記録の意義はあとからやってくる
RayArc(レイアーク)、ならびにRayArc Astrolabe(アストロラーベ)の皆さま、おつかれさまです。新規事業ユニットです!
ボードゲーム🃏制作プロジェクトからお伝えします。
過去の自分からの手紙
前回のボドゲデータ入稿直後の記事を、今読み返しています。
びっくりするぐらい記憶にございません。
いや違う、書いてあること自体…つまりデータ入稿直後とか、その前に苦しんだこととかは、まだそれなりにアザヤカに記憶にあります。
ただ、それらの記憶を、直後にこのような形でひとまず残そうとしていたんだな…、と。つまり、この記事を書いたときの、ほんとうに瞬間の思いみたいなものは流石に忘れていました。そして、そのことにびっくりしました。
揮発性のノイズにこそ、ナニカがある
これが、これこそが。ふりかえりをとにかく機を逃さずにその「時」にやる意義なのかなと。
イヤでも覚え続けていることと、意外にも揮発するものがある。どちらも大事と言えば大事だが、覚え続けていることは、記憶補正である程度は歪んでいくこともある。
フラットに、あけすけに残るのは、あくまでもその瞬間に忘れずとどめた記録しかない。それすらも歪んでいるかもしれないが、その時点の歪みの範囲で記録される。まだ、形をとどめている。
記憶は、脳が自動的に『改ざん』するものだから(悪いことでもよいことでもなく、脳とはそういう仕様)。
あとからでは言語化しきれない、ノイズ交じりのその時の感覚。ノイズは、揮発してしまう。けれどじつは、そのノイズにこそナニカがある。
まとめ
おもわぬことで「ふりかえり」の意義を思い直して、タイムリーだなと感じました。この記事を読み返したということは、まぁ…そういうことです。
「問い・解い・トイ(トイトイトイ)」の入稿データ、完成…(とする)!
ずっと未完にしておけば、完成と自分で判断しなければ「それでよかったのか?」の判断を保留できる気がして、弱い自分はほんの少しグズつきたくもなるけど、それでは永遠に前に進めないから。
もしかしたら、味わうかもしれない苦みも覚悟して、一歩前へ。
(新規事業ユニット・ワクワク魔人S)
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