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映画『旅するローマ教皇』

映画『旅するローマ教皇』を観ました。
2013年のイタリア・ランペドゥーサ島から2022年のマルタ共和国まで、37回の旅で53カ国を訪れたローマ教皇に密着したドキュメンタリーです。
難民問題や紛争が絶えない地域(中東やアフリカ等)では苦しむ人々に寄り添い、北米・南米で平和について語り、イスラム教を国教とするアラブ首長国連邦や、被爆国である日本も訪問。
BGMやナレーションを排し、800時間に及ぶアーカイブ映像などを編集して仕上げられた本作。「旅とは知的で精神的な修行」と捉えているという教皇の姿を淡々と映し出していきます。

映画『旅するローマ教皇』ポスター

冒頭に語られる「無関心のグローバル化」、「見過ごす権利はないのです」とのキーワードが全編を貫き、終盤の「『カインの手』を制すると共に我らの兄弟である彼(カイン)をお救いください」という深い祈りの言葉に結実しています。

※カインとは
カインとアベルは、旧訳聖書『創世記』第4章に登場する兄弟で、人類最初の殺人の加害者と被害者。神が作った最初の人類であるアダムとイヴの息子たちで兄がカイン、弟がアベルである。
カインは農耕、アベルは羊の放牧をして暮らしていた。ある日2人は各々の収穫物を神に捧げる。カインは農作物、アベルは羊の初子を捧げたが、神はアベルの供物に目を留めカインの供物には目を留めなかった。これを恨んだカインは、野原にアベルを誘い出して殺害。
神にアベルの行方を問われたカインは「知りません。私は弟の番人なのですか?」と答える。しかし、大地に流されたアベルの血は神に向かって自らの死を訴えた。カインはこの罪により、エデンの東にあるノドに追放された。


白い衣をなびかせて世界中を旅して回り、集まる人々に祝福を与え、祈り、平和を説き、夢見ることの大切さを訴える…
時折垣間見える、飾らない明るいお人柄もチャーミングです。

映画の中で特に印象に残ったことが3点。
一つは、聖職者の性犯罪問題に関しての自身の失言や、北米先住民に対するかつての同化政策について、率直に謝罪をしていたことです。
どこかの島国の政治屋とは異なり、「誤解を与えたとすれば遺憾」とかいう謝罪になっていない謝罪ではなく、率直に誤りを認めて真摯に謝っている姿に感銘を受けました。
二つめは、ロシア正教の聖職者や、イスラム教の指導者など、立場の大きく異なる相手ともしっかり向き合う態度です。
そして三つめ。広島の平和記念公園で黙祷を捧げる場面、エルドアン大統領(トルコ)との面会など、沈黙が雄弁な場面がいくつかありました。


今回の投稿の頭に乗せた画像は、フランシスコ教皇の写真を使った2021年のカレンダーの一枚です。
素敵な写真なのでおすそ分けを♪

それにしても、なぜ日本での呼称は「教皇」に統一されたのでしょうね?
「教皇」というと、「聖下」とか「猊下」とかの尊称がつく、若干尊大?な響きがするのに対して、「法王」は「法王さま」とか「パパさま」と親しみを込めて呼べる印象があります。
あくまで個人的な感覚ですが…。

何はともあれ、いい映画でした。


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