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ファシリのための勇気のかけら(ファシリテーター Advent Calendar 2022|21日目)

RayArc(レイアーク)の皆さま、そしてすべての皆さま。
おつかれさまです。新規事業ユニットです!

この記事は【ファシリテーター Advent Calendar 2022】の21日目です

場づくりをしながら、考えた

新規事業ユニットの活動の中でも、やれ「オンライン場づくりだ!」「アイスブレイク用のボドゲ制作だ!」と、ファシリテーションと関連深いテーマを語ることの多い私(ワクワク魔人S)です。

が、せっかくの機会です。今回はあえて少し違う角度から、ファシリテーションについて語りたいことを探してみました。

それは、入れ子構造の場づくり

今年、つまり2022年のこと。私(ワクワク魔人S)は、RayArc社内の『とあるミッション』に、運営スタッフとして関わっておりました。

そのミッションとは…、

  1. 参加者たちが、チームとして『ある成果』をあげることが目的

  2. 最終的には、参加者自ら成果に向けた対話の場をつくれるようにする

  3. スタッフは、そのための一連の『足場かけ』を行う

おおざっぱにはこのような立て付けです。

一連の『足場かけ』とは、

  • 参加者自ら場づくりできるまでは、運営スタッフがファシリテーション

  • 徐々に要所のみ最小限のサポートに切り替え、観察しつつ見守る

という感じ。

『参加者が自ら場づくりできる場』をつくる。
いわば『ファシリの入れ子構造』
です。

(RayArc社内限定ですが)このグランドルールに
見覚えある方いますよね! そう、アレです!

取り組み自体を語りたいわけではないので、詳細は割愛します。ここで大切なのは、ファシリテーションに関する学びがあったということです。

ファシリの迷宮と、獅子の子落とし

上記の取り組みとはむしろ別の場所で、ここ数年感じていたことですが。ファシリテーションという言葉は、年々どんどん浸透してきて、

「そこに場があれば、ファシるのあたりまえ!」

くらいの勢いで、ザックザクに使われるようになってきた印象です。

それはよいことかもしれませんが、なにごとにも過渡期というものはあって。なまじよく使われだしたため、

「節子それファシリやない…」

と、感じる場面にも遭遇しやすくなりました。

まぁその、言いづらいけど。
氷を壊すつもりで場そのものを壊してる…とか、とか?

他にも衝撃的な場面(…ええと『自称ファシリ』さんの逆切れとか…)に、まれに遭遇します。前座としてかみ砕いて書こうとしたら別テーマになりそうなほど拡散したので、そっと静かに刀を…いや筆をおきました。

そんな場面を目撃するたび、私の脳裏にはファシリの迷宮という言葉がふっと浮かびます。

ローグライクなファシリの迷宮

そうですね、ファシリなんてものは、そもそも迷宮なのかもしれない。そのくらいに思っていたほうがよいのかもしれない。だから『見通し力』という地図も必要だし、進むにも退くにも勇気のかけらが必要なのです。

地図と書きましたが、たぶんその迷宮はローグライク。固定化された地図では通用しません。その場で、その場限りの地図を瞬時に描く力が必要です。それがファシリの『見通し力』なのだろうなと。

迷宮に送り出す『獅子の子落とし』

ファシリが迷宮だとして…よく考えたら(いや、よく考えなくても)。

『参加者が自ら場づくりできる場』をつくる。

『ファシリの入れ子構造』

だと? ムチャしますね! 無茶苦茶しますね!(我ながら) 入るたびに道も壁もがらっと変わる、ローグライクダンジョンですよ? 獅子か、鬼か。

ならばせめて、事前に勇気のかけら(≒ファシリのヒント)について、もっと話せる時間があったらよかったでしょうか? あるいはそうかもしれませんが、最初は『まず、まねて、やってみる』のも大事なんですよねぇ。

見よう見まねも、ずっとではダメだけど、最初は大事なんですよね。

道なき道を照らす、勇気のかけら

このRayArc社内の『とあるミッション』は、まさについ先ほど、20日のふりかえり会の開催をもって一区切りとなりました。今なら、そうですね今なら。私なりのファシリのヒント…勇気のかけらの話をしてもよいですね!

おわりは、はじまり

ファシリとして、変わりゆく道を突き進むには、ときにエンジニアらしい思考のクセや、『由緒正しそうな』いにしえの価値観が邪魔してきます。そのこだわりやとらわれをほぐすものが、私が考える勇気のかけらです。

かけら1.沈黙=ゼロでなく「そこに沈黙がある」

私がよく遭遇する、ファシリのアンチパターンとして、

  • 場の沈黙に対する、過度の忌避

があります。つまり、沈黙をなんとかしようとしすぎる。

気まずい、いたたまれない、よかれと思って? あるいは「ファシリがうまく行ってない気持ちになる」とか? いろいろ理由はあるのでしょうが。

沈黙をなんとかしようと、

  • ファシリが、つい必死でしゃべってしまう

…程度なら(最良ではないかもだけど)かわいらしいのですが。

  • なんとかしゃべらせようとして暴君化する👿

というケースも、ごくまれにお見かけします。本末転倒やんけ…。

参加者は、状況に応じて沈黙する自由もない? それは違いますよねぇ。

フラットに場を観察したとき、参加者にとって沈黙が心理的安全性を脅かす原因になっているなら、ナニカはたらきかけが必要かもしれません。

ただ、その場合であっても。場にとって必要なのは、

  • 沈黙を取り除くこと

なのか。それとも、

  • 沈黙に対する恐怖を取り除くこと

なのか。そこまで見極める必要があるはず。

闇は怖いか、やさしいか

沈黙自体が明らかに負荷になっていて、参加者自身がそわそわしているタイミングなら、話しやすくする『足場かけ』も悪くありません。が、そうではないなら。

そこに「そこに沈黙がある」なら。それがアウトプットなのです。

  • 「おおいに沈黙して大丈夫ですよ」

  • 「しっかり考えてくれている証拠だから、ウェルカムですよ」

  • いっそ書く時間にしてみましょう」

  • シンキングタイムで、自分と向き合いましょう」

などなど。
怯えなくてよいことを伝えたほうがよい場面もある。

沈黙=ゼロではないですよ、と。
それも自己表現のひとつですから。

そして不思議なことに。沈黙を受け入れると、多くの場合、やがておのずから場に言葉が出てくるのです。

かけら2.あえて「正規化」をくずす(冗長さの受け入れ)

