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映画「PERFECT DAYS」からP・ハイスミス「11の物語」を読み「不安」と「恐怖」について考えてみた件


Introduction

数か月前にヴィム・ヴェンダース監督、役所広司主演の映画「PERFECT DAYS」を観ました。

映画自体は大きな事件が起こるでもなく、トイレ清掃員である主人公・平山の日常を淡々と描く。それでもちょっとした出来事、事件は起こりつつも、心の満足、小さな幸せをいつも大事にしている主人公に憧れたり共感したりできる、そんな映画。

2時間近い上映時間でもわりと飽きずにあっという間に見れました。石川さゆりがスナックのママで、カラオケで歌声を披露してくれるなんていう豪華な演出があったりもするw。

そもそもが映画内にいっぱい出てくるオシャレなトイレ達が主役だったということをwikiを読んで知る。「THE TOKYO TOILET」という企画があり(ユニクロ柳井会長の次男・柳井康治氏が主導。日本財団からの構想の持ちかけで大和ハウス、TOTOが協力)、それで渋谷区に幾つか建てられたオシャレでユニークなトイレをテーマに映画製作が企画され、監督にヴィム・ヴェンダースが選ばれたんだと。

トイレの詳細は「THE TOKYO TOILET」の公式サイトに載ってるので、映画内で出てくるトイレはどこにあって、誰がデザインしたものなのかな?と調べて訪れてみるのもいいですね。実際各トイレを回るツアーも実施されているとテレビで観た気がします。

*****

そんな映画の中で、主人公・平山が訪れる古本屋のシーンが個人的に少し記憶に残りました。

パトリシア・ハイスミス「11の物語」の文庫本を買おうとする主人公に、犬山イヌコさんが演じる古本屋の主人がこう言う。

「パトリシア・ハイスミスは不安を描く天才だと思うわ」
「恐怖と不安は別の物だって彼女から教わったわ」

ちょうどパトリシア・ハイスミスに関する映画を観たり、彼女原作の「リプリー」の映画やドラマを観ていた時期だったので、自分の中でのハイスミスへの関心度が高く、この言葉が殊更印象に残ったのでした。
*追記:「太陽がいっぱい」主演のアラン・ドロンが8月18日に亡くなってしまいましたね。最近、記事を書くために「太陽がいっぱい」を何度も観ていたので殊更感傷的な気持ちになりました。

パトリシア・ハイスミスに関する私の記事です↓

「PERFECT DAYS」に出てくるトイレは上記のリンクから辿れますが、その他のロケーション場所もこちらのサイトで紹介されていました(映画に出てきたトイレの場所も網羅してくれている)。

平山のアパートから銭湯「電気湯」、代々木八幡宮神社。そして犬山さんが店長演じる古書店は「地球堂書店」という浅草にあるお店だそうです。


不安と恐怖と作品ジャンル


ちなみに不安恐怖の違いはこんな感じです。

「不安」とは対象なきものに対する漠然とした恐れであり、一方の「恐怖」とは明確な対象物や直接的な原因などによって恐れを抱くことを言います。例えば、高所恐怖症や閉所恐怖症、先端恐怖症などといった事例がありますが、具体的に恐れを感じる原因や対象物がなければ基本的には「怖い」といった感情が起こることはありません。

引用元サイト

対象がハッキリ分かっているか分かっていないかの違いだと、なるほど。
でもどうなんでしょう?曖昧な時もあるような気もします。

例えば「死」に対してはハッキリしてるから”恐怖”だとも思う一方、死ぬとどうなるか分からないという不確定なことへの”不安”だとも思う。ナイフで刺されるとか、飛び降りて地面にぶつかるとか、痛みを伴う死は”痛い”というハッキリ想像出来得るものへの恐怖だとは思いますが、”死”自体への感情は恐怖というより不安の方が強い気がしないでもないです。また死によってもたらされる愛する人、大事な人達との永遠の別れ。それに対する恐怖もある。こんな風に時に恐怖と不安が複合的に入り混じっている場合もあるんじゃないかな~とも思うのですが…どうでしょう?

あと不安から恐怖へのグラデーションもあるように思います。
例えば山登りに行って、登山口に「クマに注意!」の看板を見る。その場合は確かにクマに対する恐怖はあるけど、自分が襲われるとはそこまで思っていないのでちょっと怖いな…程度の恐怖?。しかし山道を歩いていると、木の幹に熊の爪痕を見つけたり、熊のものらしきフン、強烈な獣臭がしたり、熊の存在を意識せざるを得ないものを各種発見する。さらに草むらが突然ガサガサすると、ビク~ッと心臓バクバク。熊かもしれないけど、実際はイノシシやウサギかもしれない。この状態は恐怖というより不安なんじゃないかな?
さらに他の登山者から熊を目撃したという情報を聞くとさらに不安度は上がっていき、最終的に自分で実物の熊を見かけた時点で不安が恐怖に変わるのかな?いや、まだ襲ってくるかどうか確定していないから不安なのかも?その熊に実際に襲われた時点で不安なんてものは吹っ飛び、ただただ恐怖のただなかに放り込まれる。

”熊は怖いもの”という概念的恐怖と、実際に熊に襲われている時に感じる現実的恐怖という2種類もあるし、その概念的と現実的な恐怖の間に「When(いつ)」「Where(どこで)」「How(どのように)」遭遇するかという不安のタイプがいくつかあり、それらも複合的に重なったりする。お化け屋敷は”お化け”が出るのは分かっているから恐怖の対象は明確。ただ”いつ””どこで””どんなふうに”に驚かされるか分からないから不安になってドキドキする。もうそろそろ出そうだな、この辺りから出てくるんじゃない?と心の準備が多少できれば、不安の度合いも軽減出来たりするわけで、そこに不安の強弱グラデーションが起こるかなと。

