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「ぼくが生きてる、ふたつの世界」は令和の「東京タワー」:息子から母へのラブレターとAPD

映画「ぼくが生きてる、ふたつの世界」を観ました。



以前に「コーダ あいのうた」を観た時にいろいろ考えて記事を書いたので、

この映画もCODA(Children of Deaf Adult)がテーマのひとつでもあるということで、これは観ておかないとと思った次第。義務感で観るというわけではなく、もっとCODAや聾者についての自分の見識を広げてくれるかも?という期待の意味で観ておかないと!と思い、とはいえ、それほど前情報は入れずに、一切構えず、ふらっと観てみることにしてみたのでした。

で、いやぁ~、途中チョイチョイ、ツンと涙腺刺激されたりしていたのですが、最後の方は唇噛みしめて嗚咽漏らさないようにするのに気を遣うほどヤバかったです。😭😭😭

あれは演出の勝利!映画観た後に原作も読んだのですが、あの場面は本の中盤ぐらいであり、あそこまでの涙腺崩壊効果は生んではいなかった。それを時系列を前後させ、あそこをああいう風に、ある意味あれもプルースト効果ですかね?五感の記憶のフラッシュバックという演出にやられました。大抵心が死んでて冷めた見方しがちな私もあれには完敗!!


令和の「東京タワー ~オカンとボクと、ときどき、オトン~」

ついついCODAとか聴覚障碍とかが前面というか、映画の説明文なんかにも出てくるので、どうしても身構えてしまったり、堅苦しく考えてしまうかもしれませんが、この映画は息子から母親への愛と懺悔と贖罪のラブレターなんだと思うんです。映画は監督の呉美保さんの想いも入ってるから少し違う部分もあるかもだけど、原作本は間違いなくそんな感じ。

CODAの主人公ということで映画「CODA あいのうた」と比べられることが多いかもしれませんが、「CODA あいのうた」とはちょっと違う気がします。どちらかと言うとリリー・フランキー「東京タワー ~オカンとボクと、ときどき、オトン~」のほうが近い気がする。

母親のことは大好きなんだけど、社会と関っていく中、世間の干渉がある中、徐々に、上手く、素直に、気持ちを伝えることができなくなってしまう。さらに成長する中での苦悩を、八つ当たりで母親にぶつけたりもしてしまう。自分を上手くコントロールできない、悲しませてしまうから距離を取りがちになったりする。そういう経験のある全ての人が共感できる物語。

ひたすら子供を見守り、献身し、理不尽な行いにも耐え、大きな愛で包み続ける。そんな母の愛情に一度でも触れた記憶のある人なら、自分の母親を思い出さずにはいられなくなる、そんな物語でもある。

映画後半のボロボロ泣いてしまった感覚は、まさにリリー・フランキーの「東京タワー ~オカンとボクと、ときどき、オトン~」を読んで、ボロ泣きして仕方なかった時の感覚を思い出しました。読んだのがもうずいぶん前なので、どの場面で泣いたとかは全く覚えてないのですが、読み終わった後もしばらく込み上げるものが抑えられなくて、えずくように泣いてました。もうあのボロボロ加減に再び陥るのが怖くて、二度と読めないぐらい(;^_^A。

今回、「東京タワー ~」ほどのボロボロ加減ではなかったですが、「ぼくが生きてるふたつの世界」も、「東京タワー ~」と同じ心のツボを押してくる。CODAとか聴覚障碍とか、それは確かに大きなこと、重要な部分でもあるけど、作品の一番伝えたい部分においては些細なことでもあるので、余計な偏見は取っ払って、母から生まれた人、いや父親からも、養母、養父でもいい、親からのUnconditional Love 無条件の愛、彼らが人生を捧げて育ててくれた無償の愛、それらを受けたすべての人に刺さる物語だと思う。だからとにかく観て貰いたい。
(とはいえ、毒親とか、親との間に厳しいトラウマがある方はまた別で、複雑だと思うので、そこは判断してくださいね)

原作はもっとCODAや聾者に比較的スポットが当たってるように感じました。当事者だからこその知って貰いたいという想いがあるから当然ですよね。映画で、この”親からの愛とそれに応える子供”という部分にフォーカスしてるのは、おそらく監督の強い意図なんだと思います。より普遍的で、決して特殊な例ではないということを観客に訴えたい。そして、そこから生まれた共感が、CODAや聾者への理解に繋がるきっかけになって欲しいから…そんな気がします。それもまた素晴らしいアプローチですよね。

ただ、私がテレビとか観てないから知らないだけなのかな?この作品、あんまり宣伝されてなくないですか?「東京タワー ~オカンとボクと、ときどき、オトン~」の時は本屋大賞?みたいなのにも選ばれ、そこから映画化され(オダギリ・ジョー主演)、ドラマ化は2度もしてました(速水もこみち版の連続ドラマと大泉洋版の単発ドラマ)。メディア・ミックスでスゴく盛り上がっていた記憶。


「ぼくが生きてるふたつの世界」
”今、もっとも泣ける映画!!”とか、”全米が泣いた”(全米じゃないけども😅)ぐらいの宣伝文句でガンガンメディアが盛り上げたり、口コミで広がってもよさそうなのに…。何なんですかね?最近は仲良し親子とかが多いと聞くし、親との葛藤とかの話は若者に刺さらないんですかね?それとも昔の聾者の苦労とか知らね~し~、今なら(ドラマ「silent」みたいに)スマホアプリで文字起こしとかできるから、コミュニケーションも簡単じゃね?みたいな感じで、全然共感しない、出来ない人が増えてるとか?(でも「silent」は流行ったわけだから見当違いか…)

