劇場版「ミステリと言う勿れ」を観て、これはミスフェミ作品だと気付いた話
劇場版「ミステリと言う勿れ」を観てきました。
*ネタバレ含む部分もありますので、知りたくない方は読むのをお控えください。
はじめに
とにかくよく喋る大学生・久能整(くのう ととのう)が、色んな事件に巻き込まれ、鋭い観察眼と少し異なる角度からの視点で喋り倒して事件を解決に導いていくお話です。
私はドラマ化、映画化の前からマンガを読んでいた勢です。
書店で、よくあるマンガとはちょっと違うあの独特のタッチの表紙が並んでいて、妙に興味を惹かれて手に取ったのでした。前情報なく、まさに表紙買いと言った感じ。そして読み始めると、アッ、こういう話なんだ、面白い!となりファンになりました。
なのでマンガを読みながらイメージを膨らませていたから、ドラマ化ではその自分のイメージとのギャップ、ズレにちょっと冷めた視線があったのは否めません。いわゆる原作厨の傾向があるってことですねw
ドラマ化の時も思ったのですが、私の中の主人公・久能整君はもっと飄々としてるイメージなんです。しかしドラマだと妙にミステリーの種明かしの時に説教臭く感じてしまうんですよね。あなた○○ですよね?的に問い詰める感じ。それより自分の話に夢中になって周りが見えてない感が強い方がいいんだけどな。
あれは菅田将暉君の演技プランなのか?監督の演出方針なのか?どっちなんでしょうね?
それ以外の場面では癒し系みたいなキャラなのに、クライマックスではちょっとキャラ変したかのようになってしまうのが、ドラマの時も、今回の映画の時も微妙に違和感を感じてしまうんですよね~。
(演技が悪いとかではなく、演技の解釈が私の解釈と合わないという意味ですので、お間違えの無いようお願いします。菅田君下げをしたいわけじゃないです)
ミステリじゃないよ○○だよ
そもそもこの作品、制作してるフジはミステリー作品として売りたい感をビシビシ感じるんですけど、「ミステリと言う勿れ」っていうタイトルにあるようにミステリーではない。原作者の田村由美先生もあとがきで
と書いているし、
ダヴィンチのこの記事でも、
と説明されています。
ミステリー部分は単なる装置と言うかセットと言うか、話に流れを作るためのものであって、この作品の本質というか見どころ?読みどころ?は「作者・田村由美先生の分身である久能整が斬る社会の固定概念」ってところだと思うんですよね。
そして多くの固定観念は家父長制によってつくられている男側からの、男に都合のいい固定観念。それをバッサバッサ斬っていくので、私的にはある意味でのフェミニズム・マンガだと思っております。
<ここからちょっとネタバレあり>
そもそもミステリーだとしたら、今回の映画の場合、中盤で「鬼の集い」の話が出た時、ボス鬼に従っていた2人の子分の存在が狩集家に従う車坂家と真壁家に当たるはず。そうなると両家が一気に共犯の可能性が高まっているにもかかわらず映画では奇妙なほどスルーしていたように思いました。これだけ人がいるのにそこ誰もつっこまんのか~い!!って。
原作も見てみましたが、整がお手伝いのマリさんに狩集家で働きだした経緯を少し聞くだけに留まっていた。もっとミステリーにしたいのなら、ガッツリ関係者に躍り出た車坂家、真壁家の関係者、特に車坂朝晴を疑わせないようにミスリードする何らかの仕掛けを用意しておかないと、最後のネタバレの時のインパクトが非常に弱くなる。それをしていないんだからそこまでミステリー要素は重要ではないということだと思うんですよね。
というわけで、映画はミステリー作品にしたいにもかかわらず仕掛けが不十分なので、ミステリー作品としてはなんか中途半端な作品になってしまっているのが残念でした。
先述した「作者・田村由美先生の分身である久能整が斬る社会の固定概念」を前面に押し出した方が絶対イイと思うんだけどな~。
脚本家は女性でしたが、基本制作陣の主要ポストは男性が占めている。なのでどこか男性批判になる要素は強調したくないからフェミニズム要素に焦点をあてず、ミステリー要素に焦点をあててるのかな?と邪推しちゃいます。
