力には勾配があります。そして、どうしてもこの一点を穿たなければ、という要衝があります。そこの硬さ冷たさたるや。それが、想像以上だったんです。助けてくれた一部の方にまで、申し訳なく思うほどに。
がんばればがんばるだけ、外からの(さらに内部の一部の)応援の高まりと、自分たちのたしかな手応えと、浮き彫りになる力の勾配と温度差に愕然として、どんどん乖離していく肌感覚。脳が、その差のもつ意味に、適切なことばを与えることもできなくて。ちょっと気を許せば沖に漂流してしまいそうな、ずっと張り詰めた感じ。もっと熱を伝えるうまい方法が、本当はあるのかもしれません。相手を変えることはできなくても、私は変わることができるのだから。限界突破すれば本当は燃え始めるのかもしれません。たんなる実力不足…と言ってしまえばそれまでのことなのでしょうか。
それにしたって「さすがにどうしてここまで?」と思います。だって、百点満点ではないにしても、伝わっている相手だっているのだから。全部伝え方のせい、私のせいと考えるのも、いささか自責が過剰すぎはしまいか。外部からの反響に関して言えば、そもそも母数が違うのはあるでしょう。関心のある層は、もともと関心があるがゆえに一定は反応するのだとと言われれば、ある程度はそうかもしれません。私自身にバイアスだってある、見たいものを見てしまうことだって絶対にある。でも。それにしたって…という感じです。神話の宿命にも似た、説明がつかない不条理です。
それでも吠えるカサンドラ
ギリシャ神話の神々は基本的にとても理不尽で身勝手で、巻き込まれた人間はたいてい救いのない最期を遂げます。カサンドラもその代表です。自身の予言が届かないことを知りながらも、ギリギリまで言葉を発し続けて消えてゆきます。人々がこのカサンドラに共感するのは、理不尽さや悲劇性においてよりも、最期まで伝えることをやめないからではないでしょうか。人々がという主語がデカすぎるというなら、私は、と言いなおしてもよいですが。
くじけるのが当たり前の状況にありながら、カサンドラは足掻き続ける。そして運命通りに最期を迎える。未来そのものは変えられなくても足掻くことは許された最後の自由だった。「あきらめた」ではなく「最後まで足掻いた」物語になることで伝え聞いた人に残るものがある。吠えるか吠えないかは、選び取ることができる(できない人もいる)。直接自分の未来は変えられなくても、風が桶屋を儲からせるように、なにかを変えることはできるかもしれない。だから伝え続けた、その尊厳と誇りにかけて。あきらめることで楽になることは選ばなかった。そんな風にとらえることもできる。
その苦しみ、恥ずかしげもなく見せよ
同じ立場のだれかはきっとたくさんいるのでしょう。「新規事業」も「創作活動」も、基本的に痛みに満ちています。そういうものだからこそ、苦しい顔も表に出さず、歯を食いしばる。それはもちろん「粋」でありステキです。美学にがんじがらめになるのも、決して悪くない。でも、所詮は人間一匹。弱い。とても弱い。
「新規事業」にはスピードや決断力が要求されるけれど、他方で結果が出ない時期、保証のない孤立無援、冷たい無関心のなかでも、未来を根拠なく信じぬく「気の長い」感覚も必要です。理屈抜きの突破力、あるいはネジの外れたような無鉄砲さ、へこたれなさ。そんなことまで要求されるのだとしたら、苦しみや醜さ生々しさを隠しすぎてしまうのも、むしろ戦略的に愚策というか、そもそも無理があります。こんなよるべのない思いを、ただ抑え込んで、どう乗り越えられるというのか。
醜さが伴わない綺麗な知見の海
「新規事業 悩み」検索…みたいな工夫のないド直球の検索をしても、あるいはAIに尋ねたとしても。そこには「漉し器でなめらかにされた声」しか聞こえてきません。せいぜい「やりたいわけじゃないのに担当になってしまった」「アイデアが出ない」「発想法ではうまくいかない」とか。経営者向けであれば「ちょうどいい人材がいない、育たない」「やる気のある社員がいない」だとか。それに対して「アントレプレナーシップがどうのこうの」「最後は専門家に相談すれば」「そんなあなたに私たちが提供する価値は」など出てきたりして…。
正しいかもしれないけれど、ひたすら畏まって、実際にちゃんとほどほど賢くて。ただ隙がないだけの知見。おそらくは、普遍的に「新規事業」の道標になる断片であろうもの。役に立つ叡智の数々。先達の知恵。しかし、むさぼるように読み続けると、なんだか同じ言葉ばかりが出てきます。無限ループしてる? 終わらない夏休みが続いてる? 「新規事業」の話題のくせして、現れる判を押したような似通った言葉たち。ジワジワと、居心地の悪ささえ感じたりします。
え? 新しい挑戦の話だよね? と。
それも必要、もちろん必要。でも。
そんな美しいわけがあるか
この、まるで神々の呪いのような不条理。「新規事業」を進める先駆者の嘆きに、それをただ純粋にあけすけにさらして、率直に嘆く声がないように感じてしまうのは、なぜなのでしょうか。それすらも言葉にしてはいけないことなのでしょうか? 生産性がないから? 建設的でないから? 読む、聞く相手への思いやり?