エンジニアらしい思考のクセが邪魔する、正規化のワナ。

抜け漏れダブりを出さないように、そしてなにより、未来の関係者が保守性の問題で頭を抱えずに済むように。論理的に多重度がどうのこうの、関連がどうのと、日々構造の整合性をこねくり回しているのがアダとなります。

ここでは正規化そのものの話をしたいわけではないので、その思考のワナの結果、ファシリとして起きやすい問題がどういうものかを書きます。

対話や議論が進む中で、

  • 一見すると既出の話題と類似意見っぽく聞こえるもの

  • はじめてその場に登場したけど、ファシリさんの(あるいは他の参加者の)脳内に既にそれっぽい思考があったもの

が、発言として出てきたとき、明瞭な意図せず悪意もなく、どちらかというとよかれと思ってかもしれないが、結果粗略に扱ってしまう。

わかりやすいのは、ファシリさんがホワイトボードなどで出てきた意見を記録しながら進行しているようなとき。せっかく場に出てきたある意見を、なぜか『無視』といってもよいほど書かない、載せない…みたいな場面が。

なんでだろう? と思ってよく観察していると、

だいたい、〇〇と同じって感じですよね」

などと『まとめ』ながら、既出の記録を指さしたりする。(そして、ときにそれは、え? それと一緒ととらえてる? みたいな独善的なくくりだったり)

もしくは、書くことは書くのだけれど、場から出た言葉のまま尊重して書かない、載せない。いわば『矯正』してしまったり。自分の頭にある言葉と同じはずだ…この話題のはずだ、と勝手にまとめてしまう、見えない正規化。

そういうやりとりが何度かくりかえった場では、だんだん発言するほうも、

同じことは言っちゃいけない
 正解と『違う』ことも
 言っちゃいけない
 
だって『無駄』だから
 そんなことをいうやつは
 この場では『悪い』やつだ」

と、無意識に委縮し始めます。そもそも、悪意があろうとなかろうと、板書する人に『無視』されるのは、実はかなり気持ちにダメージを受けるもので。(人間、明瞭なやりとりで『否定』されるより『無視』が一番つらい…)

こうなると、次からは意見を求められても、

「だいたい、言われちゃいましたので、私からはとくにないです」

自分の考えが内包する、ささやかだけど大事な『違い』を、自分で押し殺して表に出さなくなってしまいます。(ときに、それは無自覚に)

単に拡散と収束のフェーズをごっちゃにしてしまっている…みたいな『手法の未熟』による場合もあるのですが、もう少し根本のマインドというか、本人も意識していない思考のクセに原因があると感じる場面もあります。

共創や相互作用の可能性を、冗長性や統一すべき『表記ブレ』かなにかと混同して排斥しまう。そこにはある種の『職業病』を感じたりして。

そんなわけで、このグランドルールが…

冗長性に寛容に。場に出た言葉をそのまま大切に。
それは可能性に貪欲にになる勇気でもあります。

かけら3.自分が「いらなくなる」覚悟と期待を持つ

よいファシリの究極の到達点は、参加者に意識させない『よい塩梅』で、自分の存在をほどよく消してゆくこと。つまりフェードアウトすることです。

どう、自分がその場に必要なくなるか。どうしたら、参加者はそんな状態にたどり着くのか。逆算して、逆算し続けるのが、ファシリの真骨頂。

こればかりは、実感がともなうまで、ただただ実践してみないとピンと来ないかもしれません。ただ、多くのファシリ猛者さんたちが最終的に、この領域にたどり着くらしい…というのは、私にもちょっとわかってきました。

そんな全てのファシリさんに個人的におすすめしたいのがこちらの作品。

これ以上は語らない。語れない。まぁ、私はまだこのリマスター版はやったことないんですけどね。おっと世代がバレる。別に隠してないけど。

自分が「いらなくなる」覚悟と期待を持つこと。
これこそ、究極の勇気のかけらです。
これがあると、場のすべてが少し違って見えてきます。

『持っているだけ』じゃ、だめらしいよ(まとめ)

  1. 沈黙=ゼロでなく「そこに沈黙がある」

  2. あえて「正規化」をくずす(冗長さの受け入れ)

  3. 自分が「いらなくなる」覚悟と期待を持つ

よい機会なので、私がファシリにおいて大切だと日々感じていたことを、勇気のかけらという言葉に託して『たな卸し』してみました。ただ、ですね。それが大事と、頭で理解しているだけではダメなんですよね。

実践の場では『わかってるつもりで、できない』こともたくさんあるし。そもそも実践自体をしてみないことには『わかってるつもりで、できない』にすらならない。勇気のかけらは持っているだけじゃダメ、使わないと。

100点でできなくても、何度も何度も実践して。やりっぱなしではなくふりかえって、磨いて。勇気のかけらを『ほんとう』に育ててゆきたいですね。

アイスブレイク用ボドゲつくってます! 興味のある方はぜひこちらも!

(新規事業ユニット・ワクワク魔人S)


さあ、ワクワクしようぜ!

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