ミステリー解決のカタルシスもいいけど、社会に蔓延る固定観念をバッサバッサ斬っていくカタルシス?爽快感?も悪くないと思いますよ。
たとえば、原作を読み直していたら、
「運動能力は母親から遺伝するんだそうです」という説を紹介し、
「メジャーリーグのスカウトは選手の母親を見るんだそうです」とつなげる。
あくまでも一説であり、コレが真実だと広めるのは危険という判断で映画ではカットしたのかもしれませんが、女性の遺伝子の重要性をあまり主張したくない意識が働いてるんじゃないかと穿った見方も出来ちゃうんですよね。
この場面、容疑者のいとこ4人を一人ずつ懐柔していくというか、整くんの側の味方に変えていく結構重要な場面、それも一番厄介そうな新音(ねお)との距離を縮める場面をすっ飛ばすのはやっぱりちょっとヘン。映画では最後の別れの場面で、新音が急に優しくなってデレてて非常に雑な感じになっていた。過程を描くことでグッとキャラに人間味が加わるのに。
う~ん、ちょっとどれくらいフェミ要素がカットされてるか気になってきました。
ということでマンガの広島編での整くんが披露する印象深いエピソードを並べてみて、どれくらいフェミニズム的なのか?そして映画ではどれくらいフェミニズム的要素がカットされたのか?考察してみたいと思います。
フェミニズムの伝道師!?久能整くんの名言集
映画の全場面、全セリフは憶えてないので、かなりあやふやな部分がありますが、ご了承くださいませ。
乾く前のセメント
まずはコレ。
これは映画でも使われていました。
「三つ子の魂百まで」的な意味ですよね。
子供の人格形成時の言動はもっと気を遣うべきだと。一生の傷になりかねないですから。
これは男女どちらかの問題ではなく、大人の問題ですね。
特に日本は、いや海外でも出来てる国は少ないんだろうけど、子供を所有物のように大人の都合で好き勝手に扱いがち。自分達の欲の為に利用したり。それが彼ら、彼女らにどういうインパクトを与えるか、もっと想像力を持たないといけない…と言うことでしょうね。
食べてから行こうよ
次に、
整と汐路のお好み焼き屋での会話。
映画ではお好み焼き屋に訪れる場面は無かったように思うからカットされていたはず。
これって、料理人の例として出てくるのが奥さん。女性が作った食事を”男”がないがしろにしてる と言っている。
男の?仕事優先主義の?横暴さをボヤいているって感じ。
そういう部分は耳が痛いから?ウザいから? カットされちゃったw
ハンマーと釘
次は、アメリカのことわざ。
これって映画で言ってたかな?
意味を調べてみると、
これは限られた手段しか持たない、あるいは、固定概念や過去の成功体験から限られた手段に固執することで、問題の本質を正しく捉えられなくなることへの戒め
だそうです。
これは今の日本社会全体に当て嵌まりそうな、耳の痛い批判ですね。
「失われた30年」はこの固定観念、過去の成功体験から逃れられないからとはよく言われてますし。フェミニズムは女性だけの問題でなく、こういう凝り固まった社会通念のようなものを打破していく運動という観点で見るなら、この発言も十分フェミニズムですね。
こどもはバカじゃない
次の二つは流れで出てきた言葉。映画の中でも使われてました。
上のスパイの話は、先ほどのコンクリートの話と共通する話だと思います。
両親のケンカで子供を自分の側に引き入れようとする行為なんかも、あとあと禍根を残すことになりかねない。
「こどもはバカじゃない」
これは本当にそう。ものすごくよく観察していたりする。固定観念で真実が見えなくなっている大人よりもまっさらな目で真実が見えていたりもする。
侮ってはいけない。
これも子供を一人の人間として尊重する意識の低い大人達への戒め。
特に子供と接する機会が少ない男親に聞かせたい言葉って感じじゃないでしょうか?うちの家でも母親より父親から「バカ バカ 世間知らず」と罵られることが多かったです。
絹代の存在
<ネタバレ含みます>
映画の中では理紀之助の恋人・真壁絹代の存在が全カットでした。