あと恐怖と不安を扱うエンタメ作品のジャンル分けもここで復習してみる。

ググっていると出てきたのがこの本のレビュー。

『恐怖の構造』平山夢明

平山さんは、最近観てないけど、「5時に夢中」で志麻子さんが休みの時なんかにコメンテーターで出てきて怖い話をしていた作家さんという認識。

この本の中にこんな風に書かれているらしい。

主人公が生きるか死ぬかがゴールとなる「ホラー」
自分を追い込むモノの正体を解明し日常へ戻るのがゴールとなる「サスペンス」
理解不能な出来事を解明する策を持たずに危機的状況を切り抜けるのがゴールとなる「スリラー」

なるほど、わかったようなわからないような(;^_^A。
別の方の説明も見てみると…こちらのサイトも参考になりました。

その部分を抜粋させて頂くと、主に映画作品で語っていますが、

ホラーショック・恐怖・戦慄をねらった映画。スリラー映画・オカルト映画と重なりあう部分が多い。ホラーの定義は『恐怖』を主題としている。迫りくるものがゾンビであろうと、悪魔であろうと、巨大なサメであろうと、観ている者が「恐怖を感じる事」を狙って製作された映画は『ホラー映画』と呼べます。

ミステリー:神秘的なこと。不可思議。謎。怪奇。推理小説。その主題は『謎』。作品に隠された謎を観ている者が推理していく、映画の主たる目的が『謎解き』の場合のみ、ミステリー映画と呼ぶのが普通です。

サスペンス:映画においては『不安』『緊張』を描いた作品を指します。
『ミステリー』と違う点は、必ずしも「謎解き」を含む必要はないということ。
「現実離れしたものによる緊張や不安感」を売りにしているのは『ホラー』と分類し、「現実的に人間によって引き起こされる緊張や不安感」を『サスペンス』と分類する・・・という説もあります。

スリラー:映画においては『不安』『緊張』を描いた作品。「サスペンスと同様の緊張感や不安があるが、恐怖要素の強いもの」が『スリラー』に分類される

「その作品の主題がどこにあるか?」にフォーカスするとジャンル分けはしやすそう。

ホラー映画といえば、「13日の金曜日」とか「スクリーム」とか「チャイルドプレイ」とか、殺人鬼が出てくるものが多い印象(「ジョーズ」とかのモンスターパニック系もホラーの一種かな)。見ている側は最初から殺人鬼が出てくるというのはほぼ折り込み済みなので、最初から恐怖を感じ、映画内で繰り広げられる恐怖表現を純粋に楽しむ作品。だからホラー=恐怖で正解。ただ登場人物側から考えると、最初は友人が消えたりして不安を感じ、いざ殺人鬼の存在を確認した時点で恐怖に変わる。よって登場人物の視点では不安や恐怖が入り混じっているけど、観客は恐怖を楽しむことが主目的。もちろん登場人物の感情に物凄くシンクロしていれば一緒に不安も感じることができますが。

ミステリーは謎解きというのは納得。別に恐怖とか不安とかは無くても成立する。でも多くのミステリー作品は恐怖や不安も含んでいる。「八つ墓村」「犬神家の一族」とかの主題はミステリー=謎解き=犯人捜し。しかし作品冒頭で誰かが死んでるだけでなく途中でもどんどん死んでいくこともある。よって単なる謎解きだけじゃなくサスペンス要素もある。主人公は金田一で、彼は一応殺人鬼に狙われる立場になることは無く(時々あるけど)、謎解き=犯人捜しに専任する。観客も彼と一緒に謎解きをしながら観ていくことがメインで、湖での逆さ死体やスケキヨの気味悪いマスク姿に恐怖を感じつつもそこはメインじゃない。アガサ・クリスティ作品なんかもミステリーの女王というように謎解きメインのミステリー。

サスペンスとスリラーは確かに線引きは難しいかも?

スリラーと言えばアクションものがある。例えば「スピード」はいつバスが激突するかというギリギリのスリルをあじわう作品。アクションスリラーってジャンルですかね?遊園地の絶叫系コースターとかも「スリルを味わう」と言い、サスペンスを味わうとは言わない。肉体的な恐怖というか、危機的状況に晒されて、そこをなんとか危機一髪回避できるような作品がスリラー。

サスペンスは語源がSuspended=ぶら下げられたとかと同じだと思う。よってぶら下げられた状態=不安定な状態に置かれることなので、不安が続く展開の作品がサスペンス作品なんだと思う。
最初頭に浮かんだのは「ミザリー」。心理サスペンス作品ってこういう作品じゃない?と思ってwiki見たらサイコロジカル・スリラーと書かれていた😅。確かに斧で脅されたりする肉体的危機があるからスリラー?…難しい。

他のスティーブン・キング作品はどうだろう?
「IT」ホラー。うん、まあペニーワイズという殺人鬼が出てきますもんね。
「シャイニング」サイコロジカル・ホラーなんだと。え~これはサスペンスかスリラーじゃないの?あの父親が殺人鬼と言われればそうなのかもしれないけど、”未知の存在”が父親を操ってる的な話じゃなかったっけ?映画を通して不安を煽ってた印象があるからサスペンスかスリラーのほうが妥当な気がするけど…。
「クジョー」はホラー。狂犬病の犬が襲ってくる、モンスターパニック系ですもんね。

