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【短編小説】 Here's to Life

若い頃から酒はバーボンのソーダ割が好きだったがここ最近はスコッチをロックで飲んでいる。
バーボンは髭、デニムに皮のブーツが似合う不良的なイメージ、スコッチは細身のスーツを着てクールに飲む雰囲気、世界観が気に入ってるんだ。
そんなこともこのバーのマスターに教えてもらった。いささか古い映画の受け売りのような気がするが。
一人でゆっくり酒を飲むときはこのバーで、それも日曜の夜と決めている。
煉瓦造りと外壁に灯る外灯、看板も何もない、まるでこのバーで飲むに値する者なのかどうか試されているようだ。
海が近くて時折船の汽笛が聞こえてくる港特有のこのバーは普段はそこそこお客が入っているが日曜の夜は静かだった。静かなところで一人で酒を飲むときはスコッチが美味い。
そもそもこのバーに来るようになったのは全くの偶然で知り合いの女性ジャズピアニストがここでソロピアノを弾いていたからだ。彼女は美しい女だった。
見た目がいい女だとしても最初の一音を聴いただけでげんなりすることは多々ある。
日本のジャズの世界、特に女性プレイヤー、ヴォーカリストは顔は美しいが演奏は今ひとつ、演奏は素晴らしいが見た目が今ひとつのどちらかに分かれるが彼女の場合は見た目も演奏も文句のつけようがないぐらい素晴らしかった。いくら演奏が素晴らしくても見た目が悪ければわざわざ聴きに(見に?)来てくれない。当たり前の話だがそれをわかってないまま人前で何かを表現しようとするやつが多すぎる。
彼女はその辺の素人に毛が生えたようなナルシストとは違い、まるでキース・ジャレットのような音色と、フランスの作曲家ラベルの影響が見られる現代的な解釈のオリジナル曲でCDを出していたが、この店ではセロニアス・モンクやマル・ウォルドロンの曲をブルージーに弾いていた。
オレは彼女の顔、ピアノのテクニック、音楽のセンス全てが気に入っていたが、その後彼女大きな夢を持ってニューヨークに行った。
彼女以上に気に入ったピアニストが見つからなかったんだろう、マスターはその日以来ここではレコードをかけるようになった。この今時珍しい「レコード」でジャズをかけるというのもマスターのこだわりなんだ。
だからと言ってこだわりが強いだけの偏屈なジャズバーの店主ではなく、彼のホスピタリティは非の打ち所がないものだった。
わざとらしい気遣いなどしない、出過ぎず引き過ぎず自然に人に接する態度は天性のものだ。
その時の店の雰囲気に合わせて選ぶ曲のセンス、つまり演出の素晴らしさも見事だった。その良さを良さと感じさせないホスピタリティ、気持ちよく店を出て幸せな気分、余韻のまま帰る。
いい音楽、場所、いいものには余韻がある。安いイタリアンレストランで食事をしてもワインでごまかされそこそこ美味しさを感じることができるかもしれないが、余韻はない。
このバーは余韻を感じたまま日常生活に戻っていける。マスター本人にそんな気持ちはないだろうがそこまでケアできる才能を持った人物だった。だからこそあれだけ才能あるあのピアニストもこのバーでソロを弾いていたんだ。

今宵は古いジャズのレコード、ビリー・ホリデイの「Don’t explain」が流れていて、レコードのプツッ、プツッと引っかかる音が、口紅をつけて帰ってきた彼に文句を言いつつもうまく言葉が見つけられずにいるビリー・ホリデーの心の叫びのように聞こえてくる。
「静かにして 何も言わないで。言い訳なんていらないのよ」

