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映画#10 『哀れなるものたち』 / ノーフィルターで世界を見つめ直す

いよいよ直前に迫ってきたアカデミー賞。
様々なかたちで映画制作に情熱を注ぐ業界人たちの努力が最高のかたちで報われる、あの瞬間。受賞スピーチを聴いていると、こちらまで夢を見させてもらったような気分になる。映画のようにドラマチックなこのイベントが、わたしは大好きだ。

今年のアカデミー賞の個人的大本命は、もちろん『哀れなるものたち』。ただ、評価されるであろう理由を並べると月並みな言葉の羅列にしかならなそうなので、ここではわたしが個人的に推している本作の魅力について、若干のネタバレ含めて紹介しようと思う。

最後まで何が起こるかわからないのも賞レースの醍醐味。本作に限らず、この機会にあなたの本命を見つけて3月11日に備えてみてはどうだろう。

< voodoo girl’s 偏愛ポイント >
・ヘンテコなのに理にかなったフェミニズム
・名優2人が表現する擬似親子の関係


①ヘンテコなのに理にかなったフェミニズム

衣装や美術は非常にアート的で、音楽はなんだか調子外れ、描かれる世界ですら全体的に現実離れしているのに、本作が浮き彫りにする社会の歪みやフェミニズムには妙に納得感がある。

大人の女性の身体で幼児の脳を持つという主人公の設定こそ、この納得感の一番の理由であることはまず間違いないだろう。ひとりの”人間”として、またひとりの”女性”として、多くの人が社会で経験する世の中の矛盾を、主人公の人生を通して、先入観なく、そして前向きに見つめ直すことができるのが本作の魅力だ。

でも、それだけではない。
わたしがとりわけ感銘を受けたのは、”主人公が娼館で働く”という展開だ。

昨年10月の東京国際映画祭にて、わたしは本作をパートナー(男性)と鑑賞した。R-18の映画にパートナーを連れて行くのはなかなか思い切った決断だったけれど、この映画を共有できたことはむしろ良い体験と思っているし、鑑賞後に何気なく彼が放った問いはわたしに考える機会を与えてくれた。

「なぜ娼館で働く必要があったんだろう?」

わたしにとってその展開は自然なように感じられたが、なぜそう感じたのか、聞かれるまで考えもしなかった。

フェミニズムの観点で世の中を変えていくには、より多くの女性が社会活動に参画する必要がある。社会参画の前提には教育が欠かせないだろう。十分な教育を受けるためにはそれなりお金が必要だ。そう、世の中を変えるためには、まずは”軍資金”が必要なのである。

性を消費されようが、搾取されようが、娼館でお金を稼ぎながら学校に通うという展開は、パン屋のバイトなどといった展開より効果的に思える。この不条理をユーモアも交えながら鑑賞者に突きつけること、この歪みに程よい居心地の悪さを感じてもらうことこそ、本作の秀逸さなのではないかと思う。

②名優2人が表現する擬似親子の関係

主人公を演じるエマ・ストーンと、その父親的存在である博士役を演じるウィレム・デフォー。映画にそこまで詳しくなくても、この2人の俳優を一度も観たことないという人は少ないのではないかと思う。

本作では、この名優たちの繊細な表現力によって、実の親子ではないけれど親子のような絆がある2人の関係性にとても感情移入させられる。

特に、博士の最期のシーンは非常にエモーショナルだ。
諸事情で醜い顔となった博士に対して、偏見なく接し続け、本質だけを見ていた主人公。博士はそんな彼女に救いを見出していたことを認め、表情からは愛情が溢れる。主人公の目には、博士の過ちに対する許しとまっすぐな愛情が宿る。

奇天烈な設定であるにもかかわらず自然と感情移入してしまうのは、脚本の素晴らしさだけでなく、演者の実力によるところも大きいのだと思わずにはいられない。

胸アツとはこのこと

昨年のアカデミー賞では、当時個人的大本命として推していた『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』が作品賞含め多数部門での受賞を果たした。

俳優たちの受賞場面では、感極まっているキー・ホイ・クァンに、ユーモアを交えつつ喜びを爆発させるジェイミー・リー・カーティス、子供たちに夢を諦めないよう力強く語りかけるミシェル・ヨーと、多種多様なスピーチに心打たれた。

スポンサーであるROLEXのCMも映画ファンにはたまらない映像に仕上がっていたり、アカデミー賞は、とにかく、胸アツなんです。

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