ところでマイケル・ジャクソンの「スリラー」はスリラーなんですかね?ホラーじゃないの?化け物がわんさか出てくるし、人間だったマイケルも最後にはモンスターの仲間入りを果たしてしまうわけで、スリラーの定義である危機一髪モンスターになることを回避出来ていない時点でホラーですけどねぇ。難しい。

サスペンスの代表的作品で検索掛けると、「シックス・センス」「インセプション」「シャッターアイランド」「サイコ」「セブン」「羊たちの沈黙」とかが出てくる。ううむむむ…シリアルキラーが出てくる作品も含まれてるけどホラーではなくサスペンスになりうる場合もある。これは混乱を招きますよね。「サイコ」は有名なシャワーでの殺害シーンとか、かなりホラーっぽいし、ベイツ母子の謎もあってミステリー要素もある。サスペンスとだけ言いきるのもちょっと違和感が残る。
逆にシックス・センスは霊がでてくるけどホラーってわけでもないのも興味深い。確かにあの映画に出てくる幽霊に恐怖はあまり感じないですもんね。

「ゴーン・ガール」はサスペンス?wiki英語版ではサイコロジカル・スリラーと書かれているけど、日本語版ではミステリー映画と書かれている。定義自体も結構曖昧な感じなんだな~と感じる。ジャンル分けした人の主観に左右されてる場合もありそう。

考えれば考えるほどコンガラガッテきますが、
一応、私が理解した解釈を書くと、

恐怖の対象が(ほぼ)分かっていて、それに直面している状態がメインの作品はホラー作品。

事件の謎解きがメインのものがミステリー作品。

対象が謎だったり、不安を煽る状態がず~っと続いて、そのドキドキしてる時間が長く、作品の大部分を占めるのがサスペンス作品。

身体的危機に晒され、それを間一髪回避できるかどうかがメインのものがスリラー作品。基本危機は回避できる。

こんな感じでしょうか?


Story Reviews


で、話を「PERFECT DAYS」に戻して、

主人公の平山が買っていたのは2005年発売のコチラの文庫本でした。

そして、私がたまたま図書館で見つけたのがコチラ、1990年発行バージョン。

この旧バージョンの表紙と、本の内容を知ると、新バージョンの表紙の点描画の渦巻きがカタツムリを表しているんだな~ということがわかります。

発行は1990年ですが、そもそもが1970年代に訳されてバラバラに雑誌に載ったものを集めてたりするようで、少し文体が古臭い感じは否めないかな。あと原書ではどういう表現なんだろう?と気になる箇所もいくつか。意味が通らないほどではないけど、今ひとつピンとこない表現もあったりする。

とはいえ、奇妙な作品ばかりの11篇。割と飽きることなくサラッと読める本でした。どこかで読んだ書評に「すっぽん」のことが書かれていて、面白そうだな~と思った記憶があるのですが、もうどこで書評を読んだのか、全く思い出せない(;^_^A。

ということで、私なりに、11篇の簡単な感想を、主に恐怖と不安の観点も考えつつ、書いてみたいと思います。


➀かたつむり観察者 (The Snail Watcher)

証券会社の役員ピーター・ノッパートの物語。
食用カタツムリに興味を持ち、自宅で飼育し始める。観察をしているとその生態の奥深さに魅了されていく。特に生殖活動。そこでどんどんカタツムリを増やしていくのだが…というお話。

ハイスミス自体がカタツムリに強い興味を持ち、バッグに入れて持ち歩き、パーティーの席でテーブルに這わせていたと言われるほどのカタツムリ狂だった。つまりこの話は彼女自身の境遇から生まれた妄想話。ピーターはハイスミスの分身だと考えることも出来る。

ピーターがカタツムリ自体にクモ恐怖症(アラクノフォビア)的な恐怖心を持っていたわけではないのは分かる。なので読者も終盤に入るまではカタツムリが怖い存在だとは思って読んでいない。この話の大半を覆っているのは、カタツムリへの異様な執着心、そしてそれに呼応するかのように増えていくカタツムリ。この2点が読者の不安を煽っている。そして最後にガツーンとカタツムリによる阿鼻叫喚をもってくることによって、不安を一気に恐怖へと転換し読者を戦慄させる。不安と恐怖の絶妙な連係プレー。前半はサスペンスっていう程でもないけど、少し不穏なトーンで、最後に一気にホラー作品になる。

偏執狂というのは大抵悲劇的な結末を迎えがち。欲望を制御出来てるオタクを目指したいものですね。
最初の作品であり、この本のトーンを理解させてくれる一篇としては分かりやすく面白かったので、

☆評価は★★★★★

②恋盗人(The Birds Poised to Fly)

ヨーロッパに住む女友達に結婚の申し込みの手紙を書いたNYに住むドンが主人公。しかし返事が返って来ない(←そもそもそこまでの関係ではない様子。ちょっと楽しく喋った相手に勝手に入れ込んでる感じ)。
何度も郵便受けを見に行っているうちに、隣人のデューセンベリーの郵便箱に入っている手紙が気になりだす。結局それをこじ開けて中身を取り出し、手紙を勝手に読んでしまう。それはイーディスという女性からデューセンベリー宛てのラブレターで、彼女もドン同様にデューセンベリーからの返事を待っていることを知る。彼女の心情に共感したドンはデューセンベリーに成りすまし、彼女に手紙を書くのだが…という物語。

まあ一言で言ってヤベー奴のお話(;^_^A。←殆どの話がそうなんですけどね。
読者は段々ドンのヤバさ加減を知っていき、コイツが何をしでかすのだろうか?という不安を募らせていく。

「かたつむり観察者」の見事な不安と恐怖の連係プレーの後だったので、同じような展開を期待していたら、ちょっと消化不足でした。

この作品はドンが醸し出す不安を純粋に楽しむ話…なのかも。
でも不安がメインだからサスペンスかと言われれば…どうだろう?どっちかというとヤバイ男の行動をメインに見せられ続けるのでホラーな気がする。いやほんと、ジャンル分けは難しいですね。

他人に成りすまして手紙を書く…ここにトム・リプリーの原点を垣間見れて、私はそこにちょっとニヤニヤしちゃいました。

☆評価は★★☆☆☆2~2.5ぐらいかな?

