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元ベトナム軍人の夢と志


 これは、著者「LVN」が元ベトナム軍人の為に代筆したものです。

1 「2025年」という年とそれまでの過程

 来年は、2025年は、自分にとって、極めて特別な年です。それは、80年前と50年前の想い出が、より一層深まると同時に、夢と志をより一層決行する年になるからです。

1.1 祖国の革命と独立

 来年の2025年からさかのぼること80年前、自分は祖国ベトナムのハノイで、心友であり、同志であり、戦友である「ズン」と共に、二人とも15歳という若さで、祖国の革命と独立を目撃しては、参加して、体験しました。

19/8/1945のハノイ総蜂起の写真

 ズンと共に、二人でホーおじさんが読み上げた祖国の独立宣言を傾聴しました。

2/9/1945の独立宣言の写真

1.2 第一次インドシナ戦争

 そして、養母をはじめ、数多くの兄弟姉妹達と人々と共に、助け合っては、共に学んで、成長しました。その僅か1年余り後、祖国の独立戦争「インドシナ戦争」(第一次インドシナ戦争)が勃発し、民兵として、ズンと兄弟姉妹達と共に参戦しました。

1946年のハノイの戦いの写真
1946年のハノイの戦いの写真

 初めての参戦、初めて戦闘、そして、初めての「戦死」という死別を数多く経験し、この戦いで、ベトナム独立同盟会は敗戦し、国都ハノイから全面的に退却を余儀なくされ、自分とズンは、愛する大切な人々の遺体を1分足らずで抱き締めることしか出来ず、そのまま放置して敗走し、その後、二人で熱誠に志願して、ベトナム独立同盟会の新兵になりました。

 そして、7年以上に亘って、教練と実戦でズンと共に成長し、そしてベトナム軍事史上、最も有名な勝利を収めた「ディエンビエンフーの戦い」に参戦し、愛する大切な先輩達・同輩達・後輩達の戦死を次々と戦場で苦しく経験しつつ、最終的に、ベトナム独立同盟会の旗を届ける一員となり、下記のような写真のように、ベトナム人民軍は決定的な勝利を収めました。

ディエンビエンフーの戦いの写真

1.3 第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)

 その後、ズンと共に、南部の完全解放と祖国の完全統一を立志し、移民として秘かに中部・南部に移住し、「チュオン・ソンルート」(ホー・チ・ミンルート)と「南ベトナム解放民族戦線」の創立に貢献しては、その創立後の維持や進展に参画しました。

「チュオン・ソンルート」(ホー・チ・ミンルート)
南ベトナム解放民族戦線

 1955年から1975年まで、本当に過酷で危険な日々を送り続け、そして数多くの死別を経験しました。1969年10月末には、夜戦で、最愛の同志「ズン」の戦死を、目の前で直視しつつ、退却しました。彼の最期の眼と「兄貴、行け!」と言う声と威嚇(自分を救出するなということ)の発砲、そして戦友達を救う為に、彼は自ら殿として戦い抜き、そして戦死したのです。

 その後も、戦い続け、戦い抜き、戦い尽くしました。そして、遂に待望の「1975年春季作戦」に参戦し、自分は、南部の完全解放と祖国の完全統一を遂に自ら成しては直に見れると大喜びしつつ、「ベトナム人民軍第二軍団」の一員として戦いました。

「ベトナム人民軍第二軍団」のロゴ
「ホー・チ・ミン作戦」の図

 1975年4月30日でのサイゴンへの進軍、そして南ベトナム解放民族戦線の旗が独立宮殿に掲げられたこと、それは、自分にとって、待望の瞬間であり、そして至福と幸甚の瞬間であった。戦争の終結と祖国の統一が遂に果たされた瞬間でした。「戦死した同志達と死去されたホーおじさんと、この瞬間を生きて共有したかった!」「ああ、天よ天よ!本当に夢が果たされた!」、そのような想いと幸せは…この日の午後から、崩れることになりました。

