荒廃した心を整えるための一手『福井の教育』に学ぶ礼の教育観(中編)~橋本左内先生に学ぶ『立志論』とは?~ー『日本人のこころ』11ー
こんばんは。高杉です。
日本人に「和の心」を取り戻すというスローガンのもと
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。
先日、
全国で減少する街の書店について、
経済産業省が大臣直属の「書店振興プロジェクトチーム」を5日設置し、初の本格的支援に乗り出すという記事を読みました。
書店は本や雑誌を売ることを通し、
地域文化を振興する重要拠点と位置づける。読書イベントやカフェギャラリーの運営など、個性ある取り組みを後押しする方策を検討する。
とのことです。
街の書店は、
インターネットの普及による紙の出版物の不振やネット書店の伸長により
苦境が続いており、
日本出版インフラセンターによると、
2013年に全国1万5602店あった書店の総店舗数は、
2022年に1万1495店に減ってしまっています。
一般財団法人・出版文化産業振興財団(東京)の調査によると、
全国の市区町村のうち、地域に書店が一つもない無書店自治体は
およそ4分の1にのぼり、
本や雑誌を直接手に取って購入できない人が増える深刻な状況と
なっています。
という言葉があるほど、
本を読むことで
現代の人の知見を得ることができるわけではなく、
今はいない先人の話も本を通して学ぶことができます。
我が国を支え、守ってきた方々は
例外なく、書物から学び、
行動に移してきました。
今回お話する福井県が誇る偉人もまた同じです。
本離れや街の本屋さんが減少することにより、
本に触れない機会損失はわが国にとって大きな問題です。
国は今更ながら対応に追われていますが、
まずは、我が国の将来を憂い、
危機感を募らせ、何かしたいと願っている
私たち草莽の民から本屋を再生するために
今日も学んでいきましょう!
最後までお付き合いいただけるとありがたいです。
よろしくお願いいたします。
1)幕末の福井藩の実情~荒廃した教育~
福井県は、もともと教育大国だったわけではありませんでした。
戦国の最も華やかな時代。
福井県は、
織田信長の筆頭家老・柴田勝家が領有していたこともありましたが、
その後、主人をいくつか替え、
「天下分け目の関ヶ原合戦」ののち、
天下人となった徳川家康の次男・松平秀康を初代藩主として立藩しました。
石高は67万石。
秀康の子、忠直も大坂の陣で大活躍をしました。
武をとうとぶ藩風を天下に知らしめました。
しかし、
その後は文運が振るわず、
他藩に比べると、学問を誇れる家柄とは言えませんでした。
歴代の藩主は、このことを気遣い、
いろいろ文を奨励したものの、
当時の学問の王道である四書(大学・中庸・論語・孟子)の文義を
略解できる者は幕末を近づいてもなお稀でした。
13代藩主・松平治好(はるよし)は、
「正義堂」を建設しましたが、あまり発展せず、
それどころか藩は借金をする方法すら万策尽き、
毎年、2万6000両ほどの赤字を出し、
人口は激減、産業は荒廃して、規律は乱れていました。
そして、
将軍家の家族「御三卿」の田安家から11歳で松平慶永(春嶽)公が
就きました。
春嶽公は、ペリーの進んだ軍事力に幕府がひざを折り、
求められるままに開国を受諾した場合の諸大名の排叛を恐れ、
いち早く財政再建の途上であっても、すぐに犯行を創設しないといけない。
諸侯を統御し、幕府の主体性を守り、
将軍の伝統的な集権権力を再建化し、徳川家の安泰を永続化させる。
その具体策を考えてくれる人材を育てるために
『明道館』を造ろうとしました。
15歳以上の藩士の子弟を中心に
その数約1800名をもってスタートしましたが、
いたずらに国是をめぐってけんかをする場となり果ててしまいます。
それは、彼らを導く有能な「師」と呼べる人がいなかったからです。
この最悪なタイミングで任された福井が誇る人材がいました。
それが、橋本左内先生です。
名は、綱紀。号は、景岳。
当時、23歳です。
累代の藩医の職を弟に任せて、食膳についても書物を離さず、
友人と夜半に及んで学んでいました。
1856年、明道館幹事、側役支配を兼任し、
『明道館』の命運は左内先生に託されたのです。
2)福井が生んだ天才「橋本左内」とはどのような人物か?