③すっぽん (The Terrapin)

売れていない本の挿絵画家であるシングルマザーの母親と暮らすヴィクターの物語。11歳くらいの男の子。母親に半ズボンしか履かせられないことに不満をもっている。ずっと子ども扱いをしたり、こんなことも言われたりする。
「ねえ、ヴィクター、おまえ、頭がちょっとおかしいんじゃないの?」
「病気よ。心理学的に言って病気なのよ。それに知恵もおくれてる…わかる?してることが五つの坊やとおなじだもの」

しかしヴィクター自身は母親に隠れて、「人間の心」という精神科医の本、いろんな人のおもしろい個々の調査結果がいっぱい記載されている本を読んでいたり、図書館の成人閲覧室でシラ~っと心理学関係の本を読み耽っていたり、子供っぽいどころか大人びた子供だったりする。

母親との微妙な軋轢がある中、彼女が夕食の材料として生きたスッポンを買ってくる。そのスッポンにヴィクターは魅了され、愛着を抱く。近所の友達にスッポンのことを自慢もしたい。しかしスッポンの運命は?そしてヴィクターが取る行動とは?…というお話。

物語終盤まで特に恐怖も不安もそれほど感じない。ヴィクターも、こんなませた子供はそれほど珍しくもないし、母親に薄っすら感じる毒親感も、どこかでヴィクターに何かを起こさせるトリガーになるかもな~と少しだけ不安を感じないこともないけど、それほど強烈な感じでもなく微妙なところ。

しかしハイスミスの物語にたびたび出てくるのは偏執的な人物だったり、人の偏執的な側面。今回はヴィクターがスッポンに異様に興味を持って固執し始めた辺りから、アレ?今回はこのヴィクターの執着が変な方向に行っちゃう?と不安を煽られていく。そして最後のページで一気にホラーへと転換する。だからジャンル的にはサスペンスホラーになるのかな?

さらに最後の一文が余韻を感じさせる恐怖を煽る。彼自身、今後、自分が好きだったような心理学の本に載るかもしれない。しかし、動機は究明されずじまい。犯罪心理の追求(犯罪心理学)と実際の犯罪者の心理との剥離をサラッと書いていて、簡単に理解できない=簡単に予防できない=いつそんな犯罪者に出くわすか分からない恐怖を読者の心に植え付けることに成功している。

☆評価は★★★★☆

④モビールに艦隊が入港したとき (When the Fleet Was in at Mobile)

農家の主婦ジェラルディーンの物語。彼女が夫クラークをクロロフィルで殺害しようとするところから物語は始まる。
夫を殺し、発見されるまでに数日あると考え、彼女はバスに乗って逃亡する。そして子供時代に家族で泊まった記憶のある町で降り、そこに泊まる。

それらの過程でクラークにされてきた仕打ち、そしてクラークと結婚するに至った状況などの思い出描写が挿入される。

読者は段々ジェラルディーンがどういう人物なのか分かってくる。最初は夫に虐げられてきたかわいそうな妻なのかと錯覚させられているが、あれ?ちょっと様子がおかしいかも?となってくる。純粋なのか?頭が足りないのか?たまたま不幸が重なったのか?どこか倫理観が欠落しているのか?不幸の連続で欠落してしまったのか?彼女に対して同情できるようなできないような複雑な気持ちを抱くようになっていく。

そしてその時はやってくる。その結末に愕然とし、これから起こり得ることを想像して恐怖する。そしてますます精神が破綻していきそうな彼女の未来に不安を抱く。この作品のジャンル分けは難しい。最初に殺人を犯して、そこへ至る過程を描いていくからミステリー的要素もある。しかしジェラルディーンのズレた感覚に恐怖を感じるし、実際彼女は殺人者として描かれるわけだからホラー作品だとも言える。

これは最初の殺害シーンからグッと読者を掴み、読者を錯覚させる部分、徐々に分かってくる部分、そして嫌~な気分になる結末。構成的に映画化したら面白くなりそうな作品。

タイトルにある、艦隊がモビールという町に入港したことによって、その町に住む人、その町にやってきた人、多くの人々に影響を与える。その負の側面を描いた作品ともいえる。そう考えると社会派な作品でもある。米軍基地がある町の光と影みたいな、そんな感じ。

★★★☆☆

⑤クレイヴァリング教授の新発見 (The Quest for Blank Claveringi)

この作品がこの本の中で一番のギャグ回と言っていいかも?かなりぶっ飛んだ話なのは間違いない。ウルトラQとか、トワイライトゾーンとか、世にも奇妙な物語なんかで、円谷プロに作って貰いたい、そんな感じの話。

