やっぱり古いものがすき(そして修理してあると尚すき)
先日、手持ちのショートブーツを磨きに出そうと思ってでかけたお店のレジ横にある中古靴コーナーにて、よく履き込まれた革製パンプスに一目惚れ。そのお値段800円也。ジャンク品扱いにもかかわらずすっかり気に入ってしまって、そんなものに惚れた自分に対し「あぁわたしって本当に古いものが好きなんだ」としみじみ実感したのでした。
「そんなもの」とは一般的にはそうだろうというだけで、もちろんわたしにとっては「そんんなもの」ではないのです、その靴は確かに『ぼろ』だった、爪先には雨染みがのこり、甲の部分についているリボンの一部分がとれてしまってもいた。けれど、使い込まれた本革は良く磨かれて飴色に輝き、靴底もきちんと貼り直されている。お店のオーナーさん曰く「前の持ち主の方が、こうやってちゃんと修理しながら大事に履かれていたんでしょうね。」と。
そうなると一層可愛く思えて、ぼろちゃんはその場で我が家へ来ることに決まったのでした。
遡れば、わたしは気づいた時にはもう古いものがすきだった。骨董だとかアンティークだとかという言葉も知らないようなころから、ぴかぴかの新品よりも古ぼけたものに惹かれる、そういうチャンネルのようなものが自分の中にあって、そのスイッチが入るとわたしの胸はすごく高鳴ったし、ときめくそれをずっと眺めているだけで幸せなのだった。
ところが実は最近、気軽なアンティークや骨董というものから「古美術」という分野に片足を突っ込んだところで、自分の中で物の値段とか、物そのものの価値とか、そういうものが不安定になっていたところだった。値が高いから、人気店に置いてあるから、良く見えるのか?わたしは本当にそれを気に入っているのか、、、考え始めると自分自身の感覚さえも信じられなくなってきた(あぁなんてこわい世界)。
有名なお店を訪ねて、これだ、と思って結構なお金を出して買った器も、持ち帰ってみたらなんだかつまらないものにみえてしまったり、同じように一目惚れした品を、値段を見て買い惜しみ、結局他の人に買われてしまってから大後悔したり。かと思えば、これはお買い得かなと思って安い品を購入して、結局可もなく不可もなくという存在になってしまったり。
眺めるたびにうっとりとため息が出るほどのものでないと買ってはいけない、と思ってはいても、失敗が続いていたのだった。
そんなところで出会ったこの、ぼろの美しい一足。値段にも、他人の評価にも惑わされず、ただ自分の好みで選んだ本当に好きな一足。ひさしぶりに、方位磁石がぴたりと合ったような感覚をもたらしてくれたこの靴との出会いは、わたしの好みの指針をふたたびはっきりとさせ、買い物への自信と愉しみを取り戻してくれたのでした。
骨董はよく、身銭を切って購入し失敗を沢山して、それでやっとうまく見定められるようになると聞くけれど、私にも失敗という経験値がすこし貯まってきたということなのだろうか。
兎にも角にも、要するにわたしは古いものが好きで、更に繕った跡なんかがあると、もっと好きだということを実感した出来事だったのでした(どうりで、骨董屋でも継ぎがしてある器ばかり選んでしまうわけだ)。