私が行った映画館はいつもは割とガラガラで、大抵会場中央あたりの席に座れることが多いのだけど、上映回数が少ないのもあったのかな?珍しく座席が結構埋まっていて、ちょっと端の方の席になるぐらい人気がありました。上映途中からグスグス周りから聞こえていたし、上映後も余韻を感じているというか、すぐ立ち上がれない感じの人も結構いました。

メディアは取り上げてないけど、実は口コミで人気出てるのかな?まだ上映しているところもあるだろうし、是非観て貰いたいな~。半年後ぐらいには配信もされるだろうけど、なんだろう?別に大画面で見ないと!という作品ではないけど、映画館で観てこその没入感によって感動が大きくなったような気がしたので、機会があれば是非劇場でご覧ください!!(←関係者じゃないですw)


原作

原作は、自身がCODAである五十嵐大さんの「ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと」。

CODAによる視点から聾者と聴者の間にある30の問題点…という話ではなく、彼の生い立ちを30のパートに分けて語っていく感じの本になっていて、非常に読みやすかったです。映画もそういう感じで彼の生い立ちを時系列で追っていく形でしたけど、より分かりやすく区切られて整理されてる印象。

文体も小難しい言葉を弄してカッコつけてるようなものでもなく、凄くシンプルで、余計なものはそぎ落としてわかりやすい。多くの世代、そしていろんな理由で学力レベル、日本語レベルが高くない方にも理解してもらえ、多くの人、そして一番伝えたいあの人に、ちゃんと伝えたいんだろうなという想いを感じることができる、そんな本でした。

映画の中ではチラッとしか言及されていませんでしたが、五十嵐さんのお母さんは、彼女の両親が娘を聾者だと認めたくなくて、最初普通の小学校に入れていたんですね。つまり基礎の基礎になる教育を受ける部分で全くまともな教育を受けられなかったわけです。そして高学年になって漸く聾学校に行かせてもらうようになったんだとか。だから日本語を読むことはできるけれども、時々ニュアンスが掴めなかったりする部分があるんだそうです。だから、そういうお母さんでもちゃんと理解できるような文章で書いているんだろうな~というのが読んでいてとても伝わってきた。多くの人にちゃんと想いを届けたいなら文章もバリアフリーといいますか、小中学生レベルでもちゃんとアクセスでき、理解でき、心に届く文章を目指すのは確かに大事なことだなと、そして彼はそれを目指しているんだろうなと、この本を読みながらハッとさせられました。

ちなみに映画では時間の関係なんかもあり、説明不足というか、エッ?この後どうなったの?とか言う部分もいくつかあったのですが、そこは原作本を読むと解決できるというか、なるほど!と思える部分があるので、是非原作本も読んでみることもお薦めします。映画観た後だと、本読んでも泣かされてしまいますので、そこは覚悟しておいてくださいませ😁。

例えば、近所のおばさんが大事に育てていた花が踏み躙られていたシーン。主人公・大がやったのだろうと、別の近所の意地悪なおばさんに一方的に決めつけられ(元々障碍者への偏見がある人物で、障碍者の子供だからという理由で決めつけてきた)、謝りなさいと言われる。そこで頑なに否定し、家から出てきた母親が必死に言い返してくれたけど、大は惨めで悔しくて走り去ってしまう。映画はそこで終わってましたが、原作では、なんと、その続きが描かれていました。その言いがかりをつけてきたおばさんが後日謝りに来たんだそう。そしてそこからお母さんと関係を深め、茶飲み友達にまでなったんだと。お母さんに、昔あんなこと言われたこと忘れたの?と、二人の関係を知った時に訊いたら、「いつまで昔のこと言ってるの」と言われたんだとか。えぇ~、何、そのホッコリエピソードは~!!そして母ちゃん、懐深すぎる!!

これまた映画ではなかった部分ですけど、中学生でかな?いじめにあったりもする。しかしこれも覚悟を決めてガツーンといじめっ子たちに言ってやると、すぐにいじめも収まったそうで、なんだかその辺りは時代なのか、この地方の特性なのか、より陰湿な事態にならずに、さっぱりしてて、よかったな~と思いましたね。近頃じゃ言い返したらより事態が悪化するなんてこと、ザラにありますもんね。

学生時代の手話クラブの話とか、同じCODAの同級生が出てくる話とかもあるし、そこから進学の話、やりたいことが見つからない時代の話、東京に出て来てからも映画ではパチンコ屋で働いてましたが(あれは音のある、あり過ぎる世界の象徴かなにかだったのかな?)、原作では家具屋さんで働き、そこで聾者の女性と出逢ったり、少しずつ違う部分もあって、その時々の詳しい心情も綴られているので、原作も是非読んで欲しいです。←シツコイw

特に最後、「ぼくが生きてるふたつの世界」という映画のタイトルにあるように、ず~っと聴者と聾者の二つの世界の狭間で苦悩してきた主人公だけど、最後には、その母親から、産んでくれたことで聴者の世界を、育ててくれた中で聾者の世界を、二つの世界を贈られていたことに気が付く感じでしょうか。実は自分は人一倍豊かな世界を持っていて、それを糧に、ふたつの世界をつなぐ力になれるし、なりたいと、生きる意味を見出していく。その部分は、映画ではラストシーンの衝撃ですっ飛んでしまった感じだけど、原作本ではその辺りの心情が記されていて、じんわり、良かったヨカッタと心がホッコリする感じになっていました。


