見出し画像

松尾芭蕉とBL道の旅に出た話① 君たちキク、モモウメ、バナナだね♬ 

はじめに

タイトルに「旅に出た話」と書いてますが、実際の旅に出たわけではありません。松尾芭蕉に関する記事をきっかけにネット検索の旅に出たので、その自分の軌跡を「旅」と表現しました。旅行記(ゲイのヤリまくり旅)だと思った方はスイマセン。どうぞおかえりください(;^_^A。面白そうだと思った方は引き続きどうぞ!!
*あと、途中下ネタが頻繁に出て来ます、というか下ネタ視点での考察がメインですので、そういうのが苦手な方はご遠慮くださいませ。

1:芭蕉のBL事始め

noteを見ていたら、↓こんな記事に出会ったのがそもそもの始まりです。

磯田道史先生と言えば、「武士の家計簿」の原作者である歴史学者。BSでやってる「英雄たちの選択」で司会もされてます。
私的にはラジオ番組「安住紳一郎の日曜天国」に、ほぼ年一でゲストにやって来ては”新しい歴史的発見を面白おかしく話してくれる人”という印象。

先日観た「いいいじゅ~」という番組でも、甲賀の町おこしで、移住者が忍者に関する書物を発見したという写真が映し出された時にも、一緒に磯田先生が写っていた。まさに”歴史の影に磯田あり”だな~wwwと思ったところだったので、ふと、このnote記事の忍者と磯田先生が自分的にタイムリーだったこともあり、読み始めたのでした。

この対談記事は、歴史学者の磯田先生と、俳人であり、芭蕉研究の第一人者でもあり、実際に芭蕉の足跡を旅した小澤實さんが、芭蕉の人物像を掘り下げるという内容です。

第1回目は芭蕉が隠密幕府のスパイ的活動をしていたであろうということを、お二人は語っています。

隠密といっても、黒装束の忍者姿で動き回っていたわけではなく、俳人の姿を借りて、各地の情報、内情を探っていたということなんですが、そもそも芭蕉の出身が伊賀国

異説も多いが寛文2年(1662年)に、若くして伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕え、その厨房役か料理人を務めていたようである。2歳年上の良忠とともに京都にいた北村季吟に師事して俳諧の道に入る。

wikiより

つまり、忍者で有名な伊賀上野の領主に仕えていたわけで、忍者との関わりが元々強い人物だったということですね。なので芭蕉=忍者説は割と支持されているわけです。

「猿蓑」(芭蕉やその弟子が編集した俳諧撰集)や、に関する歌も多いそうで、「猿」とは忍者の隠語だとか。
確かに猿が身軽に飛び回る様子は忍者そのもの。猿飛佐助なんて有名な忍者もいますしね。
実際に忍者は猿を使っての隠密活動もしていたとかで、今もある猿回しなんかも、大道芸として各地を回りつつ、実は裏の顔が忍者だったりしたらしい。
なるほど~、なかなか興味深い。


そして第2回目がコチラ↓

第1回の芭蕉=隠密説は聞いたことがあったんですけど、芭蕉=男色家説は、弟子の曾良とそんな関係だったという説があるんだっけ?…ぐらいであまり詳しくは知りませんでした。

しかしお二人の対談では、割と確信に近い感じで芭蕉=男色家説を語られていて、へえ~面白い!!となりました。

磯田:でも、考えてみると、芭蕉はキャリアの出発自体が、藤堂新七郎良忠の恋人だったような気がするんですよね。

最初に仕えた武将との関係からして衆道の関係ではないかと磯田先生が指摘してます。
この良忠、芭蕉が俳諧を始めるきっかけを与えた人であり、wiki の記載によると、

寛文6年(1666年)4月25日、25歳で死去した。芭蕉は良忠の遺骨(芭蕉のwikiでは遺髪)を高野山におさめ、それよりして無常を観じて故郷を出奔し、一所不在の身で俳諧に専念するようになったという。

wikiより

良忠の家族じゃなくて芭蕉が遺骨(遺髪)を高野山に納めに行くって、なかなかの関係ですよね。地元で弔うだけでもいいはずなのに、わざわざ高野山まで。ここに並々ならぬ想い、そして愛する人を亡くした悲しみで無常を思い、故郷を捨てて旅に出る…まるで失恋逃避行。私も衆道の香りをプンプン嗅ぎ取ってしまいますw


2:杜国とラブラブ💓ランデブー

そして、対談第3回では芭蕉最愛の人・杜国について語られます。

芭蕉の弟子であり最愛の人、杜国。
彼とのラブラブなエピソードがほんと面白い!

