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思いやりと助け合いを実現するための一手『伝統文化江戸しぐさ』に学ぶ共生の教育観(完結編)~江戸しぐさに学ぶ共生の教育観とは?~ー『日本人のこころ』41ー

こんばんは。高杉です。

日本人に「和の心」を取り戻すという主題のもと
小学校教諭をさせていただきながら、
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。

10月も下旬を迎え、
気温も一気に下がり、秋らしい季節になってきました。

寒暖差の影響を受けて、
体調を崩している方はいませんか?

季節の変わり目は、
その季節だからこそ味わうことができる体験にワクワクしますが、
お体はご自愛ください。

さて、衆議院選挙もいよいよ大詰めですが、
どこのメディアも売国政党も
「裏金」一辺倒で
一番大切であるはずの「政策」が蚊帳の外で
投票の視点になっている惨状に危惧をしています。

メディアや売国政党が押し出しているイメージや
パワーワードに惑わされず、
「政策」重視で我が国のかじ取りを託したい代表を選びたいものですね。

そのためには、
我が国が先人から受け継いできた伝統文化を学ぶことが
大切だと考えます。

いよいよ、今日は、
「江戸しぐさ」の完結編です!

最後まで、お付き合いください。







1)商人が作った世界一の都市・江戸




その昔、
太田道灌という武将が江戸城を築いたころの江戸の町は、
寂しい漁村に過ぎなかったようで荒れ果てていたと言われています。

しかし、
豊臣秀吉から関東の統治を命じられ、
領土安定の拠点として江戸の地を選び、


「水清く、入り江のありてまな豊か、四方見渡せる、商いの町」


というように

台風や水災害が少なく、
港が近く、
当時の高速道路と言われた川も多数流れており、
全員が商業に従事し、
主要な街道に面している豊かな町を築いていくという未来を描いたのです。

徳川家康とその家臣による壮大な都市構想は3年間に及びます。

まちづくりにあたっては、
多くの人の水の確保と食料の調達をはじめとして、
大阪の住吉あたりから忠誠心旺盛な信用のおける商人たちを1000人余り抜擢し、
江戸に引き連れてきたとされています。
そして、彼らに首都建設の一大事業を担うように命じたのでした。
膨大な資材を全国から購入し、
大工や土木の職人を集め、
江戸のまちづくりには、商人たちの才覚と体験が必要不可欠だったのです。




1603年、徳川家康が開府して100年も経たないうちに、
寂しい漁村に過ぎなかった江戸が立派な首都になり、
人々は北から南から江戸へと押し寄せ、町方が住む江戸城下町は
全体の15.6%という狭い地域に、
武士と同じ数の人々が住んでいました。

さまざまな文化や価値観をもつ人々がこれだけ集まるわけですから、
トラブルや軋轢が起こるのは当然でした。

そこで、
町衆たちが額を寄せて、
個人の商売が繁盛し、
町が繁栄し江戸や日本国が平和になるために
「江戸しぐさ」を作りました。



2)町の繁栄、平和維持のための江戸の相互補助システム





「江戸しぐさ」は、
徳川将軍御用達の豪商を筆頭に、町衆たちが商売が繁盛し、
町が繫栄し、平和が続くための手立てを思案することから始まりました。

日ごろから学んでいる古典からの知識や、
お互いの知恵をしぼり、
江戸に入れば江戸に従うという平和と人付き合いのルールをつくり、
率先して実行してきたしぐさで、
江戸では、「商人しぐさ」や「繁盛しぐさ」と言われてきました。

江戸しぐさの「しぐさ」は『思草』と書きます。

思うは思慮、思想などで
江戸の町衆の思いや考え方が
「目つき、表情、ものの言い方、身のこなし」のしぐさになって
現れたのです。




江戸の町衆たちは、
お互いに知恵を出し合う相互扶助の「講」というシステムを
作っていました。

「講」の目的は、
江戸をよい都にするために、今何が一番問題なのかを取り上げ、
その手立てや具体的な方策を考え、実行していくことでした。

主題ごとに自分たちの意志と力で
ふさわしい指導者のような講師を立て、自己研鑽にも励みました。

「講」は、
原則として一か月に二度、あるいは十日に一度開かれました。

その日の商売はお休みです。

また、
講中(講の仲間)は手取り足取り、口伝えで「江戸しぐさ」を教えました。

「講」には、
厚生、人事、販促、開発など今の会社の機能がすべてあったそうで、
講中には、本来の商売に精を出すのと同時に、江戸の繁栄と治安の維持、
町衆の幸せと将来を担う子供の育成など、
皆が参加して知恵を出し、
協力し合って町を運営していたと伝えられています。

江戸の商売がなぜ繫栄したのかと言えば、
このようなあたたかく強い人間関係の組織が
全国に広がり活動したからだと言われています。




江戸時代は、5~8回は不況があったそうですが、
不況対策を練り上げたのは町衆の「講」のシステムだったとも
されています。

不況は一種の戦時体制と考え、
さまざまな対策の中で必ず出たのは、
①ごみを出さない(物を大切にする)こと
②似たものづくりをしないこと
の2つだったそうです。

江戸の人々は、
「講」に入って、
自己研鑽に努め、講中から立派な人間だと言われることを誇りにし、
目標にしていたのだそうです。

江戸商人は、
自主性を尊び、
咀嚼しなければ絶対我がものにしなかったと言われています。

10人の部下に、
番頭が仕入れの品物をAかBかどちらにするかの意見を聞いたところ、
9人の部下がAと言っても、1人の部下がBがいいと主張し、
その理由を番がしらが納得すれば9人のAの意見を退け、
Bを取り上げたのです。