1.4 第三次インドシナ戦争そして戦後の祖国の混乱・極貧・退廃

 戦後、自分は人々の豹変ぶりを次々と目撃した。団結は不協和へと激変し、相互扶助は争奪へと激変し、相思相愛は私利私欲へと激変し、不道徳・犯罪・汚職・暴力が蔓延し、混乱・極貧・退廃等ばかりが多発しては激増し続けていました。軍人を引退して役人になっていた自分は、愛国心・忠誠心・利他心を以て直向きに精勤・忠勤し続けましたが、いくら奮励努力しても全く成果は無く、それどころか、やがて徐々に敬遠されはじめ、そして嫌悪され始め、最終的には孤立した上に排撃されました。

 そして、そんな中、衝撃な出来事が起きました。ベトナム南部と中部でのクメールルージュ軍の侵攻と虐殺、そしてカンボジアとの戦争が開始しました。そしてそれに続いて、同盟国であり、支援国であり、同じ社会主義国であった中国との戦争も開始しました。

第三次インドシナ戦争の図

 自分は、中国軍の北ベトナムへの侵攻を予見して、国防に参画し、そして再び従軍し、新兵達の教練と兵站での指導に注力しました。以前の戦争とは違い、戦線で戦う気は無かったです。祖国に侵略している軍とは言え、かつての友軍と戦うなど、自分にはとても出来ませんでした。それでも、確かに自分は、どうしても必要な時は、銃を取って中国軍に発砲しました。事実上、ベトナム軍は勝利したものの、この戦争で自分は確信しました、「何かが本当に狂っている」と。

 「これが甚大な犠牲を払って出来上がった祖国の実態なのか…」「何の為に戦い続けて来たのだ?」「こんな祖国を創る為に戦い続けて来たのではない!」「全てが間違っていたのだ、最初から、そして根本から!」「何が『南部の解放』『祖国の統一』『偉大な社会主義』だ!全部が嘘、偽りだらけ!騙された、欺かれた、裏切られた!」…猛烈な悲憤慷慨を自分は懐き、そしてそれは日に日に深くなり続けました。

 そして自分は…こよなく愛する祖国を…去りました、とても苦しみつつ…

2.1 半世紀後の2025年からの再出発

 長い年月を経て、今現在、自分は在日ベトナム人として過ごしています。自分の人生とその経験・思想・志望等を、確りと整理しつつ、自伝を完成させます。

 そして、元武人にして今文人である自分は、様々な軍事学の書を完成させていきます。たくさんありますが、中でも以下の書が、自分の最も高度な軍事学の書になります。

 そして、自分が最も感銘を受け、最も尊敬する人物の一人である「ホー・チ・ミン」主席の評伝と、それに仮託した思想書をも完成させます。

2.2 振り返り

 自分の人生を振り返りつつ、新たに歴史を学んだ結果、以下の拙作を完成させることが出来ました。

 色んな方々、取り分け、お亡くなりになられてしまった「中野亜里」先生への深謝の念を、ここに示します。我が祖国ベトナムの様々な大問題に真摯に直面しては、懸命に追究して、誠実に活動して下さったことを、自分は決して忘れる事無く、我が志と共に覚え続けます。

 中野亜里さん(なかの・あり=大東文化大教授、ベトナム政治外交史)9日午後2時40分、がん性腹膜炎のため札幌市の病院で死去、60歳。大津市出身。お別れの会は12日午前10時半から札幌市白石区南郷通15丁目北8の27、南郷斎場で。喪主は夫の川根真也(かわね・しんや)氏。
 主な著作に「現代ベトナムの政治と外交」「ベトナムの人権」。中川明子のペンネームで「ベトナム革命の内幕」「ベトナム革命の素顔」の邦訳書もある。

3 今できること

 来年2025年の最も大きな課題の一つは、三度に亘るインドシナ戦争と戦後のベトナムの歴史を大きなモチーフにした二次創作の歴史小説『巫女の生涯』の執筆です。有意義な大作として完成させます。

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LVN
ありがとうございます。心より感謝を申し上げます。