【映画評】「死刑執行人もまた死す」(1943) ディストピア合戦

「死刑執行人もまた死す」(フリッツ・ラング、1943)☆☆☆☆★

 脚本にブレヒトが参加。大衆の蜂起に期待を寄せるサヨク・ブレヒトと大衆が怖くて仕方がないラング、水と油のような2人組による、チェコのレジスタンスを描いた反ナチ・プロパガンダ映画である。ある意味、このちぐはぐさも魅力的だ。
 どう考えても、「M」の監督が本気でチェコ人民の相互監視社会を楽天的に捉えていたとは思えない。例えば、殺人の実行犯を密告するためゲシュタポに向かう主人公を群衆が取り囲む場面など、表面的には悪しきナチに屈しない人民の団結を肯定的に描いたと受け取れないこともないが、ラングの真意は明らかだろう。正義のためとあらば平気で「悪者」を取り囲んでリンチする群衆こそ、ナチの尖兵となってユダヤ人や劣等民族を殺戮し、連合国の尖兵となって隠れナチや裏切り者やナチ残党を殺戮する当事者なのである。とすれば、ナチとレジスタンスの対立は悪と正義の対立などではない。ディストピア合戦だ。チェコ人民の結束は輝かしい勝利への布石などではない。ディストピアの原型だ。
 表面的には反ナチ・プロパガンダでありながら、映画は、いかなる政治的解決にも希望を見出さないアウトサイダーの眼差しに貫かれているのである。不気味だ。

 ところで、ラングの病みっぷりは、ラース・フォン・トリアーも連想させる。作風は大きく異なるものの、取り上げるテーマは変態、死刑、アウトサイダー、キチガイ、愚民の暴走、などなどよく似通っている。ただ、当人のキチガイっぷりの度合いは、トリアーのほうが上だろうか。
 キチガイじみた映画というのは多いけれど、実際にキチガイである映画監督というのは案外多くない。対人関係を上手く築けなければ仕事にならないのだから、映画監督は、芸術家にありがちな狂気に遊ぶ余裕を作りづらいのだろう。すぐに思い浮かぶ例外は……トリアー、ホドロフスキー、それにレニ・リーフェンシュタールくらいである。
 (2020年執筆)

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