お二人の対談で語られる杜国話の前に、
コチラのサイトで紹介されていた芭蕉と杜国の最初の別れの時の句の話をば。

まず二人が初めて出会ったのが、芭蕉の「野ざらし紀行」の旅の途中だそう。芭蕉が開いた句会に杜国が参加し、イイとこ商家のボンボン、イケメン、俳句センスもGood!な杜国にゾッコンラブ💓になった模様の芭蕉師匠。

その時の別れ際に芭蕉が詠んだのが
「白げしに はねもぐ蝶の 形見哉(かな)」
句意「白芥子の花にとまっていた蝶が、飛び立つときに別れが惜しいからと自分の羽をもいで形見に置いていくよ」)

白ゲシを杜国、羽をもいだ蝶を芭蕉自身に例えて詠んだのだそう。
身を引き裂かれる思い、どれだけ最初の出会いからゾッコンになったのかがよくわかります。

ここで、なぜ杜国を芥子に例えたのかを考えてみます。

漢字表記は中国名の”罌粟”を用い、日本では特別に,阿片を取る実を,芥子(ケシ)と名付けています。
”罌”は果実の”けし坊主(阿片の取れる部分)”の形が”罌「もたい:液体をいれる口のつぼんだ甕(かめ)」”に似ていて、種子が”粟(あわ)”に似て いるので名付けられました。

修験行者が行う、内護摩の修行(業や煩悩を焼く為に、行者自身が自らの業として行う)は、護摩木や大豆、小豆、米、胡麻、芥子などを数限り無くある煩悩の象徴(として扱う)。

「ケシのチョット怪しい話」より

これで芥子には煩悩の隠喩、隠語である可能性を想定できます。
芥子坊主(実を切ると白い液が出て来る)、修験道の口のつぼんだ甕、この辺りからもそこはかとなく男色の香りがします。
そして芥子と言えばアヘン幻覚、中毒の象徴。

そう考えると、白い肌の杜国(白芥子)と関係を持ち、アヘンの様な夢見心地の幻惑的な魅力に取りつかれ、羽をもぎ取られるほどの去り難さ…ということだったんじゃないでしょうか?まさしくゾッコン💓ラブ!

そして「野ざらし紀行」1684~1685年の後、
1687年に再び江戸から西へ「笈の小文」の旅に出る。

磯田&小澤対談は、この旅での芭蕉と杜国を言及しています。

「笈の小文」旅の途中、謹慎中で辺鄙な田舎に流されている杜国に会うために、わざわざ渥美半島の端・伊良湖まで道を引き返し、100キロ近くも余計に歩いた芭蕉。
どんだけ好きやねん!って話ですわw。

そこで芭蕉は鷹の句を詠む。
「鷹一つ 見付けてうれし いらご崎」 芭蕉

ここで磯田先生が「逸物(いちもつ)の鷹」に言及。
小澤さんもエロスを感じると言ってますが、「逸物」は優れた人物、馬のことだそうだけど、「逸物 隠語」でググったら、思いっきり「おもに徳川時代の武家の語。 男の陰部の一称とあり」つまり男根だと出て来ます。ググらんでも知ってたけどw
しかしまあ、芭蕉師匠、直球ストレートですな!www

そしてもう一句
「夢よりも 現(うつつ)の鷹ぞ 頼母(たのも)しき」
句意:夢で見たものより現実の鷹(杜国)のほうがやっぱりいいなぁ)
とも詠んでいる。夢に見るほど会いたかったんだwww