演者

とにかく主演の吉沢亮さんは凄く良かったです。
10代の頃の水球ドラマ「水球ヤンキース」ぐらいからイケメン俳優としてなんとなく認知して観てきましたが、特別ファンというわけでもなく、「キングダム」とか、最近では「東京リベンジャーズ」とか、ああいうのは全然観ていない。大河主演もしてたけど、言われてみればそうだった!と、すっかり忘れていたほど(;^_^A。 ただドラマ「PICU 小児集中治療室」は観て印象に残っていて、演技が自然というか、最近多い”押し付けがましい演技”じゃない所がイイな~と思っていたんですよね。今回も等身大の主人公を自然に、しかし説得力を持って、だけど目がつい追ってしまう役者としての華も備えた存在感もあり、凄く良かったです。

なにより高校生時代は本当に高校生らしい瑞々しさがあるように見えたし、20歳前後のヤサグレ時代は死んだような目で、嫌な奴にちゃんと成り下がっていた。そこから少しずつ生きる目標を見つけて前に進み始めるとともに、顔にも生気が戻り精悍さが出て、目にも光が宿ってくる。その辺りを見事に演じ分けていて凄いな~と。

なんでしょうね?「イケメンイケメン」言われても、「ハイ、イケメンですが何か?」と返しができるほど自他ともに認めるイケメン(勿論好き嫌いはあるだろうけど、イケメンなのは間違いない)。中途半端なイケメンはなんとかイケメンに見えるように努力していて、その変な力入っている部分がどこか観客に伝わっているというか、違和感を生んでいるのかも?例えば80%のイケメンが100%のイケメンに見えるように演技(カッコつけ)をしたりするので、その20%のカッコつけがどこか鼻につくというか…。しかし吉沢さんは最初から100%のイケメンなので、わざわざカッコつける必要がない。全て演技に全振りできる。肩に力が入っていない自然な演技ができる。逆に100%からわざとマイナスにしてもそれはそれで趣が出る…みたいな?イケメンになることにアップアップしてる中途半端イケメンではなく、イケメンであることを理解して、そこに胡坐をかかずに、役に添わせて使い所を熟知している…そんなベテランイケメンの余裕を感じるwww。

あと、手話を使うのが当たり前すぎて、裏で必死に努力して憶えているという事実を忘れてしまうぐらい演技に溶け込んでいたところも凄かったです。

主人公・大の手話は実は特殊なんですよね。手話の知らない私なんかからしたら微妙な違いに気付けないのですが、実は正式に習った手話でなく、母親から(その母親も聾学校に途中から入ったわけだし)見て覚えたもので、ちゃんと覚える前にCODAであることへの反発から習得を辞めてしまった。だから中途半端な手話であるらしい。細かいニュアンスを伝えたり、難しい表現まではできない(これは原作本を読むと詳しく書かれています)。さらには映画でもあったけど手話にも方言みたいに地方によって表現が違ったりもあるし、人によって癖もある。だから吉沢さんがしていた手話は、主人公・大の設定から手話指導の人と作り上げたパーソナライズされた手話だったんですよね。そこに各場面の感情に合わせて、雑に恥ずかしそうにパパっとしたり、怒りでキツく力を込めてやったり、手話での演技もこなしているわけです。さらには外国人が話す変な日本語みたいにならないように、手話話者から見ても違和感ないようなレベルでする必要もある訳で、監督のインタビュー動画でも言ってましたが、オフ日でも自分から希望してレッスンを受けてかなり努力していたようですね。クールそうな見た目だけど、コツコツ努力する職人俳優なんだろうなぁ。

こんな役をやったと思ったら、次の作品?かで動画のおススメに上がってたのがコチラ。「ババンババンバン バンパイア」

確か来季アニメ化もするというので、そちらの方の予告動画も観ていたので、エッ、あれを実写化するの?それを吉沢亮で!?とビックリでした。振り幅!!

森蘭丸がバンパイアで、今は銭湯で働いているって設定?一応ギャグBL漫画なんですかね?吉沢亮がせっかくBLやってくれるのに、ギャグかぁ…。そこは恥ずかしがらないで、ど~んと王道のシリアス路線のやつでやって貰いたかった。。。_| ̄|○

*****

母親役の忍足亜希子さんも凄く良かったです。母親役が忍足さんで本当に良かった、彼女じゃないと成立しなかっただろうな~と思うほど。

監督が言っていたけど女優としての華がある。華があると言っても女優様、カトレアのような華といった感じのものではなくて、例えていうなら、授業参観で教室に入ってきたら、アッ、キレイなお母さん!誰のお母さんだろう?…みたいな華、カサブランカではなくて山に咲いてるササユリのような華。

そして華がありつつも生活感もしっかり滲み出てる。映画前の予告で出ていた華やかな女優さん達にはまず感じられないような、家事を毎日こなしているような刻み込まれた生活感。料理をしているシーンで手が映った時の手の甲に浮き出た血管の生々しさ。家族の為に働いてきた長年の努力が、あの何気ないワンカットひとつで伝わる。あれがキレイなハンドクリームのCMみたいな手だと、それだけで説得力を失うというか、嘘くさくなるんですよね。華やかな人気女優さん達も、適材適所で必要だけど、こういう役はできないだろうな…と思ってしまった。