車坂、真壁家の子供が一人っ子の時は狩集家の人間とは結婚できないという昔からの掟の設定自体が説明されていなかったと思う(違っていたらスイマセン)。
朝晴が登場した時も、汐路の初恋の相手だけど結婚は出来ない等の説明…ありましたっけ?無かった気がするんだけど。
女性のキャラの存在がまるまるカットされたことで女性軽視だ~なんてこじつけを言ってみたりw いや別にいなくても成立する、大して見どころもないキャラだから仕方がないかな。
でも狩集家の人物を暗殺しないといけない使命を背負うから一人っ子の時は配偶者を殺すことになるから結婚が出来ない、ってのは割と重要な理由のような気もするんですけども…。
それは迷惑
汐路が整の服を洗濯しようとして、整が拒否する場面。
これは昨今のセクハラ、パワハラの被害者側の論理を表していますよね。
吉田秋生先生の「詩歌川百景」でも”毒リンゴ”の話がありました。
善意のつもりの蜜がかかった毒リンゴ。
美味しいと思って無意識に渡してしまった毒リンゴ。
まあ少なくとも相手のイヤなことはしない。
当たり前と思わず、面倒と思わず、事前に確認、了承を得る。
相手が子供だろうと…ってことですね。
証拠を出してみろ
「証拠があるなら見せてよ」と、汐路がしらばっくれて逆質問してくる場面。
これは映画のPVでも使われてる場面。
いろんな状況で一概には言えないことですが、バッと言って相手のリアクションを見るのには非常にいいセリフだと思います。
固定観念とかフェミ的要素はないですかね。
ジャニーズ問題で密室での性加害、それも未成年が相手。証拠なんか残せる状況じゃないことは想像力があればわかることなのに、被害者を貶めたいから執拗に証拠を出せ、証拠がないだろと責める人たちを見て、あ~加害者側の人間、少なくとも加害者側の思考傾向のある人なんだなと思いながら見てましたw
ホラー映画のお決まり
従兄弟4人が集まった時に整くんが言うセリフ。
このセリフには薄っすらフェミ的要素を汲み取りましたよw
悪い奴がすること、例えば権力者たちがすることに、「分断」がありますよね。大きな対抗勢力、自分の脅威にならせないために仲間内でケンカさせてバラバラにして力を削ぐ。それだと悪者の思う壺だから、ちゃんと会話して協力しましょう。力を集結しましょうと。
フェミニズム運動によって社会を変革する時には、同じく協力して大きな力になることが重要。#Me too運動でもそうだったし、今回のジャニーズ問題も同じ。しばしば被害者を分断しようとする勢力が暗躍してるけど、協力して告発が集まり、そしてさらなる告発を呼び大きな力になっていっている。何が真の敵なのか、ブレないことが大事ですね。
血は水より…
これは…
これは映画でも言ってたように思うけど…
なにか特別意味ありますかね?
このセリフの後パッと話題が変わるし、ただの疑問というかボヤキっぽいw
いや、そんなことないのでは?と改めて意味をググってみる。
血の繋がった血縁者同士の絆は、どれほど深い他人との関係よりも深く強いものであるということ。
あ~なるほど。日本って血縁主義強いですもんね。親子の絆というか血縁の呪いぐらいに感じる時がある。
そして排他的で里親制度なんかもなかなか一般的にならないし、継子への虐待も多い。
30年ぐらい前に読んだ桐島洋子(桐島かれんの母親ね)の本に、アメリカの友人の数々を訪れて様々な家族の形、夫婦の形を紹介するものがあった。その中に養子、継子、半兄弟など様々な形の子供を養っている家族が割と珍しくないと紹介していたから、血縁主義が根強い日本とは随分違うんだな~と思った記憶があります。
(他にはスワッピング文化も発達してて、夫婦交換を楽しんでるカップルの話とか、なかなか興味深い本でした。30年経っても憶えてるぐらいだしw)
特に家父長制度においては血縁主義って大事だったりするから、これも遠巻きながら家父長制への批判だったりするのかもしれません。
誰が決めたの?
理紀之介とその母親の会話に割って入って、整くんが理紀之介に言う言葉。
コレ、映画では無かったような?