たしかにそうかもしれません。でも、それでも率直に語る声がなさすぎるように思えて、逆にとても苦しいとも感じます。もっと本音の、醜くて、エゴにまみれて血を吐くような声が聴きたい。まとまりなくていい、聞きやすくなんてしなくていい。苦しみの末になにかがねじれて、他者への攻撃にまでなってしまっていたら、さすがに聴くのをためらうでしょうけれど。そうではなくてただ率直に。まとまらないだけの悩める声なのであれば、そのまま聴いてみたい。
きれいな知見の「ご覧あれ」だけでは、とてもじゃないけど奮い立たない。世の中に提供したい価値、届けたいメッセージ? 企業の責任、社会の公器? 真摯さとはなにか? つよみは? 意識しなくても夢中になってしまうことは? そういうことはたしかに全部大事で。そして、それはそれでエキサイティングです。つきつめれば、原動力になり、おおいに鼓舞される武器となるはずです。でもちょっときれいすぎるんですよ。
もっと血なまぐさくて、もっと泥臭くて、失敗にまみれて、傷だらけのはずじゃないのですか「新規事業」なんてものは。油断したら転げ落ちるロープの上を、手足の生えたぼろ雑巾が踊り狂っているみたいなものじゃないのでしょうか。生きることそのものみたいに、もっと醜くならないと乗り越えられないモノかもしれなくて。それでも、目指したいなにかがあるからやるんじゃないのか?
暴れる化け物を友にして
そもそも「新規事業」じゃなくたって。自分に嘘をつかず、本気でなにかに挑んだら。ものすごい醜い自分自身に目を背けずに向き合わないといけない瞬間が、何度も何度も訪れる。
ついだれかを呪ってしまいそうな弱い自分、次の瞬間には周りの人のしてくれたささやかなことに、心底感謝していたたまれなくなる自分。その二つが、あるいはもっと複雑なものが入れ違いに当たり前に起きて、一貫性なんてものは本当は幻だと気づかされる自分。不安定で、ときに無理が過ぎるほどに清らかで、次の瞬間にはドロドロで、わけがわからない、きれいに仕分けることのできない人間の自分。そんな中での、あきらめにも似た「新規事業 悩み」検索…。「向いている人の特徴」「つらくなる〇つの理由」「役に立つフレームワーク〇選」?
なんだそれは。そんなに整然と、正しく美しいわけがあるかよ!
もっとグチャグチャドロドロな、自分の中のスライムみたいやつ。目を背けたいけど向き合わないといけない、地獄みたいな道ではないですか。なのに。なんでそんな率直で飾らない声が、純粋で正直な本音として、原動力に転化されないのか。そのための捨て身の飾らないアウトプットが、こんなにも少ないんでしょうか。あのヌメヌメ、ヌラヌラ、ヌルヌルした化け物が内側で暴れなければ、そもそも「新規事業」なんてやろうとも思わなかったですよ、少なくとも私は。
とつぜん都合よく手のひら返し
正直なところ私は、何年も何十年も前から、ある視点においてずっと絶望し続けてきたのだと思います。ここから、さらに一段、抽象的で歯切れの悪い、よりわかりにくい話をします。正直、この話をどこまでよくわかるようにすることがよいのか? そもそも、わかりやすければわかりやすいほどよい局面なのかどうか? それすらわからないのです。
カサンドラにまつわる神話を思い出します。この神話は「ヨクアルコト」です。いにしえから、それは変わらないのでしょう。だから神話なのでしょう。何度も何度も言い続けても、伝わらないことばかりです。ときには伝え方、プレゼンの仕方を一般論として学んだり、実際に機会を増やして修行したり。けれど不思議なことに、それをやればやるほど、音が遠くなり、ガラスの曇りはより強くなる感覚がありました。そういうことではないのだ。正攻法でぶつかっても、聞きたくないことは絶対に聞かれないのです。
かと思えば、とつぜん虚実の魔法が解けて、なぜか周りが追い付いたりして。今更になって大騒ぎしたりして。たまたま目についた運のよい私に似ただれかに、雑で、無邪気で、悪意ないお礼をや称賛を述べたり。称えることで己の手柄にした気になるひともいたりして。ズタズタになったりして。なんだかんだで、ここはずっとトンネルのなかです。
いっそ、宇宙の定理だったら
それは「空気」? 正体がなく、とらえ難い攻撃性。挑戦はせず、出る杭をずっと無意識に打ち続ける、それも無邪気な笑顔で。おそらく本人にとっては善性的ななにかがそうさせている。集合体としての暴力? いや、本当は暴力ではないのかもしれませんね。でも結果的に私を傷つける、斬りつけてくるなにか。細かく分解してみたならば、それぞれにはなんの悪意もなくて。だからタチが悪くてどうにもできない。一度や二度はどうにか凌いでいても、それはもはや自然災害のよう。