そして杜国がその時に詠んだ句が
「昼の空 蚤(のみ)かむ犬の 寝(ね)かへりて」 野仁(杜国)
季節は10月だそうなので、「昼の空」は秋空。澄んだ気持ちのいい秋晴れを想像します。
ノミを噛もうと寝ころぶ犬…
これはヘソ天、お腹を見せて転げまわる様子でしょうか?その様子は主人に撫でられお腹見せて喜んでる犬と重なります。久々に芭蕉に会え、秋空の様に爽快で気持ちイイ、サイコ~!!寝転がって体をウネウネよじらせて喜んでいる自分自身を犬になぞらえて詠んだ、ということなのかな~と邪推してみますw

そして杜国に会った後、芭蕉は尾張や伊賀上野で用事を済ませ、杜国は謹居中だけど抜け出し、2月頃に伊勢で二人は落ち合う。
そして、二人で吉野へ旅に出た話が「笈の小文」に書かれてる。

二人は身に着ける檜の木傘の裏に、
「乾坤無住同行二人」とまず書く。
意味は「天地に住むところ無く。同行する者二人」という意味だそう。
伊勢で落ち合い、二人っきりの逃避行、ランデブーに出発よ、ウフッ!って感じがしないでもないwww

そして、
「よし野にて 桜見せうぞ 檜の木笠」 芭蕉
(句意:さあいよいよ吉野見物の旅だ。檜木笠よ、有名な吉野の桜をお前にも見せてやろうぞ。)
と檜木笠を擬人化して詠んだ句を、芭蕉が笠の裏に書くと、
「よし野にて 我も見せうぞ 檜の木笠」 万菊丸(杜国)
と杜国も似せた句を自分の笠に書く。
「私も(一緒に)見せてあげるよ~檜木笠ちゃん!」ってノリなわけでしょ?
もうラブラブでんなw

これ、檜の木笠=杜国と捉えると、「君(杜国)に有名な吉野の桜を見せてあげるよ~」ってことになるし、杜国の方は「(桜もいいけど)私も見て見て~檜木笠ちゃん(=芭蕉師匠~)」って感じにも取れなくもない(爆)。

そして杜国は謹居中なので、一応おおっぴらに出歩いてるのは憚れる。それで杜国はこの旅の間は「万菊丸」と名乗るよ!と言い、芭蕉も面白いね!って返してる(参照)

「万菊丸」って、これまたなんちゅう名前!!
「菊」ってのは菊門=肛門の隠語というのは有名な話。
「万」女性器かどうかは怪しいですけど(江戸時代は女性器は「ぼぼ」と呼ばれていたらしい。「まん」が一般的になったのは明治以降ー wikiより)、それでも毛の生えてない時のものが饅頭に似てるので、「まん」と関連付けられるのは江戸期にもあったらしいです。

ということはですよ、万菊丸なんて、今風のお下品な言い方したら
「ケツマ〇コ野郎」ってことじゃないですか?(〃ノωノ)

それで喜び合ってる二人、オモロすぎるwww

「丸」は男の子に付ける字。牛若丸も鞍馬寺で坊主たちに凌辱されたと言われるし、森蘭丸も信長に愛された小姓。ここにも平安時代から続く男色名付けルールなんかがあるのでしょうかね?)

ちなみに「万菊」で検索掛けたら、
「佐野川万菊」という歌舞伎役者が出て来ます。
1690-1747 江戸時代中期の女形
杜国が没したのが1690年。この後、佐野川万菊が現れる。
江戸期、陰間茶屋若衆歌舞伎では、女形が男の相手をするのは普通に行われていたことですよね(参照)。昼は芝居をして、夜はパトロンの相手がお決まりのルーティンだったそうです。

そして三島由紀夫「女方」という小説で、この「佐野川万菊」という名の歌舞伎役者が出てくるそう。舞台は昭和(?)で江戸時代ではないけれど、歌舞伎役者と歌舞伎作家との同性愛らしき関係が仄めかされてるそうです(参照)
ゲイの薫り高き三島先生が、わざわざその名を引っ張ってきて同性愛を匂わせる…「万菊」という名は結構な割合で男色の隠語なんだと思うわけです。
(ググっていたら、料亭で「万菊」というお店が出てくる。全てがそういう意味で名付けられてるわけではないと思います。でも江戸期創建だったりしたら、昔は陰間茶屋とかだったのかもしれない…とんだ風評被害だな(汗))