カルフォルニア大学の動物学の教授エイヴァリー・クレイヴァリング教授が主人公。彼はハワイの近くにあるというマトゥサス群島のクワ島に、二十フィートもある巨大カタツムリが生息し、それは人間をも食べるという話を知る。そして休暇を取り、単身その島に乗り込み、新種発見をし、その種に自分の名前を付けることを夢見るのだが…。

20フィートのカタツムリって…、約6.1mですよ? 教授が島で遭遇するカタツムリも18フィートぐらいで、約5.5m。セダンタイプの車の縦の全長で約5mだから、車より大きいカタツムリ。

それで気になったので、世界最大級と言われるカタツムリを調べてみると、アフリカマイマイというカタツムリが日本の沖縄地方に生息している。元はアフリカの東海岸、モザンビーク、タンザニア辺りにいたものを人が持ち運んで東アジアにまで分布が広がった。そして南西諸島以北は生育が難しいと思われていたが、近年鹿児島でも発見され駆除されたという(←温暖化でますます北上してきそう)。寄生虫を持っており、それによる好酸球性髄膜脳炎に罹ると死に至ることもある。触ったり、這った跡に触るだけでも寄生される可能性がある。よって有害動物に指定されており、生体の持ち込みは禁止されている。(←這った跡に触っただけで寄生されるってのは怖すぎる)

アッ、アフリカマイマイの大きさは車ほど大きいなんてことはなくて、殻は直径8センチほど、高さ?長さ?(形がアンモナイト型ではなくタニシ型なので)が20㎝ほど。アボカドやマンゴーぐらいの大きさなのかな?

あとこの短編読んでいて驚いたのは、庭にいるような小さいカタツムリにも上下で2万本ほどの歯が櫛の歯のように並んでいる…という表現。

調べてみるとカタツムリには歯舌と呼ばれる突起の付いた舌があり、それで削り取るように物を食べるんだとか。口の動きの様子はこのサイトで見れました。

このサムネの丸い括約筋みたいな(肛門のことねw)口の奥に見えてる部分が歯舌のようです。しかし動画の最後に黄色い歯列みたいのが上部に見えるんだけど、あれは何なんでしょうね?

でもこんな歯舌だとそれほど恐怖感はないかなぁ?物語の中では二万本の細かい歯が並んだ大きな口で襲われるかのように表現されていて、まるでサメみたいな口で襲われるんだと想像してしまっていたので。実際は2万の突起があるヤスリでこすられるみたいな感じってことですよね?あんまり迫力ないかも?😅

全11篇の短編集で2篇もカタツムリの話がある。ハイスミスのカタツムリ好きは先述しましたが、今回カタツムリの生態を読んでいると、雌雄同体で、二匹が出会うと生殖を始めるという。この雌雄同体という部分が、クィアだったハイスミス自身と重なって興味を引いたのかもな~とも思い至りました。

あとカタツムリの生態で、コンクリートも舐めて食べているという衝撃の事実。コンクリートに含まれる石灰分を摂取することで殻を作る栄養分にしているんだとか。そう言われれば、田んぼの用水路にビタッとジャンボタニシがついているのもコレと同じ原理なのかも?

巨大カタツムリという存在への恐怖、人喰いカタツムリとの攻防、いつどこで襲ってくるか分からない不安、そしてクライマックスの戦慄の描写で恐怖心はマックスに達する。映像化したらどれだけ怖くなるのか?もしくはバカバカしく見えるのか?是非観てみたい一篇。これは不安よりも恐怖がメインの作品ですし、典型的なモンスターパニックなのでホラー作品といっていいでしょうね。

☆評価は★★★★☆
面白いけど作品の構造的には単純だから-1。

⑥愛の叫び (The Cries of Love)

高齢者養護施設のようなところで暮らす二人の女性ハッティーアリスの物語。

嫉妬からヤバすぎるイタズラをアリスにするハッティー。それに対抗してヤバすぎるイタズラでお返しをするアリス。二人の仲は一旦冷めるが、結局腐れ縁なのか?また元に戻る。憎たらしいほど嫌いなのにこんな人とでも寄り添い合っていないと寂しい。人間という一人では生きていけない生き物の悲しい性をも感じさせる一篇。愛憎という言葉では片づけたくないイヤ~な気分になる。

この婆さんたちの、越えてはいけないラインを微妙に越えてるという気味悪い恐怖心と、こんな老後にはなりたくない恐怖心。不安よりも嫌~な恐怖心が漂う作品でしょうか?でもホラー作品かと言われると…う~ん、ちょっと違うような。二人の関係がどうなるのか?その不安な感じを楽しむサスペンス?これもちょっと違う気がするし…。読後感はイヤミス作品に近い。とはいえミステリー要素は無いし…嫌~な気分になる作品ということに尽きるかな(苦笑)。

★★☆☆☆

⑦アフトン夫人の優雅な生活 (Mrs Afton, among thy Green Braes)

精神分析医フェリックス・バウアー博士とそのクライアントであるアフトン夫人の物語。バウアー博士視点で物語は描かれる。

アメリカ南部出身のアフトン夫人は凄く感じのいい女性で、彼女は自身がカウンセリングを受けるためでなく、精神分裂症の兆候があるものの医療処置を拒否する夫の代わりにバウアー博士を訪れ、なんとか夫を見て欲しいと相談しに来る。

夫人の熱意に絆され、彼らが住むホテルを訪れ、偶然を装い夫と会おうと決まった翌日、夫人から連絡があり、夫人が博士と会っていたことが夫にバレ、怒って出ていってしまったと言う。とにかく今すぐホテルに来て欲しいと言われ、博士がホテルを訪れると…衝撃の事実が!?…というお話。