左内先生は、
『実功実益』『経済有用』『実用を専らにす』という具体的な方向を示し、
洋書習学所、算科局が設立されました。
そして、藩内に清新の気が満ち溢れるようになります。
また、好学心は身分を超えて、藩内の隅々にまで広がっていきました。
その後、
橋本左内先生は、将軍継嗣運動に身を投じ、刑死することになりますが、
左内先生が必死に求めた日本国の独立は、
明治維新に結実することに成功するのです。
橋本左内先生は、
幕末の1834年に生まれ、
25歳にして、安政の大獄により処刑されました。
かつて我が国には、その使命として担った仕事を
命を懸けてまで真摯に遂行しようとする先人がいました。
民衆の見本となり、
世の中をより良いものにしようとする義務を背負った人間として、
私心を捨て、忠実にその役割に徹しようとしました。
それが「武士」であり、
腰に掲げた刀は使命を担った者であるという名誉と責任の象徴でした。
しかし、
それは理想論であり、
江戸時代になり平和な時代が250年も続いていくと形骸化していきまし
た。
そのような時代にあっても、
まっすぐに武士としての役割に向き合い、
世の中のゆがみを正す大きな志を掲げた青年。
それが、橋本左内先生だったのです。
吉田松陰先生からは、
「いまさらながら左内と一度も会えなかったことが悔やまれてならない。」
と言わしめ、
かの西郷隆盛公は、
西南戦争に敗れ、
自害した時にカバンの中に入っていたのは左内からの手紙だった。
それほどまでに大切にしていたのです。
また、戦前の教科書には、
国家への忠義心を育むための教材として使われました。
自分を律する道徳理念を確立し、
その上で、古い常識を変革し、
公平な態度をもって世の中に貢献できる人間の育成を目指したのです。
3)『啓発録』から学ぶ「立志論」
その左内先生の代表作ともいえるものが『啓発録』です。
15歳の時に、自らの大志を忘れないように残し、
それを若い武士たちに向けて発信した書物です。
原本は、宮内庁で保管されています。
たった数十ページの短い書物ですが、
現代人が忘れてしまっている大切なことが書かれています。
左内先生は自分を律するために大切なことを5つに分けて話しています。
一つ目は、『去稚心』です。
「稚心」とは、幼いままの心のことで、
俗にいう、「子供っぽい」ということです。
野菜や果物でも、まだ熟していないようなものを「稚」と言います。
つまり、
「稚」とは、まだ成熟せず、うまみが出ていないような状態のこと
を言います。
人でも、野菜でも、何であっても「稚」である状態を卒業しなければ、
何かを成し遂げることができません。
例えば、
親の目を盗んで、仕事や勉強を軽んじていないか?
お菓子などの甘い食べ物をむさぼり、怠けて安穏にしていないか?
「稚心」に害があるのは、それを除かない限り、
士気がまったく振るわないからだ。
だからこそ、
と左内先生は語ります。
二つ目は、『振気』です。
「気」とは、「人に負けたくない」という気持ちの表れです。
もっといえば、「負けたままでいること」を己の恥とし、
無念と思うところから生じる、意地を張る気持ちのことです。
「振るわす」というのは、
「自分がやらなければ」と心を奮い立たせることです。
そして、
その奮い立った心が鈍らないよう、
油断しないように気持ちをピンと張り続けることです。
「気」は、命あるものなら皆持っています。
人の中でも、武士というのは、
一番「気」を強く持っている存在であり、
一般的に「士気」と呼んでいます。
しかし、
この日本では、太平の世が長く続き、
武士の気風はずいぶん脆弱なものに陥ってしまいました。
武門の家に生まれながら武士道をないがしろにし、
皆、ただ地位のみを望む。
欲望におぼれ、利益をむさぼり、
強い者ばかりになびくような武士が、多くなってしまった。
今の世は、あまりにも覚悟のない者に、
高い録や想い地位を与え続けている。
そうでありながら、この日本は平和で安楽な世の中が続いてきた。
つくづく私たちは、過去のリーダーたちに感謝しなければならない。
私たちの祖先は、ことさら国家に対して奉仕し、
職責においても非常に大きな功績を成し遂げてきました。
しかし、
後代においては特別な手柄もなく、恩禄にどっぷり浸かっている。
私たちは、義に応えるためにももっと学問を熱心に学び、
常に頭の片隅に忠義を置いて行動し、
生涯において粉骨砕身することで、
つゆほどでもご恩に報いていかなければならない。
忠義の心を常に忘れず、再び臆病者へと後戻りしないようにするには、
が肝要です。
と左内先生は言います。
三つ目は、『立志』です。
「志」とは、
「心が向かうところ」であり、私たちの心が「そうしたい」と願うところ
を示す言葉です。
志を立てるときは、
ふと思い立った気持ちであっても、
その思いがどこに向かっているのか、しっかりと定めなければならない。
そして、
考えに考えて己の指針をはっきりと表明し、
常々、その情熱を見失わないように努力していかなければならない。
では、
そのような志を私たちはどのように立てたらよいのか?