この後「笈の小文」の旅で芭蕉と杜国は吉野、そして芭蕉の最初の男(?)良忠が眠る高野山、紀の川に沿って和歌浦、そこから大阪、須磨、明石、京都で杜国と別れ、東海道で江戸の方へ戻って行きます。(芭蕉の旅の行程)
(ここで高野山須磨が行程にあるのが興味深いです。そのことについてはまた別記事で書いてみたい)

そして磯田&小澤対談では「万菊丸いびきの図」にも言及してる。

コチラのサイトより引用

お二人は敢えて言及してませんが、二人が恋人同士だからこそ、同衾していて、愛しい杜国のイビキさえ愛おしくて絵にしたためた芭蕉…ってことですよね?普通うるさいイビキの絵なんて描きませんよ。我慢できずに離れて寝る。よっぽど好きってことですよ。

イビキの音を時間軸とボリュームで図式化していて面白いと磯田先生は言ってます。

確かに面白い。でもこの図、奇しくも、体内の臓器の図における肛門から直腸、小腸へと続く部分に似てません?考えすぎ?エロBL漫画とかで体の中の様子が描かれるとき、こんな感じよw。万菊丸のイビキを肛門と重ねて描いて喜んでいた可能性、ないですかね?(笑)

*****

追記:杜国を訪ねて伊良湖に行った芭蕉が
「鷹一つ 見付けてうれし いらご崎」 
と詠んだと書きましたが、
この「鷹」は磯田先生がいう「逸物」もですが、まさに男色の象徴である若衆と関連付けられることが多かったようです。

コチラのツイートを見て頂けると、

鷹匠に扮した若衆の大津絵が多く描かれているのがわかります。

徳川家康と井伊直政の関係なんかも反映されて、若衆&鷹は文化として定着していたのかもしれません。

ある時、徳川家康が浜松城から鷹狩に出かけると、井伊直政が跪いて名乗り出たのです。徳川家康は、ひと目で井伊直政を気に入りました。そして井伊直政の出自を知ると、井伊家の再興を許し、井伊家の旧領を与え、小姓としてそばに置くことにしたとか。一説には、男色の気のない徳川家康も魅了されるほどの美少年だったと言われています。(刀剣ワールドより

小袖を身につけた凛々しい若者松下虎松(直政のこと)(浜松市 直虎物語より)←わざわざ小袖を仕立てて会いに行っているので、若衆としての魅力を利用しようとしていたのが伺える。

芭蕉は勿論この逸話は知っていたでしょう。家康が鷹狩りをした場所は、浜松城から出かけたということなので、杜国がいた三河の国だったのかも?
そうなると、家康&直政の逸話も踏まえて、上記の句を詠んだのかもしれませんね。


3:エロ名付けジジイ芭蕉

磯田&小澤対談の#2、「美少年は見逃さず名前をつける」の項目で、
芭蕉は旅先で出会う美少年に俳号を授ける話をされています。

まずは山中温泉で会った十四歳の久米之助という少年に、芭蕉は「桃妖」という俳号を贈る。

そして詠んだ歌が
「桃の木の その葉散らすな 秋の風」 芭蕉
「山中や 菊はたをらぬ 湯の匂」 芭蕉

「桃」「菊」も、どう考えてもお尻、ア〇ルの隠語でしょうよ。

磯田&小澤両氏は敢えて言及してませんが、この2句を紹介してるということは遠巻きに示唆してますよね。

14歳がこの時代、手を出してOKな年齢なのかどうかわかりませんが、お世話になってる家の主人?息子?に手を出すわけにはいかない…っていう”辞世の句”ならず自分の欲望を抑える”自制の句”ですよねw

桃の木の葉を散らすな=ア〇ルを奪うな 秋(老齢に差し掛かった)の風(彷徨っている自分)

菊をたをらぬ(手折らぬ)=これもアナルを奪うな ですよね。
少女漫画とかでも処女喪失場面とかで薔薇の花びら散らしたりする、あの感じですよね。

じゃあ”湯の匂”はなんでしょう?温泉の硫黄臭さと少年の青臭さ?イカ臭さ?を掛けてる? では、「奪っちゃだめだけど、でもこの匂いがたまらん!!」ってことですかね?w

