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『The Great Gatsby』

フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』とか『華麗なるギャツビー』など邦訳がいくつか出ているが、私は、大貫三郎訳(角川文庫)と村上春樹訳(中央公論社)を読んだ。
もちろん大貫訳を二十年ほど前に読んで「よくわからんなぁ」と、自分の理解力のなさを棚に上げたままにしていたが、三、四年前に村上春樹が満を持して新訳に挑んだというので、再び買い求めた。
しかしながら、気後れして「積読」になっていたものを、このほど新型コロナの蟄居生活で時間ができたので、開いてみることにした。

確かに、村上訳のほうが読みやすくなっている。大貫訳と併読してみてそう感じた。
村上氏が解説で書いているように、和訳した時点でフィッツジェラルドの流麗な英文の良さが半減してしまうのだそうだ。
やはり原文で読んでこそ「グレート・ギャツビー」の良さがわかるのだとおっしゃる。
映画にもなり、近いところではディカプリオ主演で公開されたのも記憶に新しい。

本作が発表されたのは1925年だという。
だから執筆されたのは1924年で、第一次世界大戦が終わって、六年ほどが経っていた。
アメリカはこのころ、投資の大衆化がおこり、「グレート・ギャツビー」の語り手、ニック・キャラウェイ(29歳)が証券会社に簡単に就職できたのもそういった時代背景があった。
第一次世界大戦(当時は単に「世界大戦」と呼んでいた)でアメリカは痛みを伴っていなかったので、特需に沸いて、空前の景気浮上があったわけだ。
世界的には赤化(共産主義の台頭)が勃興し、1920年ごろからアメリカでも「赤狩り」が実行されていたのである。
また、ギャツビーが財を成したとうわさされる「密造酒事件」は、カナダからスペリオル湖地峡部にパイプラインを敷いてウィスキーを米国側に流して密輸する「禁酒法破り」がモチーフになっている。
その時代背景は、銘酒「カナディアンクラブ」の歴史に詳しい。
※アメリカの禁酒法時代は1920~1933年をいう。

1929年10月の世界恐慌まで、アメリカの良い時代が続いた。そんな中での「グレート・ギャツビー」の物語だった。

この物語に出てくる人物はすべて「白人」であり、中西部出身で、東部ニューヨークにあこがれて出てきた成功者だった。
黒人のことは少ししか出てこない。
私はそこに違和感を覚えた。
ニック・キャラウェイのまたいとこのデイジー・ブキャナンの夫、トム・ブキャナンが最近読んでいる本としてゴッダードの『有色帝国の興隆』が紹介され、「白人はそのうち有色人種に隅に追いやられる」のだと言っているところぐらいだろうか?
もちろんこの書籍も著者も架空である。
「黄禍論(こうかろん)」が欧米で盛んに言われた時代でもあった。つまり黄色人種は人口が多く、そのうち白人を駆逐するだろうという、根も葉もない(いや、なかなか的を射ているかも)論調があったのだった。
「ダウン症」の発見者ダウン医師がこの病を「蒙古症(モンゴリズム)」と名付けたのは、コーカソイド(白人)よりも劣ったモンゴロイド(蒙古人種)の遺伝子が発現するからだと誤った推論をしたことも黄禍論と時を同じくしている。ダウン医師の推論は、モンゴロイドにも一定の本症例が見られることから否定されたのだが。

ところで、このころのアメリカでは、白人でも、「カトリックかプロテスタントか」や「どこ出身の移民」なのかが大事らしい。
アイルランド系、スコットランド系、イングランド系とユダヤ人、ドイツ系、イタリア系が確執を持っていた。


作品中で、ユダヤ系移民が独特のイントネーションの英語を話す場面がある。
ユダヤ人のミスター・ウルフシャイムが「コネクション」を「ゴネグション」と濁って言うところがそうだ。
かれはまた、「オックスフォード」を「オッグズフォード」なんて言うのだ。

