ときめきを買いなおす
ローソクを買った。もとい、キャンドルと言った方が通じやすいと思うけれど、仏壇に灯すようなものでもバースデーケーキに立てたりするようなものでもなく、インテリアになるような大きくて長時間燃えているタイプのものだ。
ローソクはもともと好きだったけれど、子供が小さいので火を灯すたびにワーワー騒いですぐに吹き消されたり、そうかと思えば火をつけたいと言って騒いだり、どうしても落ち着いて灯していられなくて、長い間疎遠になっていた。けれども、また久しぶりに買って、火を灯してみた。もちろんマッチを擦って。
オレンジ色の明るい火がぼうっと灯り、ゆらりとゆれたり、大きくなったり小さくなったりする。こんなに小さい火なのに、ついているだけで周りがほんのり暖かくなるし、燃えるようすを見ているだけでなぜかお風呂にでも浸かっているみたいに平穏な気持ちになって、部屋ごと違う世界に行ったように空間までがぼんやりゆらゆらして見える。この灯りひとつで、こんなにすごい効果があったのかと改めて炎というものの魅力に感嘆する。子供たちはやはりローソクに大騒ぎしたけれど、もうそれには負けない。いつも灯していればそのうち珍しくもなくなるだろう。
ゆらゆらゆれる火を見つめていたら、キャンドルを灯してお風呂に入ったりしていた若い頃の日々をふと思い出した、、、。振り返れば独身のころの一人暮らしはとても幸せな日々だったと思う。恋は散々だったし、仕事がうまくいかなくてよく泣いていたけれど、暮らしそのものは幸せだった。そう、フランスの小説家であるコレットが本の中でこう言っていたように。
「『愛した、愛された、彼だけがすべてだった。幸せだった。そして恋はおわり、苦しみだけが残った』---ってわけで、恋なんて3行ですんでしまう。それに比べて、住まいを語ること、どんなふうに暮らしてきたかをおもいおこすのは、とてもたのしく、わくわくする思い出なの。」 (コレットの地中海レシピ/シドニー=ガブリエル・コレット /村上葉編訳 /水声社)
そんなわけで、独身当時一人暮らしだった私もコレットと同じく暮らしを大いに楽しんでいたのだ。お給料が出るといつも「ときめき」を少しずつ買い足すことが自分だけの密やかな楽しみであった。カーテンやベッドカバーをミントグリーンのライラック柄で揃えたり、バイブルのような本やおしゃれな音楽の詰まったCDを買ったり、朝食のための甘いパンや夜のためのココアを用意したり、、、そういうものを集めてはひとり眺めるたびに、ため息がでるほどうっとりした。小さな小さな本棚には好きな本だけがぎゅっと詰まっていて、6畳しかない私の部屋はときめきで満ちていた。まったく大げさでなく、ときめきこそ私の生きるすべてだった。
そんなふうに振り返っている今、私の幸福度はといえばどのくらいのものだろうか、そう、こんなことを書くくらいだからそんなに高くないのだ。それで、なぜかと考えてみれば、答えはすぐに見つかる。あれこれぜんぶ家族のせいにして、自分の存在を置いてきぼりにしてきたからだ。ふと見回してみると、いつの間にか自分のお気に入りだった品々が消えて家族の好きなものに変わっているし、自分だけの場所と言えるところも家の中にほとんど無い。これを「幸せな変化」と取る人もあると思うけれど、私にとっては、ちょっと危機的状況。母であり妻である前に、私は孤独が好きなひとりの人間なのだ。それを差し置いて生きていくのはなかなか難しい。
周りで、自分をきちんと守りながら忙しい日々を暮らしている人を見ると、眩しく思う。私は不器用すぎて、こちらを大事にすればあちらが、あちらを大事にすればこちらが、かならず蔑ろになってしまう。悲しい。
自分を大切にできない人は他人を大切にすることもできないという、ごくごく当たり前のことを今さら引っ張り出して胸にしまい、少しずつでも自分のときめきを取り戻してゆきたいと思った。そのための一歩が今回のキャンドルだったというわけ。失くしてしまったときめきは、また1から集めればいい。そして最終的にはときめきで満たされた自分の部屋をふたたび持つのだ。絶対。
さしあたっての次に狙うときめきは、むかしお気に入りだったマグノリアの香りのサシェ(たんすに入れておくと洋服にとてもいい香りがうつる)か、家で履くバブーシュ(ピンクベージュ地にゴールドのビーズ刺繍が施されたもの!)か、冬に向けてボルドーのマニキュアか、もうずっとつけていない自分の定番の香水か、、、。こうして算段をしながら、私の中のときめきは掘り起こせば今も尽きることがないということに、すこしほっとした。