とにかく久米之助少年の桃尻がたまらん!!なんて妖艶なお尻!!
ってことで「桃妖」なんて俳号を贈ったとしか思えないです。

***********

芭蕉が尾張の俳句の天才少年梅舌(ばいぜつ)という俳号を与えたものでした。
なんかやたら朝の句が多いんです。天才少年といわれた子が、どうにもエロティックな句を詠んでいる。芭蕉のボーイズラブということを考えるときに、この梅舌が怪しいと思って、ほかにも資料が出てこないか気にしています。

磯田先生の談

次は「梅舌」
梅舌が詠んだ句

「袖すりて ”松の葉契る” 今朝の春」
「うぐひすに ”水汲こぼす” あした哉」

小澤氏は、” ”辺りに衆道の匂いがプンプンすると仰ってます。

「舌」って言うのがまずエロティックですよね。

では「梅」に同性愛、男色的意味合いがあるのか?
あまり聞いたことがないので探してみました。

すると、で有名な菅原道真にも男色を匂わせる話があるようなんです。

コチラのサイトによると、

梅は男色を意味するものだとも言われます。
道真は梅のほか、菊も大変愛していたようですが、菊も男色を意味するとされます。
すると道真を慕う男色の相手が大宰府までやってきた、ということなのかも?

と書かれています。

太宰府にある有名な「飛梅」梅が枝餅美味しいですよねw
確かに京都から梅の枝が飛んできたという伝説を、「梅」に相当する人物が飛ぶようにやってきた、というように考える方がしっくりきます。

そして上記サイトでは「梅」にあたる人物、道真が太宰府左遷後に飛んでやってきた人物が渡会春彦だと教えてくれています。

渡会春彦調べてみると、伊勢神宮下宮の権禰宜で、子供に恵まれなかった道真パパに頼まれて祈祷をしたら道真が生まれ、その後、道真の世話係になった人物。左遷時には周りの目があるにも関わらず馳せ参じ、道真亡き後も、遺品を子供に届けたりと、二人の間には強い絆を感じさせます。

道真が左遷される前にを見ながら詠んだ有名な歌
東風吹かば にほひをこせよ 梅花 主なしとて 春を忘るな」
(春の風が吹いたなら、香りを送っておくれ。 梅の花たちよ、主の私がいなくなったからといって、春を忘れずに咲くのだよ)

この時の梅は白梅だったそうです。
渡会春彦は若い時から総白髪だったそうで、俗名が白太夫

春を忘るな…には春画、売春と性行為の隠語の可能性もあるし、春彦の、「春彦を忘れないよ」って意味も含めてる可能性もある。春彦とのめくるめくセ〇クスを思い浮かべながら詠んだというゲスな勘ぐりも出来ちゃいますよね。
そして太宰府に、京都の道真邸にあった白梅の枝を持ってきたのが春彦だという話もあるそうです。そうなると「飛梅=春彦」説はあながち間違ってなさそう。

インテリの道真の男色伝説を踏まえて、インテリの芭蕉が「梅」を使う。
天才菅原道真の男色香を「梅」に込めつつ、同じ天才少年に、素晴らしい俳句を紡ぎ出す舌、そしてエロティックな舌技を称えて命名した可能性もありそう。(井原西鶴「男色大鏡」では9歳ぐらいで既に男色の技がスゴイ少年が出てきたりするらしいので、少年と言っても侮れません)


4:松尾バナナ師匠


で、ここまで芭蕉がゲイエロティックな名前を好んでると言うことを踏まえて、本人のことも考察して仮説を唱えてみます
(あまりにも下品なので、研究者たちは敢えて主張してなさそうなので、私が声高に言ってみるw (パッとググったけどそれらしきものは無かった))

芭蕉の俳号宗房(そうぼう)、次いで桃青(とうせい)、そして芭蕉と変化していきます。

宗房(そうぼう)、主人の良忠の別名が「宗正」。たぶん主人から与えられた、もしくは二人の師匠の北村季吟に与えられたのでしょう。二人のつながり、衆道上の義兄弟として同じ漢字を使っている可能性はあると思います。江戸に出る前の伊賀上野にいた頃はこの俳号だったようです。