まず、書物に影響を受け、そこから閃くということがあります。
それから、師の講義や友の意見を聞き、自分も啓発されることがあります。
あるいは、自らから思い煩い、苦慮して結論に至ることもあるでしょう。
さらには、激しい憤りを感じたり、感情を突き動かされて、
その結果、志をもつことだってあるでしょう。
いずれにしろ、
平常をのほほんと過ごし、心がたるんでいる状態では、
志など立てられるものではありません。
志のない者は、魂のない虫と同じようなもので、
いつまでたっても気高い人間に成長敷くことはできません。
しかし一度、志を立ててしまえば、
それから私たちは日夜ずっと成長し続けることができます。
人は、たくさんのことをやろうとすると、
一つのことも究められずに終わってしまうことが多いです。
すべての心の迷いは、自分の心の向かう先がいくつもに分かれ、
定まっていないことから生じます。
だからこそ、
真剣に自分の心を推し量り、
「まず何をやるべきか」を一つに絞ることが大切です。
一つの道を究めることに全力を尽くすのです。
志を立てる近道は、やはり古典や歴史に学び、
心を大いに感動させることです。
感動したら、その内容を書きだし、壁にはしだしておきましょう。
毎日、朝、暮れ、夜と、その言葉に目をとどめ、声に出して読みましょう。
何より、志に向かって前進する自分を楽しむことが肝要です。
志を立てることの大切さを何よりも語っています。
四つ目は、『勉学』です。
「学」とは、「習う」ということで、
総じて善き人や優れた人の行いや立派な功績を研究し、
その道を追随していくことです。
だからこそ、
優れた人物の忠義孝行を学んだならば、
すぐにその行動の背景となった思想や精神を慕い、
それを真似て自分も行動していかなければなりません。
その人物に負けず劣らずの忠義孝行ができるように、
真剣にその優れた行動を模倣する。
実は、これこそが「学」の第一なのです。
勉強というのは、
自らの力を常に出し切り、継続して続けていかなければ結果は出ません。
長い時間を積み重ね、何度も何度も試行錯誤を続け、
それでやっと成功への道が見えてきます。
学問というのは、
「物事の理を説き、道筋を明らかにすること」が本質なのです。
飽きっぽく、軽はずみなままでは、
人として生きるべき真の道など理解することはできません。
残念ながら、この世の中には愚俗な者が多いです。
だからこそ、どんな学問も、
なかなか有用で実益のあるものになっていません。
せっかく学んだとしても、驕慢な心が起こったり、
浮かれ調子になってしまったり、
あるいは「名を揚げたい」とか「富を得たい」という
欲望にとりつかれてしまったり、
自分を才気煥発だと勘違いをしてしまったり…。
分かっていても、私たちはときどき、こうした心に支配されてしまいます。
これを自分自身で抑えることができるのなら、何の問題もありません。
しかし、
歩んでいる道からそれてしまったときに、必要なのが、「友」なのです。
五つ目は、『択交友』です。
「交友」とは、ふだんから付き合っている友人のことです。
その中から私たちは、真に大切な友を「選び出す」必要があります。
間違ってほしくないのは、
どんな付き合いであっても、友は皆、大切な存在であるということです。
だから、
誰であっても、付き合いがあるのであれば大切にしてほしい。
とはいえ、相手が人間である以上、
やはりじぶんにとって損となる友と、益になる友は存在します。
私たちは、それを見抜き、
いざというときに信頼できる友を「選ぶ」力を養わなければなりません。
一緒に飲んで、食べて、大騒ぎしたり、
山や川に遊びに行って、魚を釣ったり、
そのような馴れ合いは楽しいけれど、
そればかりの付き合いをする仲間というのは
本当の友ではありません。
一緒に学びを究め、部系の腕を磨き合い、
武士としての志を共に研究し、
お互いが理想とする人生を分かち合うことができるまでになるのが、
本当の友達なのです。
本当の友は、「自分が不足しているもの」を持っている存在です。
だからこそ、ときに対立もするのですが、
逆に言えば、「自分にかけているものを補ってくれる存在」になるのです。
では、益になる友をどのように見分けたらよいのでしょうか?