これは今の時代なら割と目新しいとは思わないよくある展開なのですが、発表当時は結構衝撃的だったのかも?
とにかく巧妙なミスリーディングが特徴的。終盤になるまでアフトン夫人の夫がヤバい人物なんだと思わされ、そちらに恐怖や不安を抱かせる流れになっている。バウアー博士の主観から描かれるので、アフトン夫人への個人的好感度(=好意?)もフラットで客観的な判断を鈍らせる要素になっている。

ただ精神医学が発達した今の時代ではもうあまり通用しないかなぁ?精神科医がクライアントの○○癖を疑わない時点で二流の医者になりそうだし。

恐怖や不安というより最後に種明かし的なものがあるし、ミステリー要素の強いお話だった気がします。

☆評価は★★★☆☆

⑧ヒロイン (The Heroine)

21歳のルシール・スミスがクリスチャンセン家のナニー(子供の世話係)に採用されるところから物語は始まる。

ルシールはクリスチャンセン家の9歳の長男ニッキーと6歳の長女エロイーズの世話をすることになる。

序盤、登場人物の誰がヤバいのかはわからない。クリスチャンセン夫人か?子供たちのどちらかか?それともルシールか?そこはかとない不安というか、新しい職場における緊張感と謎の登場人物達への緊張感をうまいこと漂わせている。

私は「すっぽん」の話みたいに子供が邪悪で怖い系の話で、子供たちが次々にナニーにヤバすぎるイタズラをするので辞めていく(もしくは殺され失踪とか?)…そして新しいナニーが募集される、という流れの話なのかと予想したのですが、ちょっと違った。

物語の途中でルシールの母親がサナトリウムにいて、何らかの病気で最近亡くなったことが示唆される。そして後半、その詳細が明らかにされる頃にはルシールの考え方が通常の人とは少しズレてることも同時進行で開示されていき、読者の恐怖心を煽っていく。子供たちに危害を加えるんじゃ?という不安も煽る。そして最後にルシールが取った行動は…!?というお話。

これも、前半は夫人や子供たちが一見善良そうに見えて怖い人物なのかも?というミスリーディングをしておいて、その実ルシールが一番ヤバい人物だったというミステリー&サスペンス&ホラーの中編映画ぐらいには膨らませて作れそう。

ただこの話、何十年前ならもっと怖かったんだろうけど、自分が頼りにされたいから頼られる状況を無理にでも作り出そうとするメンヘラキャラというのが、創作物だけならず、現実世界でもSNSとかで時折見かけ、最悪の場合には事件にまで発展することが少なくない現在においてだと、耐性が付いてるからか、今ひとつパンチが足らない気がしてしまう。困った世の中になってしまったものですねぇ…(;^_^A。

☆評価は★★★☆☆

⑨もうひとつの橋 (Another Bridge to Cross)

これは不思議なお話。恐怖と不安が無いとは言わないけれど、ミステリーやサスペンス要素はあまりないように思う。ホラーでもないし。

主人公はアメリカで織物工場を営むメリック。彼の妻子が数か月前に交通事故で亡くなり、その傷心を癒すためにヨーロッパ旅行に出かけ、現在イタリアの南リヴィエラ、アマルフィ海岸周辺を旅している。

アマルフィに入る前、メリックは陸橋の上で佇む人物が気になっていた。すると陸橋を通り過ぎたところで、その男がそこから飛び降り自殺をしてしまう。

やがてポジターノに滞在することにしたメリックは、ホテルで知り合った客、そしてサンダル履きなのに靴磨きをさせてくれと言って寄ってきた地元の少年セッペと時間を過ごす。

メリックがセッペをホテルのディナーに招待した夜、滞在客から窃盗の被害が訴えられる。客たちはセッペが犯人ではと疑うが、メリックはセッペを信じるのだが…。

一方、飛び降り自殺した男は失業中で、病気の妻と五人の子供がおり、自分が死ぬことで遺族年金によって家族が生きられるのでは?と自殺したことをメリックは知る。それを不憫に思った彼は匿名で男の妻にお金を送ろうとするのだが…。

真実が明らかになった後のメリックが、雨の中でずっとホテルの庭のベンチに座り続ける描写。最後には次の目的地ミュンヘンに向かうかのような形で物語は終わる。
しかしメリックはミュンヘンに本当に行くのだろうか?凄く疑問。
タイトルからして”渡るべきもうひとつの橋”ということだし、妻子も失い、人への信頼も揺らぎ、善意も無に終わる虚しさも味わい、彼が渡るべき橋は絶望という橋で、次に向かう場所は”死”なのでは?と思わざるを得ない。なので最後に不安の余韻が残る作品。

ここまでは主人公や登場人物の偏執狂的な側面や正常ラインから外れた倫理観などがテーマの作品が殆どだったことを考えると、この作品は毛色が違う。敢えて言うと、”生きるべき”という価値観から外れ”死”を見つめる=正常のラインから外れた精神状態…ということで同じ括りにされているということかも?でも自殺願望、希死念慮とパラノイアは同等にしたくないけどなぁ…。

「リプリー」でも出てくるアマルフィ―海岸周辺の光あふれる風光明媚な景色と、光が強ければ影がより濃くなるかのように、どんどん濃くなるメリックの死の影という対比が素晴らしく、凄く絵になる哲学的な作品だと思うので、割と好きかも?