次に桃青。これは江戸に移って来てから名乗るようになったらしい。
青い桃。これが自分のことをまだ若い桃と言っているとするには、すでにこの時31歳ぐらいになっているので、ちょっと無理が有る気がする。

この後、多くの弟子が出来、最愛の弟子杜国が13歳下、そして14歳の美少年に桃妖、尾張の天才少年に梅舌と俳号を贈ったことを考えると…若い男好きを冗談めかして桃青としたという可能性が高い気がする。オッパイ好きな男がオッパイ星人って自分のことを言うノリと同じ。

そして最後は芭蕉です。

芭蕉の由来は ↓ のように言われています。

そうなんです!「奥の細道」で知られる松尾芭蕉の名前は、バナナが由来なんですよ!

なんでも松尾芭蕉の住居の庭には弟子が贈ったバショウが立派に育っていたことから芭蕉庵と呼ばれていたとか。残念ながら食用になる種類ではなかったそうですが、江戸時代に庭植えされていたんだなと思うと面白いですね。

ときわミュージアムHPより

芭蕉=バナナとは言われますが、現在の熱帯に育つ食用バナナの木ではなく、観賞用の温帯でもギリギリ育つ、近い種類の木だったと思われます。
wiki によると、弟子が贈ったのが先で、その後に芭蕉と名乗り始めてるようです。

ではその芭蕉の木。コレのはどんな形状でしょう?
コチラのサイトを参照すると、食べられないそうですがモンキーバナナのような小振りのバナナがちゃんと出来ています。

もうお分かりですよね?
芭蕉にはバナナ=男根型の実がズラ~と並んで出来るわけです。

若い桃(お尻)好きのおじさんの家に、弟子たちが男根型の実が生る植物を贈った。もうこれは「師匠、お尻も好きだけどチ〇ポも好きでしょ?ホラ、この木、いっぱいチ〇ポが実るんですよ~」ギャハハハハという下ネタジョークを、芭蕉の庵で開かれる句会で笑い合ったのかもしれない。弟子兼愛人たちに愛された芭蕉w

それでノリのいい芭蕉は、「じゃあこれから私は芭蕉(=チ〇ポ野郎)と名乗ることにしよう!」となった情景が目に浮かぶようです(←スゴイ妄想力w)。
ビートたけしが、父親がオネエ系の店をやってると聞いて「玉袋筋太郎」と名付けたのと似たようなノリですかね?(;^_^A

ということで、松尾芭蕉、松尾バナナ師匠、松尾チ〇ポ師匠 と、卑猥な隠喩を含みつつ、当時ではちょっと珍しい植物名を使って、最先端で粋な感じに命名した説を主張したいと思います!!www


5:かな表記がミソ!「おくのほそ道」

ここまで芭蕉師匠の男色の歴史や、ちょっとエッチなネーミングセンスを見てきました。
そこで彼の代表作「おくのほそ道」に注目したいと思います。

下ネタを考慮に入れると、「おくのほそ道」「おく」が東北、奥州の「おく」だと表向きはしつつ、「おくのほそ道」=「締りのいいア〇ル」という意味の可能性が十分ありそう。

で、ふと思ったのですが、「おくのほそ道」という表記。
昔は「奥の細道」と漢字でも表記されていた記憶があるのですが、なんでも弟子が書いた本が古書店から発見され、それが平仮名だったので、それ以来表記は平仮名の「おくのほそ道」が主流になったようです。(wikiにも芭蕉自筆の題が平仮名だったと書かれてました)

そうなるとですね、勘繰りたくなる私w
一つの単語なのにあえて一部が平仮名の「ほそ」が気になる。
なんかイヤらしい意味がないかな~と考えると、「ほぞ」はどうかと思うわけです。昔は濁点を付けない表記はよくあったので、「ほぞ」を「ほそ」と書いてもおかしくない。「ほぞ」とは、木材加工でにピッタリ合うように加工された出っ張り部分ほぞ継ぎの図を見て貰えば、まさしく穴に出っ張りを突っ込むわけで、セ〇クスを想起させます。