それは、「正直で剛直であること」です。
この5つであると左内先生は言います。
軽々しく、口は達者で、いい加減であるがお調子者で人に好かれやすい。
他人からは付き合いやすく見え、
世間にいる器の小さい人たちには人気者になっている人。
そのような人は信頼できる友にはなりません。
将来において大成したいのであれば、
このような友を選ばずに、見極めることが大切なのです。
これまで述べてきた5つの項目は、
此れから学ぼうとする初心の者にとって、
左内先生が「最も大切なこと」と考え、書に残しました。
4)福井県の教育の礎を築いた橋本左内先生の考えとは?
左内先生は、『啓発録』の中で、
ということを述べています。
人には、能力がそれぞれある。
旅において、足の不自由な人も体力のない人も
目標を立てれば、いつかはたどり着く。
だから福井から江戸にも行ける。
でも、目標や志がないとそこへはいけない。
そして、旅人は歩かなければならない。
それは、「学問をする」ということである。
また、一人で旅をするよりも、誰かと旅をしたほうがよい。
日ごろ、難しいことを言って、難しい顔をしていても、
真面目に向き合っている友達、一見付き合いにくい友達の中にこそ、
自分の成長の糧となる人がいるはずだ。
左内先生は、日本国に礼をもって命尽きるその日まで励み続けました。
国の病を治す「大医」になる
代々、医者の家に生まれた左内先生は、
政治は荒廃し、
人々の心はすさんで、
伝統文化が廃れようとする我が国をみつめ、
我が国は、大病におかされている。
社会や政治の行く末を治す。
疲弊している藩の財政を立て直す。
そのために、
自らが抱えているものを常に自問自答したり、
周りの人に悩みを聞いてもらって意見をいただいたり、
非常に謙虚であったと言います。
それは、
学問は、
教師が教えるのではなく、
人に聞くのではなく、
自分で為すべきことである。
志半ばで生命を絶たれた左内先生ですが、
その思いは終始一貫していました。
日本国を守り、日本国を豊かにするという目的に向かって
まさに命がけで走り続けた生涯でした。
左内先生は外様を含む有力大名を幕府のトップに据えないと日本の将来が危ないと懸念していました。
今まで通り幕閣から大きな大名を排除し続けると、
自分たちだけで日本を守ろうと勝手な行動に出て、
その挙句、
もし徳川がまともに努力しないのなら徳川をつぶしてしまえと
言い出しかねない。
大名の連合からなる国の根幹の大枠は変えずに、
まず、端も野の中から有能な人を次官のような地位に登用し、
その下で働く官僚には、大名の家臣や事実上の庶民までを含めて
とにかく優秀な人材を集めようと主張しました。
大枠は変えずに、日本の中央政府に人材を集めて、中央政府を強くする。
身分制度を打破して、すべての人材を有効に活用することが必要である。
日本国を一つにつなげるのだ。と。
まさに、『一億総活躍社会』を目指していたのです。
幕末にそのことを考えた左内先生。
そして、
「公議公論」を藩是として政治総裁職に復権した松平春嶽公など、
その思想をずっと守り続けた福井藩の想いが、
明治という時代に突き付けた一本の刃であり、
日本独自の「デモクラシー」だったのです。
なぜ、西郷隆盛は最期まで左内先生の手紙をもち続けたのでしょうか?