ということで☆評価は★★★★☆

⑩野蛮人たち (The Barbarians)

業界誌出版社の調査員で日曜画家のスタンリー・ハッペルが主人公。
彼が日曜に絵を描こうとすると、隣の空き地でガラの悪い連中が騒がしくキャッチボールを始める。このバーバリアンズ(野蛮人たち、日本で言うと輩ですかね?)とハッペルをはじめとするアパートの住人たちとの攻防を描く物語。

苦情を言うアパートの住人達に対して攻撃的な言動を返し、さらに煽ってくる野蛮人たち。そしてハッペルが反撃をしたことで彼らに付き纏われ、嫌がらせを受ける。この何をしてくるか分からない野蛮人たちへの恐怖と不安。読者は追い込まれたハッペルが何かとんでもないことをしでかすんじゃ?という不安もさらに付け加えられる。読んでいて非常に胸糞悪い&居心地が悪いお話。←これまたほとんどの話がそうなんですけどね(;^_^A

私の少し前の星空観察の記事を読んで頂いたら、私がハッペルの心境にシンクロしやすい人間だと分かると思います。だから余計に野蛮人たちに対して気分が悪かった。なんとか奴らに天罰が下れと思いながら読み進めてしまう。しかしハイスミスがそんな勧善懲悪作品を書くわけないとも分かっているので、着地点がどこになるのか?それを確認したくて読み進めた。

今回、ハッペルは他の登場人物同様に思い詰められていくけど、いつものハイスミス作品のように正常のラインを踏み越えてヤバい人物に変貌したりすることはなんとか踏みとどまった印象。ハッペルに関してはそこまでヤバくなった感じはしなかった。窓から石を落としたのは結構ヤバイことではあるけど、それを後悔してビクビクしてましたから。ハイスミス作品に出てくるソシオパス達の場合、相手が悪いんだから石を落とされて当たり前…的な思考をするはず。そう思うとまだまともだった気がする。

一方、今回倫理観のラインを越えているのは野蛮人たち。一人の人物が偏執的になっていくとパラノイアといわれ、気味悪く描写されることが多い(この短編集の他の作品だと大体そんな感じ)。この作品でもハッペルがそういうパラノイアになっていくのかと思わせつつも、実は野蛮人たちの集団パラノイアを描きたかったのかも?と思ったりする。
自分たちの都合のいい論理で、倫理観のラインを越えてゴリ押ししても許されると思い込んでいる状態は集団パラノイアではないだろうか?しかし、こういう連中がそこかしこにいるからか?集団だとそこまで異常者っぽく見えないんですよね。あさま山荘事件ぐらい集団心理の異常さとその暴走を描いていたらかなりヤベーというのは伝わりますが、空き地でうるさいキャッチボールする連中ぐらいならそこまで異常さに気付かない。しかし世界はこういう小さいけれど異常な集団心理の恐ろしさで溢れてる。

人間は1人では生きれない&集団だとより力を発揮できる社会的動物。なのに、集団でいることによってなぜこれほどに色々なマイナスの問題が生じるのか?集団が大きくなれば力も増すけど、毒も増す。神様も本当にイケズだな~と。

これはハッペルの視点からだとサスペンス・スリラー作品かな?

とにかく輩たちが胸糞悪いので☆評価は★☆☆☆☆

⑪からっぽの巣箱 (The Empty Birdhouse)

30代半ばのチャールズとイーディス夫婦の物語。
ある日、妻イーディスが庭にある鳥の巣箱から黒い二つの目で見られているのを感じる。二つの丸みを持った耳、頭はリスよりちょっと大きく、キラキラした目、おっかなそうな口、茶色い毛のようなものが見える。動物でも鳥でもなく、凄く不気味で残忍そうな”何か”

物語序盤、イーディスは何度かその”何か”に遭遇するもすぐ見失い、チャールズに話して巣箱を確認して貰ったりする。しかしその”何か”はそこにいない。チャールズはイーディスを疑っている訳ではないが、彼は全く見ることができない。

この時点で、あぁ~妻一人がイマジナリーな化け物か何かを妄想で見だして、どんどんひとり精神的に不安定な方向に行ってしまう、そして夫婦仲も険悪になって破綻するような話かな?と想像した。実は夫が不倫していて、妻と別れたいから裏で細工をし、妻の頭がおかしくなったと錯覚させるガスライティングの手法的な話なのかも…とも思ったり。

それで読んでいくと、イーディスは結婚二年目にわざと階段から落ちて流産した…なんていう情報も追加される。お産が怖くて…という理由。こんな感じでイーディスがかなりヤバそうなパラノイアっぽい雰囲気を漂わせておいたところで、なんと夫のチャールズもその”何か”を見たと言い出す。ビックリ😲。
(のちに夫チャールズも出世の為にライバルを密告して蹴落とした過去があることもわかる。そしてそのライバルは自殺してる。夫婦そろってある意味善良ではないヤバさを持っている)

これで妻イーディス一人がパラノイアになる話ではなくなり、エッ、一体この話はどこに向かうんだろう?と、個人的には俄然興味が湧いてきたw。

そしてイーディスはその”何か”を昔雑誌かなにかで見た赤ん坊のユーマだと言い出す。「ユーマという動物はいない?」とチャールズに訊くが、「聞いたことない」と返される。

”ユーマ”と訳文に書かれているけど、これって未確認飛行物体をUFOというのと一緒で、未確認動物=UMA(Unidentified Mysterious Animal)のことを言ってるんじゃ?という気がした。原文ではどういう表記なんだろうか?是非知りたいところ。
UMAはネス湖の怪物ネッシー、吸血怪獣チュパカブラ、ヒマラヤの獣人イエティ、ツチノコとか。