考えてみればここに通いだしてからずいぶん長い。
何か大きな出来事があるとき、あったときはいつもここで酒を飲んでいた。別にそうすることを決めたわけじゃなく自然にそうなったんだ。
仕事で極度のプレッシャーを感じそのスケジュールを考えているとき。
戦略を練っているとき。仕事がうまくいったとき。
重大な決断をしなければならないとき。
その決断の実現性、可能性がとてつもなく低く、全く自信が持てなくても自分を納得させるとき。
会社を辞める決断をして独立するとき。大きな契約が決まったときにこれから大きなことが始まる期待感、高揚感をクールダウンさせるため。
妻が亡くなった葬儀の日の夜。
出張で子供の運動会に参加できなかったとき。
あのときは自転車の後ろに乗せて走っている時に意を決して「出席できないよ」と言った。
娘はその場に降り向こうを向いてじっと寂しさに耐えていた。あのときは辛かったな。
次の日には帰ってきてくれたが。
親子喧嘩して子供が反抗し近所の知り合いのところに家出した時。オレがストレスに耐えかねて知り合いの飲み屋に飲みに行き夜中の3時ごろ帰ってきた時。ちゃんと戸締りをして待っててくれた。
本人が行きたかった中学に合格しやっと進学が決まったとき。
一緒に制服の採寸に行った時にいつもまにかこんなに大きくなったのか驚いたものだ。仕事で忙しく放っておいても子供は成長していくものだ。
留学で旅だった空港の帰り道のとき。あのときは家に帰って一人になる寂しに耐えられなかったが、このバーのおかげで眠りにつくことができた。
子供の就職がきまったとき。あの時のほっとした気持ちは今でも忘れられない。なにしろ片っ端から落ちていたからな。自分の人生で何か大きな仕事が片付いた気がした。
人生の中で絶対に忘れられないイベントがあったとき、辛いときも悲しいときもそして嬉しいときもいつもこのバーにいた。
そしてこのテーブルの傍にはにスコッチがあった。
オレは過去を振り返るなんて柄ではないが、たまにはそんな誰にも邪魔されずに過去を振り返る時があってもいい。この日もごく自然に昔を思い出していたんだ。

何かあっても自分からマスターに語ることなどしなかったし彼もあえて尋ねてこなかった。
彼はオレの表情、もっと言えばグラスの傾け方ひとつでオレの気持ちを察することができる。
良いことがあったのか、それとも良くない何かが起きたのか。
話したいことがあるのか、それとも黙っていたいのか。
話しかけた方がいいのか、静かにしていた方がいいのか。
わざわざ聞いてくるようなことは絶対にしない。
「何か聴きたい曲はありますか?」と聞いてくるだけだ。
特に聴きたい曲がなければ、つまりマスターに任せたいのならオレは静かに首を振るだけだ。

だが今宵は珍しくマスターは饒舌だった。オレもたわいもないことを話しながら笑った。
こんなに笑ったのは久しぶりでいい夜だった。
マスターはレコードをかけに行きシャーリー・ホーンのHere's to Lifeに針を落とした。
「おいおい、ちょっと出来すぎた演出じゃないか?
今日はオレの一人娘の結婚式だったってことがわかったのか?」
オレは心の中で呟き笑った。オレは幸せだった。とてもとても幸せだった。

何かあったときにはいつもどおりこのバーに来て、このマスターがここにいてくれたことにオレはとても感謝している。もちろんそんなこと口に出さない。
オレの気持ちが全てわかるようにマスターは笑っている。外の港から小さく聴こえてくる波の音も潮の香りも笑ってる。
これからの人生、何が起こるんだろう。今までのことは少しづつフェイドアウトし身体のどこかに静かに眠っていくだろう。そして新しい夢がフェイドインしてくる。
この先何が起こるか全くわからないが、何があってもオレは相変わらず日曜の夜、このバーでスコッチをロックで飲んでいるだろう。そのときマスターはどんなレコードをかけてくれるんだろう。どんな曲を聴かせてくれるんだろう。
オレは二杯目のスコッチのオンザロックを頼んだ時、また外から潮の香りと波の音が優しく流れてきた。

#いい時間とお酒

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