西郷は、薩摩の人間なので、幕府は認めてはいません。
だからこそ、
薩長を中心とした討幕によって明治政府をつくりました。
しかし、
別のやり方でより良い明治の時代をつくることはできなかったのだろうか?という思いは
ずっと残っていたのではないでしょうか。
その時に、西郷が考え得る幕藩体制の現状維持でもない。
多くの尊い命が失われる武力による討幕でもない。
第三の道というのは、左内先生の考え。
すなわち、「公議公論」だったのです。
左内先生の特に優れている点は、
「現実を見据えることのできた学者」であったことです。
実際の政治の場で、自らの思想を実践しようしました。
当時の誰もイメージを持っていない公議公論の世界を
最初に具体的に見据えていました。
我が国を建国した神武天皇とまさに、同じ思いを持っていました。
左内先生が目指した人材育成の4つの条件というものがあります。
教育によって人材を育成するということは、
非常に重要なテーマであり、それだけに非常に難しい問題でもあります。
優れた人勢を育成するために4つの大切なこと。
その相手の長所をよく知り、
欠点をその場で見破ることに務めなければならない。
人材の特徴を見抜いたならば、
まず長所をより伸ばすような教育をしていく。
その上で、教育によって害になるものや困難な問題を取り除いていく。
その環境を整えたうえで、その者が抱えている反抗心や迷いなど、
心の問題を取り除いてあげるための術を凝らす。
そのようにすれば、やがて「志」と呼べるものを見つけていくだろう。
養うことができたなら、今度は武芸を教え、
学問を植え付け、正道を歩むように導いていく。
実際に現場での実力を試し、そのうえでさらに技術を成熟させ、
即戦力として使える人材にまで、人材を支え、完成させるのだ。
育てた甚大はすでに即戦力になるのだから、
そのものが長く用いられず、腐ってしまうことがないよう、
ただちにふさわしい部署に推薦して、
しかるべき任務を任せなければならない。
この4つの条件を確実に実行しなければ、
優れた人材はなかなか確保できないのです。
まずは、教育に携わる者が、
この過程を普段から意識していかなければならない。
まさに、左内先生が立て直そうとした「明道館」で学んだ福井の志士が
現代の学力・体力ともに日本トップレベルの福井の教育を支える礎を築いていったのです。
左内先生の『礼の教育観』はいまでも福井の教育に生かされています。
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国民一人一人が良心を持ち、
それを道標に自らが正直に、勤勉に、
かつお互いに思いやりをもって励めば、文化も経済も大いに発展し、
豊かで幸福な生活を実現できる。
極東の一小国が、明治・大正を通じて、
わずか半世紀で世界五大国の一角を担うという奇跡が実現したのは
この底力の結果です。
昭和の大東亜戦争では、
数十倍の経済力をもつ列強に対して何年も戦い抜きました。
その底力を恐れた列強は、
占領下において、教育勅語と修身教育を廃止させたのです。
戦前の修身教育で育った世代は、
その底力をもって戦後の経済復興を実現してくれました。
しかし、
その世代が引退し、戦後教育で育った世代が社会の中核になると、
経済もバブルから「失われた30年」という迷走を続けました。
道徳力が落ちれば、底力を失い、国力が衰え、政治も混迷します。
「国家百年の計は教育にあり」
という言葉があります。
教育とは、
家庭や学校、地域、職場など
あらゆる場であらゆる立場の国民が何らかのかたちで貢献することができる分野です。
教育を学校や文科省に丸投げするのではなく、
国民一人一人の取り組むべき責任があると考えるべきだと思います。
教育とは国家戦略。
『国民の修身』に代表されるように、
今の時代だからこそ、道徳教育の再興が日本復活の一手になる。
「戦前の教育は軍国主義だった」
などという批判がありますが、
実情を知っている人はどれほどいるのでしょうか。
江戸時代以前からの家庭や寺子屋、地域などによる教育伝統に根ざし、
明治以降の近代化努力を注いで形成してきた
我が国固有の教育伝統を見つめなおすことにより、
令和時代の我が国に
『日本人のこころ(和の精神)』を取り戻すための教育の在り方について
皆様と一緒に考えていきたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。