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美しさの裏側

はーい!センシティブみつをです。(この名前大丈夫なんかな…🤣)
最近何も思うこともなくて開始早々noteを卒業しそうになっていました💦
今日のタイトルは私にとって、音楽にとって「美しい」とは何なのか考えたいと思います!

「美しい」とは何なのか。私たちは、よく表面的な美しさに魅了される。ピアノの音が優雅に響くホール、完璧な舞台に立つ演奏者、そしてその指先から生み出される旋律。すべてが一瞬にして心を奪い去り、息をのむ。けれど、その美しさの裏には、誰にも見えない孤独な時間が存在している。

何度も同じフレーズを繰り返す日々。身体も心も痛くなり、心が折れそうになる瞬間もある。それでも、目の前にある譜面と向き合い続けるのは、あの一瞬の美しさを手に入れるため。まるで完璧な花が咲くまでに、土の中で見えない努力が続くように、私たちの「美しさ」もまた、見えない苦しみや葛藤から生まれるのだ。

とかいう真面目な文章で書こうと思ったけど、飽きてきたので私のクラシック業界の人間への偏見を書きつつ、美しいということについて考えたいと思います。

まず、よく音大ピアノ科といえばお嬢様なのではないかとか、穏やかで優しい、そんな「美しい」イメージがあると思います。そんなことはありません!!繊細で優れた感受性をもっている…そんな人はいません!は、いいすぎですが上手な人ほど気が強くて割と論理主義だと思います。(あくまで私の周りは…です!)だから、選抜で選ばれているからといって、すごく音色が良いからと言ってそれが性格が良いことには全く繋がりません。どちらかと言うと気が強い人や負けず嫌いの人の方が多いです😅

はい!余談はここまでにして、私にとって「美しい」とは何かを考えたいと思います。
何年か前のことですが、ピアノを弾く以前に音を聴くのも嫌になったことがありました。何をしても結果が出ない、本番ではいつも通りの40%も弾けない、更にはピアノを弾いている人を信じられなくなったことも重なってピアノを見るのも怖くなったこともありました。
そんな時に本番前に久しぶりにピティナのステップに出たんですね。もう小さい子とかばっかりで高校生の子がちらほらいるくらい?だったので年齢的にも曲の大きさもあって私が最後、トリだったんです。で、何故か私の前に40代くらいのおばさんがショパンのスケルツォ2番を弾くことになっていました。ピティナのステップは審査の先生方に弾く前に一言だけ伝えたいことをコメントで伝えられるのですが、そこにおばさんが「まだ全然弾けてないんですが、どうしても弾いてみたくて弾きます、弾かせてください」と伝えられていました。演奏が始まると正直お世辞にも上手とはいえない、止まりながらの演奏でしたが、この曲を弾きたい、伝えたいと言う気持ちがもうそれはものすごい圧で伝わってきて涙が止まりませんでした。気持ちってこんなにも伝わるんですね。

ここで、私の師匠に言われた言葉で今でも大事にしている言葉をご紹介したいと思います。

「こうしなきゃいけない、こうしないようになんてそんな閉じこもってちゃ伝えるなんてできないよ。これからはこうしたい、こう弾きたいからこうしたって言ってね。こうしないようには禁止!」

ほんとにそうですよね。なかなかインキャな自分では気づけないありがたいお言葉で今でも切羽詰まった時にはよく思い出すようにしています☺️

てなわけで、「美しいの裏側」というタイトルからはかなり外れてしまいましたが…(まあいつもそうか笑)
美しいと感じるのはその人の今までの人生、価値観によってもそれぞれ。ただ、何かふと立ち止まった時にその儚さの裏にあるものを想像して美しいと感じるのではないでしょうか。
つまり、この世の全てのものが美しい。ただそれを立ち止まって振り返る私がいるか、というような気が最近はしています。
駅の改札を出て暗い夜道ヨロヨロになって帰る誰かのお父さん、帰り道の夕日がいつもより暖かかったあの日、もうここには2度と来ないかもしれないとおもって振り返る最後の場所。
全てが幸せな状態なわけではない、全てが完璧じゃないかもしれない、でも私は不幸せな自分も貴方もやっと受け入れられるようになりました。
不完全だからこそ美しい、一度私と一緒に立ち止まってみませんか。そこには「美しさの裏側=幸せ」が漂っているかもしれません。

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