疑うことの大切さ
私が「科学とは疑うことだ」と常々言っているのは、高校時代の化学の山本真理子先生の受け売りです。
もっとも彼女もどこかから引用していたのかもしれません。
原典はわたしもわかりませんが、一つ言えることは、歴史上の科学者たる者の姿勢がこの言葉に尽きるのではないか?と言うことです。
有名なガリレオ・ガリレイが若い頃におこなった「落体の実験」がありますが、それまで、アリストテレスが「重い物ほど早く落ちる」と言ってから、世間の人々はまったく疑わずに来たわけです。
しかし、若きガリレオは「待てよ、そんなことはないんじゃないか?」と疑いをさしはさんだのでした。
「じゃあ、どうしたら検証できるだろう?」
ガリレオの偉いところは、思考実験である程度の結論に達していたことです。
彼の頭の中では、直径が同じの十分に重い球とそれより軽い球を、しっかりとした棒でつないで「亜鈴」状にしたものを高い塔から水平に寝かせて落下させたら…と考えたようです。
アリストテレスの説によれば、「重い球は早く落ちようとするが、軽い球は遅く落ちようとする」のでガリレオの考えた連結された亜鈴なら、両者の球が引き合って中間の速さで落ちると予想されます。
一見、「そらそうやろ」と思わせる考えですが、おかしいんですよ。
騙されちゃいけません。
連結された球体は全体として重い方の球よりも軽い球が足されているから、さらに重くなっているんですよ。
アリストテレスの説なら、重い球よりももっと速く落ちるんじゃないですか?
ガリレオはそこを突いたんです。
そしてガリレオはさらに「落ちる速度に物体の重さはかんけーねぇ」と思ったに違いありません。
他に記録がないので推測ですが、「実験」というものを、はじめて公開でおこなったのがガリレオだったと言われています。
それがピサの斜塔における「落体の実験」だと言われていますが、弟子の創作話だとも言われています。
ガリレオが「疑った」アリストテレス以来の「常識」に物申す実験を、人々の耳目を集めてやったのです。
この話は、彼の著した『天文対話』だったか『新科学対話』に載っているはずです。
ガリレオがイタリアのピサの生まれで、ピサ大学に学び、そこで教鞭をとっていたことや、ピサには格好の「斜塔」がすでにあったことからそこで落体の実験をしたとすれば、面白い話になるだろうということかもしれません。
この「逸話」をもとに再現しますと、あの斜塔はだいたい50メートル以上あるらしいですが、そこから、重さの異なる鉛球と石球を用意して同時に塔頂付近から落としましたとさ。
すると、二つの球はほぼ同時に、ガリレオの予想通りに着地したそうです。
樫の木の木球と鉛球を同時に落としたときには、わずかに鉛球のほうが先に着地したらしいが、それは空気抵抗を受けて軽い木球が後から落ちたのだろうとガリレオはそこまで言い当てているんですね。
ガリレオの「疑う心」は、その後に、神学者が頑(かたく)なに唱える「天動説」にも向けられ、宗教裁判にかけられ有罪判決を受けても「それでも(地球は)動いている」と言わしめたのでした。
昔は常識に疑いさしはさむことが命にかかわることもあったのです。
今では、疑うことは自由だ。
むしろ疑わないことが罪であると私などは思うのです。
あなたの目の前の現象は、真実ですか?
誰かに言われて信じているだけじゃないですか?
めんどくさいから、そう思っているだけじゃないですか?
一度、疑ってみてください。
新しい景色が見えてくるはずです。
疑って、やはり自分の方が間違っていたということもあります(そのほうが多いか…)。
それでもいいじゃないですか。
自分の知識の補強ができて。
知らぬは一生の恥とも言いますから。
(工博:高分子化学 横山尚子、ポルノ作家)
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