ユーマと名前が付けられてからはユーマを見た夫婦とユーマとの攻防戦のような話になってくる。巣箱にいたはずのユーマが家の中にも入って来て、台所に現れたりする。なんとかユーマを捕獲したい。しかしすばしっこ過ぎて見るのもやっと。捕まえるなんてできない。それで夫婦は知り合いの家からを借りてきて、そいつにユーマを捕まえて貰おうということになる。

ここからふてぶてしい猫とのやりとりも絡んでくる(;^_^A。
まず猫を貸してくれた知り合いも、ご近所さんが急に引っ越して飼えなくなったから嫌々その猫を飼ってる状態。貸したのをいい機会として、なんとかチャールズ&イーディス夫婦に押し付けて厄介払いをしたいという思惑がある。ここで猫を飼うのが嫌な2夫婦間で猫を巡っての押し付け合い攻防もうっすらと描かれる。

そして老猫なので寝てばかりの猫。全くユーマを獲る気配もなく、夫妻の思惑通りにはことが進まない。

はたして 夫妻とユーマと猫の行く末は!?というお話。

この話は何でしょうね?訳の分からない生物に対する…不安の話?でも対象自体は分かっているから恐怖の話なのか?サスペンス・ホラーになるのかな?

そして最後には猫が全てを仕組んでいて、この家に居座るためにユーマさえも利用したのでは?なんていう猫による陰謀論まで考え疑心暗鬼になるイーディス。これは”猫に支配される”恐怖?それはホラーだなぁ(苦笑)。

ユーマが夫妻の罪悪感の象徴であり、それからは永遠に逃れらない、いつも見られている…というメタファーというか、寓話的な話だった気がします。

これは11篇の最後を飾る奇妙でちょっとおかしく、行く先が気になる中々面白い話だったので、☆評価は★★★★★あげちゃいますっ!!


今回この「11の物語」を読んで、不安と恐怖については意識して区別できるようになってきた気はします。でも作品のジャンル分けはまだまだ難しいですね~。ジャンル分けを見極めていきたいところだけど、最近は色んな要素が複合的に合わさっていたりするから一言で表しにくいような気もします。

この間BSシネマでやっていた「インデイ・ジョーンズ:クリスタルスカルの王国」なんかも謎解きがメインだからミステリー要素はありつつ、カー・チェイスとか、インデイが大嫌いなヘビが出てきてスリル満載、最後にケイト・ブランシェット演じるKGB?の女軍人が異次元に行くのか、粉々に粉砕されるのか?あの場面はホラーだし、いろんな要素が含まれてるけど、たぶんジャンルとしてはアクション・アドベンチャー。観客がどこを一番メインに楽しむか?そこが大事なんでしょうね。だから人によって微妙に変わっても仕方ないかも。

「11の物語」の役者あとがきに面白い記述がある。

”ハイスミスの作品ははじめから犯罪小説、精神病理学的スリラー、サスペンス・スリラー、心理サスペンスといったジャンルに入れられた”
←確かに「リプリー」はサスペンス・スリラーで正解だと思う。シリアルキラーではあるけど視点が殺人鬼側から見てるからかホラーではない。

”しかし彼女は自分の作品がそうしたジャンルに入れられたことに不満だったらしく、1966年に出版した「Plotting and Writing Suspense Fiction」の中で、「どうせアメリカではサスペンス小説のレッテルが貼られるだろうが、わたしは殺人者も犯罪も暴力も全然ない小説を書きたいのだ…私の処女作「見知らぬ乗客」にしても、あれを書いた時は純文学に入る作品を書いたつもりだったのに、発表された時には「サスペンス小説」のレッテルが貼られていたのだ。フランスやイギリスではわたしはただの小説家というだけで、べつだんサスペンス作家のカテゴリーに入れられているわけではない」と言っている”
←ハイスミス自身はサスペンスを書いているつもりがなかったという衝撃の事実。純文学というジャンルもコレと言って定義づけするのもちょっと難しい気がするけど、彼女はサスペンスで読者を不安にさせてやろうとして書いたというよりも、正常な倫理観から外れてしまったり、異常な執着を見せたりする登場人物を通して、人間の闇とか、本質とか、人間性というものを探求したかったのかもしれませんね。

”一方でハイスミスはサスペンス小説にも一家言持っており、サスペンス作家は作品に登場する人物達の心理にスポットを当てるべきであり、豊かな想像力はもちろん必要だが、現実に広く目を向け、正邪、善悪ともに倫理性に関心を持つこと、あくまでも登場人物の人格を精細に描き出すことに努力すべきだと主張している。要するに彼女の最大の特長は、心理的不安の要素の分析と描写にあり、従来のサスペンス小説の伝統的形式を拒否して、心理描写に重点を置いていることだろう”
←登場人物たちの心理にスポットを当てるべきという言葉から、やはり人間性の探求が彼女のテーマだったんだろうなと感じます。そして”心理的不安の分析と描写”という言葉から、不安をメインにした作品=サスペンス作品ってことでもあるから、やっぱり彼女がサスペンス作家という評価も間違ってはいないんでしょうね。いくら彼女が否定しようとも。(←否定してる割に”サスペンス・フィクションの書き方”みたいな本出してるっていうねw)。

ということで、映画「PERFECT DAYS」はもうすぐWOWOWで放送、配信されるという情報を見たので、たぶん他のアマプラとかのプラットフォームでもそのうち解禁されるのではないでしょうか?観ていない方は是非!!
現在もU-NEXTで観れますよ。
そして不安と恐怖に興味が出た方はパトリシア・ハイスミス「11の物語」も是非読んでみてください!!



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