そして原作者五十嵐大さんの本にも書かれていたけど、お母さんがいつもニコニコしているのは、障碍者だからニコニコしていれば誰か助けてくれるという、彼女の両親の教育の影響もあるのではないかという部分。生来の明るさもあるのかもしれないけど、そうならざるを得なかった可能性もある。その笑顔と悲哀?諦観?が絶妙に入り混じったような表情、忍足さん自身も経験してきたから出せる部分があったのだろうか?言葉で表現し辛い数々の表情にギュッと心を掴まれるような瞬間が何度もあった。そして自分が母親を悲しませたときに母親がしていた表情もそこに重なり、何とも言えない苦しさも…。あ~もう勘弁して…と見てるのが辛いほど。

忍足さん自身も聾者だし、役も聾者の役だけど、振り返ると全く聾者だという属性を意識して見ていなかった気がする。大のお母さん、ただそれだけ。聾者という前に圧倒的にお母さんであり、その母親としての演技にしか意識が向かなかった、そんな感じ。

邦画は大して観ないから、他にもいい演技する役者さんはいるかもしれないけど、日本アカデミー賞、忍足さんに最優秀主演?助演?賞、是非上げてください!!私の中では既に受賞済み!!w

この動画では吉沢さんや忍足さんの起用理由を監督が語っています。納得と共感することばかり。


父親役の今井彰人さんが吉沢さんと3歳違いの33歳というのもビックリ!!

忍足さんと21歳も離れていたの?そちらもビックリ!!今井さんが老けてるというより、忍足さんが若々しいんでしょうね。かわいい系のお顔ですし。20代?30代?ぐらいの新米ママ時代もそれほど違和感なかったし。70年代~80年代の地方の母親って確かにあんな感じでした。

主人公・大と父親とのシーンが少ないところも「東京タワ ~」を彷彿としたんですよね。お父さんがオマケみたいにしか出てこない(^_^;)。いや、父親も聾者なんだから、そっちとも葛藤はないのかね?と。父親は幼少期に聴覚を失った中途聾者だから?でも細かいコミュニケーションが取れないのはどちらも一緒な気がするんだけど…。この辺りは五十嵐さんがマザコンで、母親に対してより愛憎を感じていたってことなのかな?もうちょっとお父さんとの葛藤シーンも見たかったなぁ。

あと、感心したのが、子役たち!!こちらの動画で監督が子役選びについて語っていました。

大人になった時に「全然違うやん!」となるのは嫌だから、絶対的に吉沢亮に繋がるように似たルックスの子たちを探したと。これには超共感!!今回「東京タワー」の映画も観直したんだけど、やっぱり子役からオダギリ・ジョーに繋がってなくて、そこはモヤモヤしたんですよね。

いや、本当にこの作品の子役たちはソックリ!成長したら吉沢亮になると思える顔してるし、特に小学生時代を演じた子(子役さん達の名前をググったけど出てこなかった。wikiもまだ無いし、公式サイトにも載ってなかったんです)が、なんというか、目の使い方とか、ちょっとつまらなそうにしてる顔とか、造形だけじゃなくて佇まいまで似ていてビックリ。そして華がある。他の小学生たちに囲まれてる時の主役と脇役感の違いよ…(( TДT)ゴメンヨー他の子役さん達)。演技経験が無かった子だなんて信じられない。あの子が手を洗ってる時に、なんかすごく手が大きくて、そして脚も今の子だからか異様に長くて体の半分脚みたいな? 大型犬の子犬じゃないけど、この子は成長したら高身長のイケメンになりそうだな~と思ってしまったw。是非、大人になってから、あの時の子役です~と、吉沢さんと再共演して貰いたいですね。

あとビックリしたのは祖母役の烏丸せつこさん。
最初烏丸さんだと全く気付かなかったんです。誰だっけ?見たことあるけど…この綾戸智恵みたいな女優さん。「テ、テ、テネシーワァ~ルッ♪」なんてのが頭に浮かんでいたくらいw。

私の中では小さい頃に始めて見た時の烏丸さんのイメージ、ウェーブがゆったりかかった黒髪で、クラリオンガールでしたっけ?セクシーで色気のただよう美人女優さん。それから老けていった姿も所々で見てきたはずなんだけど、ここまでガッツリ老け役をやってるのを見たのは初めてだったかも?点と点が全く繋がってなかった。最後にクレジットを見て、エッ?あのおばあさん?言われてみれば確かにそうだわ…となりました。あの介護ベッドからヨロヨロとトイレに行く姿とか、完全におばあさん、ウチの祖母を思い出すほどでした。実年齢は古希前。忍足さんとは15歳差。まだまだしっかりしているはずで、最後の方のヨロヨロ具合はかなり演技していたんでしょうね。老婆役ってみんななかなかやりたがらないのか、いつも決まった人がやってるイメージ。是非、これからもどんどん活躍していって頂きたい。


「コーダ あいのうた」とは違う点


この作品、「コーダ あいのうた」と絶対的に違うのは、親が毒親ではないというところでしょうか。「コーダ」の方は、娘のルビーを親がガンガン通訳として使い倒す。そしてそれが悪いことなんて思ってないし、通訳として助けなかった時には文句まで言う。そして自分たちのビジネスにも関わらせて、責任を押し付けてくる。さんざん娘が夢を追いかけることを邪魔しといて…最後親に感謝する展開って、どうなん?…と思わなくもなかった😅。

