表現に泥は必要か
ここのところ、蓮が妙に意識にのぼってきます。
いまちょうど蓮の時期だからもあるけれど、それだけでなく。
以前はカメラを持って朝から撮影に行きました。
蓮の花が開くとき、ポン!と音がするといわれます。
開花は早朝だから、蓮を見るのは朝早くにといわれますが
夜明けとともに行ける「足」も根性もなく、
まあまあ日が出てから現地に到着したりしたものです。
それでも蓮の花はほんとうに美しくて
汗だくになりながら夢中で撮影しました。
最近は暑すぎて、撮りに行こうとも思わないけど
なんだか蓮のことを思っています。
蓮は泥のなかから出て美しい花を咲かすことから
仏教の教えを象徴する花といわれるとか。
「ブルーピリオド」の原作漫画について
先日の投稿ですこし書きましたが、
あれを読んで、表現ということをあらためて考えるようになって
いろんなイメージが脳内に浮ぶようになりました。
きのうInstagramのストーリーにアップしたのだけど
泥のなかで蓮を育てていた少女が(これは自分か?)
蕾を握りしめて、すこしだけ地上に顔を出している図。
こんな言葉が出てきて
自分で書きながら、なぜか思わずウルっときてしまいました。
そして、ここのところよく、
美大の求人に応募したときのことを思い出すのです。
そう短くはない年数、大学の非常勤職員として働いていたので
近くの美大に職員募集が出たときは、すぐに応募しようと思いました。
しかも、自分に合っていると思える部署でした。
書類選考はなんなく通り、面接にいきました。
前職の部署が、学生や時に職員の心身のサポートを主にすることが多かったので
どうしても受け答えがメンタルのほうに寄ってしまい、
それでご縁がなかったと思います。
じつは面接で初めてそのキャンパスにいったとき
なんだか違和感というか、心地よさを感じなかったので
もともとご縁はないようでしたが。
面接の最後のほうの受け答えで
「やっぱり表現には健全な心が大切だと思いますし・・・」
といったような発言を話の流れの中でして、
しながら「それは違う」と自分で思ってしまいました。
健全な心がなければ表現ができないわけじゃない、
むしろ、表現には闇が必要!
そう思ったのですね。
自分のなかの、どろどろとか、もやもやとか
いろいろなものから
それを形にして外に向って表現したい欲求が出てくる・・
むしろ、健全であるならなにかを出す必要はないかもしれない。
長年お世話になった方が
私のイタリア・アッシジの写真を見て
「苦しんでいる人の作品は好きですよ、祈りが入っているから」
といったようなことを言われたとき
そんなに苦しんでいないけど・・・と思った私は
自分の現状のことがよくわかっていなかったのでした。
でも、周波数が合う人ならば、写真からなにか感じるのかもしれません。
そして今、ふと思ったんですね。
なぜ蓮は泥のなかで育つのだろう。
泥の中にはなにがあるのか・・・
そもそも泥って汚いの?!
微生物とかいろいろ、いるのではないの?と。
それで調べてみたら
泥水の中で育ってるイメージだったけど、
蓮の育つ水はとても澄んでいてきれいだそう。
ただの水ならボウフラが沸いたり汚くなるところ、
蓮鉢のなかはビオトープのような環境が整えられているのだとか。
下の方の泥のなかには活発に活動する細菌や虫がいるのだそうです。
やっぱりそうだ。
汚く見えるようでいて、ちゃんと意味があるのだ。
そんなわけで、
もうすこし蓮が描きたい気がする、今日このごろです。
それにしても、暑いですね・・・・。