物語のあらましを申し上げると、まっすぐな志(こころざし)を持つ青年、ニック・キャラウェイがひょんなことから高級住宅街の家を借りることになった。
それは、勤め先のニューヨークの証券会社に通うことになったから、通勤に便利な家を探していたからだ。
ニックはイェール大学を卒業し、小さな証券会社に職を得たばかりの二十九歳の青年だった。
その彼の借りた家の隣が、「ギャツビー」と呼ばれる男の邸宅だったのだ。
邸宅の庭では、頻繁に夜会が催され、名士、有名人はもとより、どこの「馬の骨」かわからない輩(やから)までが飲み食いするという盛大なもので、来る者を拒まない夜会だった。
主催者は当然、グレート・ギャツビーその人である。彼がなぜ頻繁に豪勢な夜会を催すのか?ちやほやされたいからか?お祭り騒ぎが好きなだけだからか?そんな薄っぺらい動機ではなく、もっと根深いものがあるのだが、物語の後半にならないと判明しない。
それよりも、ギャツビーがいかにしてかような豪奢な生活を送ることができるのか、人々はいろいろ噂をするものの、どれ一つとして根拠のある話はなかった。
ある人は「ギャツビーは人殺し」だと言うし、ある人は「莫大な遺産を相続したのだ」ともいう。
隣人のよしみでニックもその夜会に招かれ、享楽をともにする。
そこで女性プロゴルファーのジョーダン・ベイカーと再会するのだった。
実は、ベイカーとは、ニックのまたいとこのデイジー・ブキャナンの家で会っていたからだ。
意気投合した二人は、親しくなっていく。
当時、デイジーとその夫のトム・ブキャナンとの仲は冷めていた。
どうやらトムは、不倫をしているらしいのだ。
その相手は、マートルといい、車の修理業のウィルソンの妻だった。
トムとマートルの関係は物語の最後で、あっけなく終わりを告げることになるが。

この物語の重要な部分は、ギャツビーがどうして、この狭い海峡を挟んだ見晴らしのいい海岸べりの丘に居を構えたのか?
その視線の先に、対岸の住宅街がある。
そこにかつて愛を誓った女性がいたからだった。
その女性こそ、現在、夫婦仲の冷えているデイジー・ブキャナンだったのだ。
盛大な夜会も、いつかこの場所に、彼女がふらりと訪ねてくるのでは?と期待していたのではあるまいか?
ところがどうだ?ギャツビーの隣人に、偶然にも最愛の人の親戚(ニック)が住むことになったのだ。
ギャツビーとニックは次第に近づいていく。
ニックは好奇心で、ギャツビーはデイジーとの縒(よ)り戻しを期待して。


どうやらギャツビーは第一次世界大戦に出征したらしい。出征する前にデイジーと愛を誓っていたのだった。
しかし、戦争が終わっても、ギャツビーはデイジーの所に帰ってこなかったのである。
その間、彼は何をしていたのだろうか?
デイジーはしかたなくトム・ブキャナンと婚約し、ゴールインしてしまったが、トムはほかに女を作り二人は疎遠になりつつある。二人の間には三歳の女の子までいるのにである。
ギャツビーは忘れてはいなかった。なんとかデイジーの行方(ゆくえ)を追い、すでに人妻になって娘とともに暮らしている住まいを見つけたのだった。彼のできることは、彼女の暮らす家を見ながら生活していくことだった。


とうとう、ニックに渡りをつけてもらって、屋敷で再会を果たすのである。
デイジーとて、心の底ではギャツビーを待ち望んでいた。
ところが夫のトムがそれを知ることとなり、トムのデイジーへの支配欲(彼にとっては愛の表現)が炸裂し、ギャツビーを悪しざまに貶(おとし)める。
ギャツビーは、しかし、デイジーがもはやトムを愛していないと信じ、自分こそがデイジーを幸せにできるのだと引かない。
ギャツビーとデイジーとトムの三角関係の外にいるニックは、冷静にその成り行きを見定めることになる。