理紀之助の母が恋人の絹代とは結婚できないしきたりについて話すことを受けての話だけど、絹代が映画では存在していないので理紀之助に言う必要が無い。
この後のゆらとその父親との会話の時にまとめて整くんが言っていたような気もする。どうだったかな?ウ~ン(-_-;)
このセリフも男女どちらかというとしきたり、ルール作りをしてきたのは家父長制においては圧倒的に男性なので、家父長制が時代にそぐわなくなってきている現在、その時の最善の判断でルールを人=女性も変えていいんだというメッセージのような気がします。
父親たちの実験
そしてゆらとその父親との会話がはじまり、またまた割って入る整くん。
そして父親に話すのは…
父親たちを集めたある実験
簡単な計算問題を一時間以内で解くように言われる。
しかし数分おきに邪魔をされる。
父親たちはイライラして、解けきることが出来ずに怒り出す。
「これが 子育てをする母親たちの毎日なんです」
達成感を味わえないその苦しみ 父親たちは黙ったそう。
この実験の話、映画では無かったような気がする。
追記:wikiによると
実際には小説家の水木ナオの作品を元にした架空のものであり、田村がインターネット上で目にして事実だと誤認して使用していたと判明した。
ということなので、実際の実験ではないから映画でも使われなかったということでしょうかね。
家事と子育て
ココは飛ばして次の…
この部分は完全に男性下げ。男性がいかにも家事や子育てが誰でもできる楽なことと強弁して押し付けてきたかを指摘している。この映画のなかで最もフェミニズム的なパートのひとつ。
しかし映画では実験結果による「男性が耐えられない」というファクト部分はカットした。これは穿った見方をすれば、このフェミ的意見の弱体化を図っているとも言えなくもない。男性が耐えられないというのは女の勝手な思い込みだろうと。う~ん、ちょこちょこセコイ女性下げをかましてきますねw。
(追記:ここは上に追記した理由からセコイ女性下げではないと思われるので、スイマセン<(_ _)>)
自分の中から出てくる言葉
そして付け加えてのこの部分も超フェミニズム的。
「女性をある型にはめるために」…家父長制の制度化の従属者にされてきた女性に、「自分の中から出てきた言葉」つまり自分の声を持とうと言っている。極めてフェミニズム的です。
整くんは、フェミニズム視点を持てていない日本の女性にそれを気付かせていくフェミニズムの伝道師といっても過言ではないかもしれないwww
伸び時です
汐路が絵を描くのを辞めた理由を話していた時の整くんのセリフ。
これは映画でも言ってたかな。
フェミ的発言ではないですかね。
伸び時なのはわかるんだけど、ヘタだと感じる感情と戦わないといけないから楽しくないんですよね。楽しくないと続けられない。う~ん、難しい問題だ。
母親から遺伝する
そして先述した新音が、母親への当てつけからサッカーを辞めた話に対して出してきた整くんの話。
ココは映画ではバッサリカット。
この新音のパートと先ほどの理紀之介とのパートが無くなったので、整くんの話で二人と距離が近づくという文脈が映画から無くなった。
ココ無くしたら登場人物に感情移入する部分がなくなって、最後の距離感もちょっとヘンになるし、4人の従兄弟と整くんのチーム感が薄まると思うんですよね。
男性キャラ二人の弱みを見せる部分をカットしてるのは…やはり男は弱みを見せないもの!っていう家父長制的固定概念がなせる技なんでしょうか?
広島県警に8年前の事故の詳細を聞きに行った時のこの部分、
当時 司法解剖 行政解剖合わせた法医解剖の割合が
広島県は全国最下位だったんじゃ。
交通事故での解剖率も全国ワースト5に入ってる。
コレ、田村先生は調べて載せてると思うんだけど、広島県警からの抗議に日和ってカットしたのか?それとも男社会の警察のマイナスイメージは極力出したくない勢がいたのか?どうなんでしょうねw
バカとカバ
バカばっかりという朝晴に、整くんが披露するカバの牙のエピソードw
これは映画にもあった…っけ? もう記憶が錯綜してます 汗。
松下洸平が「バカばっかり」って言ってた気がするから、映画でもあったと思うw
これも古い家父長制の固定観念に支配されていて、本当の姿が見えていない状況を指摘している。
家父長制の枠組みでしか思考できなくされている多くの女性、いや男性にも向けて、そういう枠組みから抜け出て、本当の自分を見ることの重要性、固定観念からの解放について言及してるように思いますね。ウン、フェミ的です。
間違った方向に注力すると人を不幸にする。
女性を貶めることに注力するよりも、両性ともに幸せになれることに注力する方が皆幸せになれるのにね!って風にもとれなくもない。
従兄弟4人への亡くなった親からの石のブレスレットの場面。
各人への深い意味を持たせた石について丁寧に語る部分は映画ではばっさりカット。
ココも各キャラ達への理解が深まる、キャラ造形のおさらいというか、答え合わせというか、締めの大事な場面なんですけどね。松嶋菜々子を使った割に深みの無い場面になってしまった感はありました。まあ理紀之介と新音のキャラをその前で深堀しなかったから、この部分で合わせる答えも無かったから仕方ないんだけど。
人の弱さ
そして汐路にカウンセリングを勧める整くんが語る話。
映画でも最後の見せ場的なところ。
これも日本の固定観念、社会通念的なことへの批判という感じ。
フェミニズム意識がより浸透している欧米の方がフラットに人の弱さに向き合ってダイレクトに治療に向かえる土壌がある。日本は治療に向き合う前の越えなければいけないハードルがあり過ぎるってことですね。
「100分deフェミニズム」でも語られていた
伊藤野枝の「習俗打破!習俗打破!」を思い出します。
ゆらが呟いていたココとかも
夫婦別姓も全く進展しない日本。
「100分deフェミニズム」でも夫婦別姓の議論が進むたびに与党が潰してきた話をしていたし、フェミニズム的な部分は本当に散りばめられている。
遺言の意味
そして狩集幸長の遺言
「あるべきものを あるべき場所へ 過不足なくしろ」
というのも、遺言にしてはちょっと意味不明だったんです。
先代が、死んだ子供たちのやろうとしていたこと=人形や焼き物を本来の持ち主に返すことを意味していたのなら、理紀之介とゆらの蔵には戻す物って特にないわけだし(血の付いた刀や甲冑、埋められていた骨は要らないだろうし)、過不足なくしろって何を指していたのか、最後までピンと来なかった。
でもね、これをフェミニズム的に考えてみると、
「家父長制を解体して、男も女も、人としてあるべきものは平等に享受して、過不足なく恩恵も分配されるべき」って意味に取れるような気がするんです。
この遺言こそがフェミニズムの本質を表していたという
作者・田村由美先生からのメッセージだったんじゃないでしょうか?