一方、「ぼくが生きてる、ふたつの世界」は主人公・大が自発的に、母親を守りたい、助けになりたいと幼少期には通訳をしたりもしていたけども、母親(父親も)がそれを息子に求めたりする描写は一切なかった。訪問販売のおばさんが来た時でさえ、隣に立ってる息子に通訳を頼むでもなく、自分で対応しようとしていた。
そして息子の夢についても、勉強したいから塾に行きたいと言えば賛成しお金を工面し、役者の夢も頑張れと後押しし、なんでも大がやりたいことをいつだって応援していた。

何なんですかね?国民性なのかな?頼れるものは何だって頼ろうというのと、自分でできることはできるだけ自分で…という考え方の違いなんですかね?ここだけじゃなくて、「ぼくが~」のほうが「コーダ」に比べて、日本人のメンタリティが反映されてる映画だな~という感じがしました。日本人には刺さるけど、アメリカ人とかはどう感じるのか?興味ありますね。

そもそも娘の進学を許すルビーの父親に、確かに映画観た時には感動したんだけど、「ぼくが~」の方を観た後だと、あれはマイナスが±0になっただけだったのでは…と思わなくもないんですよね。なんか錯覚の感動というか…😅。

一方、大の両親はルビーの両親と違って、息子のことを一人の人間として人権無視するようなこともなく、最初から親として立派な人達だった。問題があったのは祖父母たちの方で、祖父は元ヤクザ、祖母は宗教信者、自分たちの勝手な価値観を押し付けて来たりする。そして聾者の娘を聾学校に通わせなかったり、家庭内でも手話を覚えることもしなかった。ちゃんと娘と向き合ってこなかった人たちなんですよね。人間的に問題があるのは両親たちではなく、健常者の祖父母たちというのが、なんというかスゴイ皮肉が効いているというか、考えさせられる部分だな~と。

あと「コーダ」の方は感動の押し付けではないけど、ちょっと過剰な演出が批判される部分もありました。ルビーの父親が、歌うルビーの喉に手を当て、娘が歌が上手いんだと理解するというシーン。ここに感動したという聴者からの意見が多い中、聾者側からの意見として、喉に手を当てても伝わるのは振動だけで、歌が上手いかどうかなんてわからない。感動させようとして聾者の意見を無視した不正確な演出だという指摘もありました。

確かに、全体的にハリウッドの感動作品を作る定型というか、ある種の見たことあるパターンに沿ってる感はありましたね。ほら、ここ感動するポイントだよ!と、言われてるみたいな場面がちゃんと用意されて…と言った感じで。

逆に「ぼくが~」の方は、そういう過剰演出はなかったかな?逆に物足りないなと思うことがあったくらい。
東京出て来てから、聾者のおばさんと出逢って、手話サークルに入って、そこで友達ができて…という流れの部分。割とツラツラ~と流れる感じで進んでいった気がしました。あそこ、両親以外にも聾者のコミュニティがあって、そこに初めて触れ合えたことの驚きとか、これだけ人がいる東京で、孤独に過ごしていた自分が親近感を覚えたり、仲間だと思えたのが聾者の人達だったり、その気付きと感動をもう少しベタでもいいからわかりやすく表現してくれてもよかったかな?とは思いました。ちょっとメリハリが足らない気がしたんですよね。最初、大はどういう気持ちで彼らと付き合ってるのか分からなかったんです。CODAの立場を理解してくれる人と出逢えて、原作本では、深夜まで嬉しさのあまりファミレスで話をしたと書かれていたんです。そういうのがあると、大が自分のCODAとしてのアイデンティティの気付き、そこから自分の苦悩を理解してくれる人がいることを知った嬉しさなんかがダイレクトに伝わってくるし、その後の彼らとの交流も、流されて会っているのか、主体的に自分から意志を持って会いに行っているのか、その違いが伝わってきたと思うから。


あと、この映画、言われるまで気が付きませんでしたが、劇判が一切ないんですよね、劇判が流れることで、感動シーンをより高める効果があるのと同時に、ハイ、ここ感動ポイント~!!という押し付けにもなりかねないわけです。そこはある意味誠実な映画、観客の感性に任せて、信頼している映画だなと思いました。劇判が無くても全く気にならなかったです。逆に音のない世界を、もう少し効果的に入れてくれてもイイなと思ったくらい。

最後にテーマソング 「letters」が流れます。

このMV見ただけで、また映画思い出して涙がチョチョぎれます😢。

「コーダ あいのうた」よりも親の愛を感じられたし、「東京タワー」よりも親に反発したりする苦悩が自分と重なって共感できたし、今のところは自分の中でかなり評価が高いです。

ただ先述したように、主人公の心情をもう少しわかりやすく、バカな私でもわかるようにして欲しかった部分はある。思春期の辺りで、ベッドで寝てばかりいた主人公・大。原作を読むと、中途半端な手話しかできず、両親と細かい、ニュアンスのあるコミュニケーションができないことへの苛立ちや諦めみたいな複雑な感情が渦巻いていたからだとわかる…その辺りが映画では少し読み取るのが難しかったです。私の映像の裏にある文脈読み取り力が低いだけかもしれませんが…。でもラストシーンの映像表現はやはり映画ならでは。あれは本、活字では伝わらないし、伝えても無粋になる。あれに全てもっていかれてしまった。

実際にの聾者の方はどう観たのか気になりますね。ここの表現はちょっと変だよ~みたいな意見、あればそれはそれで知りたいです。別にこの作品が聾者を軽視した訳ではないというのは伝わっているし、その上で、そういう視点、意見もあるんだな~という新たな学びになると思うから。