「おくのほそ道」、中々に奥深いネーミングだったわけですねwww

なんだかものすごく強引に下ネタに結び付けてない?と思われる方もいるでしょうが、当時は現在とは性に対する感覚は全く違いましたから。銭湯も混浴ですし、もっともっとおおらか。西洋文化、キリスト教の影響が強くなってきた明治期以降に禁忌感が強化されていきました。

例えばコチラのサイトで多くの春画を紹介してくれていますが、まあそれはそれは北斎、歌麿などの有名絵師たちが春画を描いていて、そのバラエティ、アイデアに驚きます。

芭蕉と同時期、元禄時代の有名な作家の井原西鶴「男色大鏡」という物凄いボリュームの同性愛の物語集を描いています。今で言ったら「BL大図鑑」。40章、40パターンの男同士の愛の形。

同性愛を当たり前のようにベストセラー作家が書き、人気浮世絵師が描いてる時代に、同じ時代を生きたインテリの芭蕉に影響が全くないとは考えにくいです。ここまで数々のヒントを垣間見てきたら、「おくのほそ道」の名前にDouble Meaning、Hidden Meaningを持たせる、インテリの人が如何にもやりそうです。それも言葉選びのプロ中のプロです。
自分の弟子や教養のある人達を集めた句会、つまり文化人が集まるサロン文化ではこういう下ネタなんて、皆さん大好物ですしね。

昔、「おく」=「奥方」=女性器の意味としての下ネタジョークを見聞きしたことはありました。確かに「おくのほそ道」だけだと男色限定とは言い難い。そうすべての性を表しているのかもしれません。

「おくのほそ道」の序文は
「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」
芭蕉は長い旅路の中で、諸行無常の境地を感じてきたわけです。

深い契りを結んだ良忠杜国も早逝し、旅の途中で一笑という弟子が亡くなっていたことを知ると
「塚も動け 我が泣く声は 秋の風」
(お墓も動いてくれ。悲しみで泣く私の声は、今秋風となって吹き荒れていることよ)
墓を動かすほど泣く、まさしく慟哭。それほどに命の儚さを思い知らされている。

その儚く移ろいやすい時の中で、性は人間における命の輝きだと思っていた気がします。また「道」には信義を重んじる「衆道」の意味を含ませていた可能性もあります。

「おくのほそ道」という「奥州の細く長い道」を辿った旅の軌跡という表の意味に、性的要素を加えることで命の輝き人間賛歌的要素を含ませ、「道」を漢字で強調することで、衆道で特に大事にされる信義の道、信義は男女関係なく、人として生きる上で大事なであるという意味をも含ませた、非常に秀逸で、奥深い味わいを与えるネーミングだったのではないでしょうか?


旅の続き

コチラの記事でこういう記述を見つけました。

連歌が”雅”なのに対し、俳諧連歌は”俗”。滑稽、ユーモア、とんち、シャレ、パロディが特徴だ。ただ、パロディなだけに、元ネタとなる和歌とか漢詩とか教養がないと意味がわからない。

四季で巡る松尾芭蕉の生涯「芭蕉TERAKOYA」より

俳諧は滑稽、ユーモア、シャレなどが特徴だと言及されてます。俗っぽいシャレを込めることこそ俳諧の真髄だと考えれば、芭蕉のネーミングの裏には必ず何か意味があるに違いありません。俗っぽいシャレの最たるものが下ネタであるでしょう。なので、私の仮説も案外的を得ているような気がしないでもないですw

上の記事は、芭蕉の生涯を紹介する講演のレポのようで、芭蕉と主人の良忠との句のやり取りなんかも紹介されていて、ますます私の仮説を強化してくれる情報があり興味深かったです。

でもまあ、結局、この思考の旅で一番言いたかったのは「松尾バナナ師匠」ということでしたwww。
しかし、じゃあアレは?あそこは?と興味はまだまだ続いたので、その軌跡はまた近いうちに書きたいと思います。

芭蕉にそんな意味が!実は私もそう思っていたよ!下ネタ面白かった!何でもいいので楽しんで頂けたなら「スキ」💓を押していただけると励みになります!!

いいなと思ったら応援しよう!