台風が訪れるのに、なんの悪意もないように。丁寧に積み上げてきた人間…いや「新規事業」の都合などは当然意に介さず、気ままに襲い掛かってきたりするのです。「どうにもならないことを気にするのは時間の無駄で、こだわりすぎても意味がないよ」と真っ当な言葉をくれる人もいる。本当にその通りだと心底納得して、ココロが軽くなる瞬間もある。
人智を超えた自然や宇宙の摂理なら、さもありなんとまだ受け止められなくもないけれど、実際には人間が作り出した「空気」だから。そのことがなんともいえず、寂しい。一人ひとりは悪意はないのに、自然災害に接する様なあきらめと克服で、その暴力的な「空気」と対峙する。そのことに、打ち寄せる波のように、割り切れない思いがぶり返すのです。もしも寿命が千年あっても、私はオトナになれないのです。
バーナムの森が動かない限りは
いつでも無慈悲に終末さえ引き寄せる、かもしれない。そんな「空気」があるなら、とにかく後悔のないように。この瞬間につくれるものは、1秒も無駄にせず形にしてなくては。出会える人も1秒も無駄にせず大事にしなくては。失敗なんか恐れている暇はそもそもなくて、勇気は出すことが前提で、穏やかな瞬間は1秒もない。追い立てられるように、つくり出してゆかないと。
明日、とつぜん不気味な善意で、いともたやすくぶち壊されるのがこわい。じゃあ、そうじゃない場所にいけばよかろうと言われたとしても。「自分でその場所をつくる」究極の立ち回り以外に、探してもそんな場所はどこにもない。だれかが用意してくれるわけもない、だから、ずっとジタバタ何かをつくり続けている。…のだと思う。
バーナムの森は、動かなければ永遠に動かない。そして夜が明けなければ、この闇は永遠に続くのだ。常識を切り裂いて、生まれるしかないのだ。
学べば遠ざかり、融けずに降り積もる
まずは自分が変わらなきゃ。伝え方、知見、視野、視座。そうして私なりに学び続けてみたけれど。皮肉なことに、学べば学ぶだけ遠ざかるのです。自分でそう思うだけでなくて、本当にそうであるらしいのです。
より広い視野の人に「そうなんだよ、君は前進し続けるから、自分を高めたいと思うからよけいに、周りから離れてゆくのだよ」と言われたこともありました。憎んでいるわけでもないのに、ただ遠ざかってゆきます。「そういうもの」なのかなと思うけど、割り切れなさは消えません。それは沈殿して融けることはなく、降り積もってゆく。だからどんな形でもいい、どんな見苦しくても、表に出してみないと、さすがに限界になるときもあります。
もちろん、まき散らすのではなくて、手元の紙にでも書きだして飲み込んで、最後は破り捨れば、そのほうが真っ当なオトナだと思いますけれども。そうひそかに消化するばかりでは、醜さがいつまでも連携されない。そんな孤独感もあるのです。オトナらしい了見だけで、とてもやり遂げられる気はしないのです。
せめて同じような混沌でもがく誰かに、私もここにいますと伝えてもいいんじゃないか。強烈な思いに突き動かされた、そんな瞬間くらいは。きれいな結晶にしきれなくても、それはそれでそのままに。抱えているものを整えるまでさらけ出せないとしたら、「そういうものだ」と伝わる機会がなさすぎる。
「空気」で息ができなくても、加担したくない
飲み込んで見せずに食いしばって、結果だけ出せたら「粋」でしょうか? そもそも、別に「新規事業」じゃなくたって、だれしも、飲み込んで、なにかに助けられて自分を奮い立たせているのだし。けれど「粋」にふるまうことも、行き過ぎれば自分自身が「空気」の一部に加担して、更に誰かを苦しめたりするのかもしれません。
ふと思います。私はじつはエラ呼吸だったのだろうか? まるで強大な壁に囲まれた無慈悲な圧。息をするのもただただ苦しい。自分にとっての酸素がない場所にいる。壮絶な違和感がある。でも、その場所はまさに「空気」でできている。だからといって、楽にはなりたくない。同じになって加担したくない。たとえば藤子不二雄の『流血鬼』の結末のように、それは滑稽な思い込みかもしれないけど。それでも根源からわいてくるなにかをどうすることもできないのです。
おわりに
見苦しい文章を書きたいと、今日ばかりは本気で思ったのです。
だって美しいわけがないのだから。
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