APD:Auditory Processing Disorder

原作者五十嵐大さんの著書「隣の聞き取れないひと APD/LiDをめぐる聴き取りの記録」という本を、今回、この映画をきっかけに読みました。

これはAPDAuditory Processing Disorder 日本語だと音声処理障害といった感じですかね?追記:「聴覚情報処理障害」と書かれていました)を紹介して、広く知って貰うために書かれた本でした。

所謂難聴は音声自体が聴こえ辛いという障碍ですが、APDは音声を聴くことには問題はなく、ちゃんと通常ボリュームで聞こえる。ただ、聞こえてる内容を脳が処理する部分で問題があり、正しく音声情報を理解できないという障碍なんだそう。

ヒトの耳は非常に優れていて、”カクテルパーティー効果”雑音の中でも特定の人物の声を聞き分け、理解すること」と呼ばれるものを自然と出来ているんだそう。確かに無意識のうちに音の選別をしているのは、言われてみると確かに!と気付く部分。麻雀とかで、ガチャガチャ騒がしい中、他のメンバーが好き勝手に話していても、聞きたい人物の会話に集中してそれだけを聞き取ることができますもんね。

この部分、私は祖母のおかげで以前から薄っすらですが認識はしていました。
私の祖母は耳に障碍がありました。片耳は祖父に殴られたことによって聞こえなくなり、もう一方の耳も徐々に聴力が弱まり、晩年は補聴器を付けていた。そんな彼女と会話をする時によく言っていたのが、全ての音が同じボリュームで聞こえるため、いくら補聴器があるとはいえ、聞き分けるのが大変だということ。それを聞いた時に、あ~確かに、耳って実は無意識に音を選別して聞いているなと、今まで考えてもいなかったことを教えられた気分になりました。

そして今更考えたことですが、補聴器だと、耳に直接付けている訳で、各音源との距離感はちゃんと認識できていたのだろうか? ヒトは耳からの音声情報で音源との距離感も認識してる。そこに視覚も加わって、より精度の高い空間認識をしていると思います。車が迫ってくる状況においても、視覚だけじゃなくて聴覚によってもその距離感を把握し、より精度の高い判断で衝突を回避出来たりしているんだと思う。そう思うと、祖母が外を歩くときにいろいろと覚束なかったのは、足腰の衰えだけでなく、聴力、そして聞き分け力の問題もあったのかもしれない。車の音を聴いて距離を把握したいのに、横の人の会話が邪魔して把握できないとか、瞬時に聴く対象を上手く切り替えができなかったりしていたのかも…。補聴器は耳の穴を塞いでいる訳で、ふたつの音源のどちらが遠くから聞こえますか?と言われても、正確な距離感を把握するのは案外難しいのかも。必要以上に音を拾って、距離感を狂わせること、あったのかな…。おばあちゃん、想像力足りなくてごめんなさいm(__)m。

五十嵐さんは何人ものAPDの方にインタビューをしていき、どういったものなのか、そしてどういった種類があるのか等を知っていく。


APDと言ってもいくつか原因にタイプがあるそうで、
➀脳損傷タイプ
②発達障害タイプ
③認知的な偏りタイプ(不注意、記憶力が弱い)
④心理的な問題タイプ

など。そしてこれらが複合的に組み合わさっている場合もある。

これらの説明を読んでいて、私も自分の聴覚に対して疑問というか、自己分析を始めるに至りました。

かくいう私も、自分の聴覚というか聴く力には少々自信が無かったのです。音はちゃんと聴こえてはいるので恐らく難聴のような問題ではない。ただ音を明確に聴き取りづらいことがよくあるのです。いわゆる聞き間違いが多いタイプ。大抵は前後の予測でこう言っているんだろうなと解釈してやり過ごせますが、前後、脈絡関係ない発言で何か言われると予測できずに、素っ頓狂な聞き直しをして笑われたりすることがあったりします。

なんというんですかね?音に輪郭があるとするなら、一部の音の輪郭がボヤケてしまっている感じ。そして視覚と比べると音の記憶力や情報処理能力も低いんですよね。視覚なら10文字記憶して書き取りできるところを、聴覚だと5文字覚えるのもやっとといった感じ。歌とかも聴いているだけでは歌詞の意味があんまり頭に入ってこないんだけど、歌詞を文字で読むとやっと頭に入ってくる…。視覚と比べると圧倒的に音での脳内情報処理が劣っている気がします。いままで深く考えてなかったからここまで強く意識したことは無かったけど。それでも漠然と聴く力の弱さは感じていて、もう15年近く、テレビは字幕を出してみるようになっています。近頃では字幕が無いと不安になるくらい。

この本で紹介されているAPD当事者の方の話でも、たぶん彼らほどではないけど似たような部分があるな~と思いながら読んでいました。例えば子音が聞こえにくいという話。「この砂糖をあっちにもっていって」が「このaとうをあっiにもっていって」と聞こえるとか。私が音の輪郭が不鮮明に感じるのも、コレと似たものなのかもしれない。

心理的な問題についてもなんとなくわかる気がする。
私はあがり症なので、大勢の前で話をしないといけない時なんかは、頭の中が真っ白になる。同時に完全に意識が頭の中をぐるぐる回って、外からの音は聞く余裕がないというか、音声情報の処理が完全に止まっている気がする。あと怒りでカッカしてる時なんかも同じようになったりしますよね。