ギャツビーは、ニックに親しみを込めて頻繁に「オールド・スポート(Old sport)」と呼びかける。
これは、現代英語ではほぼ使わない、気取った、あるいは気障(きざ)な呼びかけらしい。
さしずめ「貴公」とか「おぬし」とかだろうか?
私なら「なあ、相棒」みたいな呼びかけがいいのでは?と思ったが、村上訳ではそのまま「オールド・スポート」だった。大貫訳では「ねえ君」と、さらりと訳されていた。

三角関係の当人たちに、ニックと、その女友達のプロゴルファー、ジョーダン・ベイカーを含めた五人が最後の方で、言い合うところから、物語は佳境に入る。
デイジーとギャツビーは二人でその場を飛び出し、ギャツビーの車で帰ってしまう。
ニックとジョーダンが、トムの運転する車で追いかける。
ウィルソン自動車工場の前で飛び出してきた、マートル・ウィルソンをギャツビーの車がはねてしまう。まんの悪いことに対向車線の車にもマートルはひかれ、無残な骸(むくろ)と化すのだった。
その後ろを走っていたニックたちの車は事故の瞬間を見定めていた。
亡くなったマートルはトムの不倫相手だったことは先に述べた。

ギャツビーがはねたのか?
なぜ止まらずにひき逃げしてしまったのか?
実は、ギャツビーの車を運転していたのはデイジーだったことが判明する。
この悲劇をどう理解したらいいのだろう?
目の前で妻をはね殺されたウィルソン氏は、ギャツビーの車を修理したことがあったので、ひき逃げ犯が彼だということを知っていた。
ギャツビーの車は大きく破損しているはずで、警察の捜査もすぐに及ぶだろう。

ウィルソン氏は、ギャツビーの屋敷に赴き、問いただそうとしたために彼に射殺され、ギャツビーも自ら死を選んでしまった。
こうして主を失ったギャツビー邸は荒れ放題に打ち捨てられてしまうのだった。
デイジーとトムは、縒りを戻して、北米中西部に逐電してしまい行方知れずとなる。
なんともやりきれない結末である。

さて、ニック・キャラウェイとジョーダン・ベイカーの仲はどうなったのだろう?
ジョーダンは、ニックから冷遇されたと思い、きっぱりとプロゴルフ界に戻って、別なパートナーと婚約までしてしまっていた。彼女は、これからの女性を象徴するかのようなインデペンデントな女なのだった。

この物語でニック・キャラウェイの存在はどういう意味を持つのだろうか?
謎に満ちたギャツビーの生い立ちを、彼自身に語らせ、それを聞く側としての役割、はたまたギャツビーとデイジーの逢瀬を取り持つ役割、そして、顛末の目撃者としての役割と、さまざま挙げられる。
その役割として、公平な立場で、自らはまっすぐな志(こころざし)を持つ若者であってほしいというのが作家フィッツジェラルドの構想なのだろう。
家柄もそこそこで、イェール大学を出ている好青年というニックの位置づけ。
お金持ちではないが、貧乏人でもない。お金にガツガツしていないし、女の子にうつつを抜かすような尻の座りの悪いところもない。
それどころか、女を見極める冷静なところもある。
一言で言えば「冷めている」男なのかもしれない。
実際は、ギャツビーのデイジーに対する思いに寄り添い、悪い噂の絶えない彼に信頼を寄せてもいた。
トムよりも、断然ギャツビーの肩を持ったニックである。
そのギャツビーが、そしてデイジーがしでかしたことは、ニックにとって信じがたいことだった。
何事もなかったかのように、事件がうやむやになり、物語の主人公たちはニックの前からことごとく去っていったのである。
それがニックの役割であるかのように。

私は、やはり、あまり面白いとは思わなかった。
どうして、これが「アメリカ文学史上最高の作品」とまで言われるのかわからないままだった。

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