ただの多数決で決めないというのが江戸商人の真骨頂でした。

誰も責任をとらない仕組みになっている現代社会の一部の組織に比べ、
人の上に立つ番頭の器量の大きさや深さ、
毅然とした責任感に心を打たれます。





3)「江戸しぐさ」に学ぶ『共生の教育観』





これらの根底には、「共生」という考え方があるのですが、
江戸には、「共生」という言葉がなかったにもかかわらず、
考え方は皆に浸透していたのです。

江戸の「共生」とは、
自立した人間同士で向き合い、言い合い、付き合うことなのです。

どのような人にも納得する言葉で話し、
共通の場で決して相手を傷つけない。
肌の色の違う人も差別しないし、いやだとは言わないのです。

日本人の多くが血縁、地縁でがんじがらめになっていた時代、
江戸では、対等な町方同士の付き合いがあったのです。

「江戸しぐさ」は、
江戸幕府初代将軍の徳川家康の
「いかなることがあろうとも戦だけはするな」という
平和の遺訓を守ること

誰も傷つかない人付き合いを教えています。

人と人との付き合いの中で外国と外国人、
そして赤の他人との付き合いを最も大事にしました。

いわば、
今でいう「異文化共生」を奨励したもので、
今から300年以上前から我が国で実践されていたのです。




江戸時代の半ばから明治の初めに来日した外国人たちが、
異口同音に「こんなに愛すべき民族はいない」


町が清潔なこと

人々が正直なこと

よく挨拶をすること

仲間同士助け合うこと

子供をかわいがること

町が安全なこと



などなどをほめちぎっていました。

しかし、
今だけ・金だけ・自分だけの西欧文明が我が国に入ってくると
『逝きし世の面影』(渡邊京二さん著)に
なってしまうことを懸念したのです。


自然への畏敬の念を持ち、
平和を願い、
異文化との共生を心がけ、
目の前の人を互角で対等な人間と捉え、
肩書きを気にせず、
時間泥棒をせず、
世辞が言え、
遊び心がある。


自分と異なる考えを尊重し合い、思いやる日本人の姿
江戸の町にはあったのです。

そして、
その遺伝子は現代を生きる私たちに受け継がれています。




「江戸しぐさ」は、
人と人が助け合って、互いを思いやりながら仲良く暮らすための生き方
であり、
文字だけを教えたのではなく、
「講」という相互扶助・自己研鑽のシステムの中で考え編み出し、
語り合って身につけてきたものです。

これが町人一人一人の身体にしみこんで生かされてきたものの一部が
今の時代にまで伝わっているのです。

「江戸しぐさ」は、
商売に反映されるだけではなく、
人間関係を円滑にします。

人々が共に助け合って、
いきいきと生きられる世の中にするためには、
一人一人がよいしぐさを「クセ」にしてしまう。

江戸という265年の長きにわたる繁栄と平和を維持し、
世界一の都市に成長させたのです。




金子みすゞさんの
「みんな違ってみんないい」という有名な言葉がありますが、
人間、基本的な権利は皆同じですが、
能力的にはそれぞれ得手不得手があります。

得手である能力で人生を生きることができれば、
たとえ経済的に恵まれていなくとも幸せな日々を過ごすことが
できるのではないでしょうか。

安全かつ、安心して気持ちよく暮らすことができる世の中で
これからの世界を生きる子供たちがすくすくと健康に育ってくれることを
願わぬ親はいません。

世の中は一人では生きていけないのです。

考え方や文化が異なる人たちが
互いに手を取り合って生きていく。

つまり
「共生」するうえでのヒントを江戸しぐさは教えてくれています。


人と人とが気持ちよく暮らすことができるための知恵。
世界に誇る日本人の原点がここにあります。


みなさんも我が国の伝統文化である「江戸しぐさ」を知り、
一緒に行動に移しませんか?



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国民一人一人が良心を持ち、
それを道標に自らが正直に、勤勉に、
かつお互いに思いやりをもって励めば、文化も経済も大いに発展し、
豊かで幸福な生活を実現できる。

極東の一小国が、明治・大正を通じて、
わずか半世紀で世界五大国の一角を担うという奇跡が実現したのは
この底力の結果です。

昭和の大東亜戦争では、
数十倍の経済力をもつ列強に対して何年も戦い抜きました。

その底力を恐れた列強は、
占領下において、教育勅語修身教育を廃止させたのです。

戦前の修身教育で育った世代は、
その底力をもって戦後の経済復興を実現してくれました。

しかし、
その世代が引退し、戦後教育で育った世代が社会の中核になると、
経済もバブルから「失われた30年」という迷走を続けました。

道徳力が落ちれば、底力を失い、国力が衰え、政治も混迷します。


「国家百年の計は教育にあり」
という言葉があります。

教育とは、
家庭や学校、地域、職場など
あらゆる場であらゆる立場の国民が何らかのかたちで貢献することができる分野です。

教育を学校や文科省に丸投げするのではなく、
国民一人一人の取り組むべき責任があると考えるべきだと思います。

教育とは国家戦略。

『国民の修身』に代表されるように、
今の時代だからこそ、道徳教育の再興が日本復活の一手になる。

「戦前の教育は軍国主義だった」
などという批判がありますが、
実情を知っている人はどれほどいるのでしょうか。

江戸時代以前からの家庭や寺子屋、地域などによる教育伝統に根ざし、
明治以降の近代化努力を注いで形成してきた
我が国固有の教育伝統を見つめなおすことにより、
令和時代の我が国に
『日本人のこころ(和の精神)』を取り戻すための教育の在り方について
皆様と一緒に考えていきたいと思います。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。



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