これは発達障害とはちょっと違うけども、幼少期の発達段階でのトレーニング不足みたいなものもあるのかもしれない。幼少期、ウチの家庭はそれほどリラックスした状態で会話を沢山するような、できるような家庭ではなかったんですよね。父親は殆ど家にいないし、いても酒飲んで酔っ払って、まともに子供の相手なんかしない。話すとしても上から命令したり、怒ったり。同じ目線での言葉のやり取りを交した覚えがまずない。3歳のとき、所謂”なぜなぜ期”だった私が、車の助手席で「あれは何?これは何?」と父親に向かって訊いていた時に、「うるさい!だまれ!」と怒鳴られた記憶が、近所のどの辺りを走っていた時かも憶えているくらい、いまだに鮮明に憶えているほど。母親も私の兄を事故で亡くし、宗教に走って、まともに私と向き合うことをしなかった。だから私はひとりで過ごすことが多かったし、その時の私が家の中でコミュニケーションを取っていた相手は、主に本や漫画だったんですよね(テレビもあったけど、まだ当時はテレビは何時間までとか言われて限定されていた時代)。だから音声コミュニケーションよりも視覚コミュニケーション、音声処理能力よりも視覚処理能力が発達した…そんな気がしないでもないです。

五十嵐さんは著書の中で、いろんなAPD当事者の方や専門家の方たち、APD認知を広めたいと頑張っている方たちに会って話を聞いて行きます。

それによって彼と一緒に読みながら読者も見識を深めていけるようになっていて、凄く読みやすかったし、わかりやすかったです。そしてAPDだけではなく、他の様々な障碍と共通する問題点や、それと向き合うことにおける懸念や心構えなども悩みつつ、ひとつの方向性を示してくれる。

例えば、APDと名前が付けられることで、同じような悩みを持つ人々が、自分だけの特殊な問題ではないんだとわかって、救われた気持ちになること。皆聴覚には問題がないので、通常の検査をしても異常とみなされない。気のせい、勘違いのように結論付けされてしまっていた。しかし現実問題、職場で聴き取れないことが障害になり、職を辞めざるを得ない状況になったりする。その漠然とした不明の問題がある状態から、APDだとわかることで治療はできなくても対処はしやすくなるし、心持ちも変化できる。

そして名前がつくことでそれが旗印になって、同じ仲間と繋がることができ、経験を共有することで孤独な苦悩や葛藤から解放される。これはAPDにかかわらず、未だ世間に認知されていない様々な障碍に当てはまることだと思う。いや別に障碍でなくてもいい、依存症のような問題を抱えている場合でもそうだろうし、セクシュアリティの問題、アイデンティティの問題、繋がることで解決することは本当に多いだろうなと教えてくれる。

そして世間に向けて認知が広がるように発信していく運動にも繋がっていく。当事者だけで解決する問題もあれば、彼らを取り巻く世間という環境が変わることで解決することも沢山ある。だからこそ認知を広げることの意義も教えてくれる。

五十嵐さんが本の中で紹介していた、いくつかの当事者の方々やグループなどを、ここにも載せておきます。興味が出た方は是非覗いてみてください。

こちらは当事者の方たちで作った会。

この”コアラの耳に?マーク”がデザインされたものが、APDを示すマークなんだそうです。まだAPD自体が障がい者手帳を発行して貰えるようなところにまで認知も研究も進んでいない。よって、このマークも政府が認めた公式なものというわけではないそうですが、当事者の方々の中では流通しているマークのようです。

そしてコチラは、当事者であるきょこさんが書かれたマンガ。


数年前にNHKが取り上げたことでグッと認知が広がったそう。

インタビューを受けた方々が自身をAPDと認識したのも、関連組織ができてきたのも、殆ど2020年代に入ってからのようなので、まだまだ最近漸く認知が広がってきた問題という感じでしょうか。とりあえずはADHD(注意欠如・多動症)ぐらいに認知が広がると、当事者の方々の生き辛さも軽減していくと考えられてるようですので、是非とも、これを読んだ方もとりあえず名前を憶えて、理解をしていってもらえたらと思います。

APDは、Auditory Processing Disorder 聴覚情報処理障害
もうひとつ書かれているLiDは、Listening Difficulties 聴き取り困難

APDで日本では広まってきているんだけど、海外ではLiDで広まっていく流れにあるようで、今後どちらが主流になるかなんとも言えない状態なんだそう。ちょっとこれはすぐにでもハッキリして欲しいところですけど、そうもいかないんでしょうねぇ…記憶力が死んでる私にはツラい!(-_-;) どうせなら個人的にはアルファベットの羅列より「コーダ」みたいに呼びやすい名称にして欲しいところだけど…。

上の動画にも出ている笑歩さんはYoutuberで、APDについての動画を発信しているそうです。


あと、APDについて作ったCMがACジャパンで賞を獲ったそうで、この制作者の方にも話を訊きに行ったりもされてます。

身近で聴き取りが困難そうな人や、よく聞き間違いしている人、ガヤガヤしたところで話が頭に入ってなくてボーっとしている人とか、天然系のレッテル貼られてる人とかも、もしかしたらAPDの可能性もある。彼らが知らないようなら「APDってのがあるそうだよ」とカジュアルに教えてあげたり、言いにくいならそっと静かな場所に移動して話してみたり、メモに書いて渡してあげたり、何かしら、別に大層にしなくてもいいからサポート、ひと工夫できるようになれば、生きやすい世の中への変化の一助になるかもしれません。