「ミステリと言う勿れ」はミステリーとフェミニズムを融合させた
「ミスフェミ作品」というのがよ~くわかりました。
しかもミステリー要素よりもフェミニズム要素の方がメインな気がします。
でも「フェミニズム」という言葉だけでもアレルギー拒否反応でまくって攻撃してくる人たちがいるから、なかなかミスフェミと銘打って宣伝できないのが日本の悲しい現状ですね。
ドラマでは整くんと風呂光さんをロマンスに発展させよう感が漂ってましたが、原作厨からは結構反発がありました。そんな関係じゃないと。
確かに整くんはアセクシュアル的なキャラで、でも女性のライカさんにも、男性のガロくん、レンくんのことも、人としてなのか?気になっている様子。
どこに関心が向かうのか、全く向かわないのか、予想が出来ないので風呂光さんと引っ付けようとするのは非常に危険だと思いますけどね。
そもそもフェミニズム的な見方をすると、男と女のキャラがいたらすぐ引っ付けようとする感覚がNGっていうか、作品の本質からズレまくっているという気がしないでもない。
なのでドラマ続編もしくは映画続編、特に風呂光さんの故郷、富山編を作る場合、必要以上に二人の関係にロマンス要素は盛り込まないで頂きたいですね。(映像化の時点で原作がそういう流れならOKだけど)
ココからは余計なボヤキです。
映画だと整くんのアップが多かった。すると、さすがに菅田将暉と言えでも年齢をうっすら感じてしまう瞬間があったんですよね。もう30歳ぐらいですもんね。
ガロ君演じる瑛太も、見た感じが普通に40歳くらいに見える。マンガでガロ君の年齢が何歳の設定だったか忘れましたが20代前半~中盤くらいだと思っているので、金髪マッシュルームヘアが超絶美形という印象より、さきに40歳のオッサンがその髪型してることでギョッとして怪しさいっぱいに見えてしまう。
これって年齢差別からくるルッキズムになる?
う~ん、90歳近い杉村春子が舞台で女子学生を演じると聞いたら、まあ無理があるだろうけど舞台ならそのギャップさえ楽しんで見てみたいと思うけど、映像作品だからそこまで気になるのだろうか?
朝ドラの主人公の老けメイクも無理があるとは思いつつもまあ仕方ないと思える。
アッ、これは幅広い年代を演じるという前提を理解しているから許容できるという話ですね。
最初から役と俳優の年齢に剥離があって、若作りや老けメイクでやり通すとなると、やはり違和感を感じる気がする。
年齢と見かけとのギャップにモヤっとするのも、固定観念がなせるワザなのか?それとも人として普通に感じる感覚なのか?引き続き考えていきたいテーマとして今は置いておいて、とりあえず今はモヤっとするのを肯定するなら、続編作るならサッサと作らないと、俳優の見かけと原作の設定年齢との剥離が益々大きくなりそうです。私的には別に俳優変えてくれてもOKなんですけどね。
久能整くんって、広島編、富山編と地方に出掛けてなぞ解きをするし、
今回の映画の広島編でも「犬神家の一族」とか呟いていたみたいに、ちょっと金田一耕助シリーズに通ずるところもある気がする。
(寅さんシリーズも考えたけど、整くん、全然惚れっぽくないやw)
映画では金田一耕助役って歴代何度も変わっているから、あんな感じで時々俳優の若返りしながら実写化も続けていくのも面白いかも。ドラマシリーズ+劇場版というワンセットで、次々俳優を全取っ替えしていくってものありかな。
100分deフェミニズムについてはコチラを参照してみてください。