【映画評】「宇宙人の画家」(2021) 学校的価値観の呪縛

「宇宙人の画家」(保谷聖耀、2021)

評価:☆☆☆☆★

 傑作だ。
 ボルシェヴィキ、大東亜共栄圏、満州国、マブゼ博士、悪魔くん、偽史、ディストピア、クーロン黒沢(ドローン撮影)、などなど、みんなが好きなものが詰め込まれた映画である。
 しかし、若干、違和感もある。
 まず前半、画面はカラーである。緊張感のある画面、意表を突く展開の数々。
 そして中盤、画面はモノクロになり、これまでの物語が、学校でいじめられる少年の描いた漫画の世界だったことが明かされる。前半の心地よい緊張感とは打って変わって、執拗に描かれる、中学生の「現実」というものの心地悪さ、閉塞感。やがて空想の世界が現実に侵食し、いじめられっ子の破壊願望が世界を飲み込んでいき……。

「異端」のパラドックス

 物語を思想的に読み解くのは難しいことではない。
 現実社会で徹底的に迫害される異端者だけが、現実を揺り動かす「ヴィジョン」を見ることができるというパラドックス。悪人を倒し正義を実現したい願望は、人類の多くを抹殺してでも世界を浄化したい独善的な願望と表裏一体であるということ。「負」の評価をくだされた歴史上の事件が、むしろ、「正」の政治的想像力を切り開く可能性を秘めているということ。(あのハッピーエンドは、「大東亜共栄圏」の実現でもあるだろう)。作品の世界観は、「異端者の世界」と現実世界をめぐる普遍的なパラドックスに支えられている。
 しかし、引っかかるのはモノクロのパートである。普遍的なパラドックスの受け皿として、中学校のいじめという設定は本当にふさわしかったのだろうか。
 「異端」対「現実」という対立が、カラーの、つまり妄想世界のパートから浮かび上がるテーマだとすれば、モノクロの現実世界のパートからは、「いじめられっ子」対「学校」という対立が浮かび上がる。「異端者」と「現実」との壮大なスケールの戦いが、実は、可哀想ないじめられっ子とクソガキ&クソ教師との、どこにでもありそうな戦いに過ぎなかったことが明かされるわけである。そして、いじめられっ子の怨念は、いきなり人類の浄化へとつながってしまうわけである。このスケールの狂いを許せるかどうかで、映画への感想は変わるだろう。

総論としての「異端」、各論としての「いじめられっ子」

 もちろん、地獄のような学校的現実を生きるいじめ被害者が、どれだけ破壊的な妄想を膨らませていても突飛なことではない。だが、だからといって、破壊的な妄想を膨らませるために、必ずしも「いじめ被害」という現実がなければならないわけではない。この映画の妄想世界のパートは、「現実」でそれを妄想しているのが誰であっても成立しそうな、単体で普遍的な力を持つ物語だ。「妄想する異端者」というモチーフを「総論」とすれば、どのようなシチュエーションで異端者が迫害されるか、という現実の舞台設定が「各論」ということになるだろうが、それではなぜ、「各論」は中学校という舞台でなければならなかったのだろう。
 ――とはいえ、こうした見方が浮かび上がるのは、「総論」を主眼として映画を観るからこそなのだろう。おそらく、監督の主眼はあくまで「各論」にあるのである。あくまで中学生の妄想を真正面から描いたものとして観れば、いじめという「各論」が「総論」へと飛躍するのも何ら不自然ではない。
 ただ、まず妄想パート、次に現実パート、という順番から言って、つい私は、「総論」を主眼として映画を観てしまった。おお、異端者の妄想が現実へと進軍する入れ子構造なのか! ではその「現実」はどういうふうに描かれるんだろう――という興味を持ちながら映画を観た者としては、「中学校」という舞台は若干、期待の受け皿として貧弱に思えてしまう。「中学生の現実が、妄想に侵食される」映画なのか、「異端者の妄想が、現実を侵食する」映画なのか、主語をどちらに取るかによって、感じ方が変わるのだとも言える。まあ、これは好みの問題かもしれない。

都合の良い「子供」像

 ただし、ここで描かれる中学生たちが、あくまで「大人」から見てそうあってほしい中学生像――「こんな感じの葛藤や破壊衝動を抱えていてくれればいいのに」という理想的な子供像――だということには、注意するべきである。
 この作品は、端的に言えば、「子供」像によって現実社会を異化しようとする。だが、現実社会に「子供」像を突きつけるという方法においては、「反抗する子どもたち」というイメージ自体が、大人の設定した「子供らしさ」のステレオタイプへと回収されざるを得ない。この作品は、学校的現実を妄想の力で破壊する映画のように見えて、実は、「中学生の時はそういうことを考えがちだ」という極めて学校的な価値観のもとで、「学校を破壊する」ということについてイメージしているのである。
 つまり、劇中の、「先生も、若い頃は過剰なものに惹かれたからよくわかるよ」という理解者づらしたクソ教師のセリフこそ、映画の価値観と密通しているのである。
 「特異な才能を持つ少年が、世界を変える」という魅力的な物語において、異端者と迫害者との対立は、さり気なく、「子供」と「大人」との対立へとすり替えられやすい。つまり、「異端者であること」の特性として描かなければならないことが、「子供であること」の特性を通じて描かれがちである。そして、「異端者らしさ」に重ね合わせるのに都合の良い、ステレオタイプ化された「子供らしさ」は、こうした地点で密輸されるのだ。監督も、この罠に足を取られていると思う。だが、表面上、どれだけ異端者=子供の側に立っていても、そのような物語は、異端者と世界との間にある、世界を破壊しなければ解消できないほどの深い断絶にふれることはできない。
 この映画では、キチガイ少年が世界を見る眼差しと、「理解ある大人」が少年を見る眼差しとが混在しているのである。どちらの眼差しにより誠実であるべきだったかは言うまでもない。この作品は、見た目に反して、あまりにも地に足がつきすぎている。不満は残る。

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