最後に

映画「ぼくが生きてる、ふたつの世界」のおかげで、また新たな世界を知れたし、こういう問題への向き合う姿勢も教えてもらえたような気がします。

世界を広げてくれた皆さん、どうもありがとうございました。

ということで、この映画の私的☆評価は、ちょっと難癖付けた部分もあるけど、そのマイナス部分を埋める、それ以上、余りあることを教えてくれたので…
☆10.5!!(←10段階評価です😅)


五十嵐大さんの家族の話がより濃く書かれたコチラの本も読みました。元ヤクザだった祖父の葬式あたりを中心に描かれています。

映画や原作本では殆ど出てこなかったお母さんの姉たち(五十嵐さんの叔母たち)との関係なんかも書かれていて、なかなか興味深かったです。

映画「ぼくが生きてる、ふたつの世界」も、原作である「ろうの両親から生まれた僕が聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと」も五十嵐さん視点の話で、当のお母さんがどう思っていたのか凄く気になっていました。

こういう本も出ているようなので、お母さんの想いを知るために、また読んでみたいと思います。

映画でも子供の頃に食べたパフェのこと、お母さんは憶えてないと言っていたように、案外憶えてたり、印象に残ってる出来事が違ったりしてそうですよね。

追記:「聞こえない母に訊きに行く」も読みました。コチラもなかなか興味深い内容でした。中学から聾学校に入ることになる経緯、そこで出会った恩師、そして父親との馴れ初めと駆け落ちの話などなど。

お母さんの幼少期の話では、意外にも元ヤクザの父親からも、宗教にハマっていた母親からも、二人の姉からも、耳の聴こえない末っ子ということで可愛がられていたことがわかってくる。私はてっきり家族からももっと冷遇されていた、その結果、聾学校に入ることも遅くなり、家庭内で手話を使う人もいない状況だったのかと思っていた。しかし時代背景や、手話を使わなくてもある程度の意思疎通ができる姉がいたり、そして手元に置いておきたかった親心とか、彼らの家族愛にもちょっとホロっとさせられる内容でした。

そして優生保護法の問題も取り上げている。実は著者・五十嵐氏の出身県である宮城県は、全国で二番目に積極的に手術などを行っていた県だとわかる。若い子だと10歳過ぎぐらいで不妊手術を受けさせられていたり。もしかしたら自分も生まれてなかったかもしれないということで、五十嵐氏は自分事のように関心を強めていく。そして、これからもこの件は追いかけていくんだろうし、おそらくまたこの問題に特化した本も書かれるのでしょう。


こちらはエッセイ集ということらしいので、こちらも読んでみたい。

最新刊らしいので、CODAとして、いろんな人と繋がったことでさらに変化した部分などが書かれているかな?

追記:こちらも読みました。コチラは最新刊だけあってやはり最も新しい内容でした。映画「コーダ あいのうた」や、NHKでやっていたドラマ「デフ・ヴォイス」「しずかちゃんとパパ」などの作品に関する感想なども書かれていた。そして今まで生まれつきの聾者であった母親について書くことが多かった理由。しかしもっと父についても書いていきたいと思うに至った理由なども書かれていた。そう、なぜに父親について殆ど書かれていないのか謎だったのですが、その理由がわかったし、これからは父のことも書くそうなので楽しみです。お父さんもお父さんなりに中途失聴者といえど苦労はあったはず。母親とは別の視点での気付きもあるだろうし、是非書いて欲しいと思いました。

そして今回、この二冊を読んでいて、今まで意識してなかったのか、丹ん位気付いていなかったのか、手話と言っても二種類あることを漸くしっかり意識できるようになりました。

ひとつは、聾者がから自然発生的に生まれた「日本手話」
もう一つは口語で私たちが喋る日本語を、その語順のまま手話で表した「日本語対応手話」

私はいままで「日本語対応手話」しかないと思っていました。NHKの手話の番組とかもボーっとだけど観てたことがあるけど、そんな違いを意識したことも無かった。しかし読んでいくと「日本手話」というものが存在する。それは日本語と語順も全く違って、そもそも日本語の文法には全く沿っていない。助詞とかもない。だから今まで、手話ができなくても筆記で事足りるだろうに…と思っていたのが間違いだと気付いた。全く違う言語だと理解できると、確かに簡単な文章なら筆記でも大丈夫だろうけど、概念的な話とか、聴者でも難しい文章なら簡単に筆記ではコミュニケーションが取れないのも納得。五十嵐氏が思春期に親とコミュニケーションを取るのが面倒になったのもやっと理解できた。

「日本手話」と「日本語対応手話」を使い分けるということは、日本語と英語を使い分けるバイリンガルのようなものらしい。そう教えられると、日本手話が母国語である聾者には日本語の本を読むことさえも難しいのかもと、なんとなく想像できるようになってきた。

聾者と言えど、幼少期から絵本とか、日本語で書かれた書物を読んでいれば、五十嵐氏の母親のように、日本語の理解が今ひとつになるなんてことがあるのだろうか?と思っていたのですが、違う言語だとして、徹底的に読書で日本語文法を習得していないと、確かに有り得ることかもしれない。自分がそういう状況になったことがないので現実的な感覚ではわからない部分もあるけど、やっとこの問題の根本的なところが理解できて来たような気がしました。

聾という世界、その異文化を知れば知るほど奥深いし、興味深い。
五十嵐大氏の文章は本当に読みやすいし、理解しやすいので、また新刊が出たら読んでみたい。皆さんも興味と機会があれば是非読んでみてください。



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