日常を生きる。
「eriさん、月が綺麗ですねぇ」
夕食後薬が設置されているカウンターボックスの裏手にある、小窓のレースカーテンを開くと、ちょうど私たちを覗き込んだ控えめな灯りが届いている。
「本当だね」
私は、配薬ボックスから手を離し、3つ歳下の後輩ナースの華ちゃんと、しばし月を眺めていた。私達は夜勤のペアで、16時間を共に過ごす相棒だ。
「綺麗ですねぇ」
彼女が口を開くだけで時間軸が緩むし、甘ったるい声は、柔らかな肌の素材の良さを際立たせるナチュラルメイクだ。
「月が先に置いてあったのか、夜が先に置いてあったのか…どっちだと思う、華ちゃん」
今夜は満月だ。高く見下ろされたはずの私達は、夜の始まりを知ることもなく、時間だけを刻んでいて、照らされる灯りに思わず手を止めた。目の前の仕事に追われると、夜の終わりも、朝の始まりも気が付かないことがある。無機質な時計はだだ、真っ白に塗りたくられた壁と同じで、病院という異質は患者をせん妄へと誘う。1日に何度も点滴の滴下を秒針の流れと共に確認しているはずなのに、時の流れは小さな盤面の中でしか進まない。内緒話のような、華ちゃんの柔らかな声は、私の忙しない心を宥めてくれる、飴玉のようで、舌の上で転がすと柔らかい刺激のサイダーが溢れ出すようで、ぱちぱちと心を揺らす。
「月はずっと置いてあると思いますよ。空は後から追いかけてきただけ」そういうと、彼女は目尻を少しだけ下げて、笑みをその場に残して、「看護婦さーん」と呼ぶ、患者のもとへくるりと小さな背中を私に向けて、駆けていった。肩からぶら下がるショルダー型のアルコールのハンドジェルは、彼女の柔らかな足音と共に、左右にぴょこぴょこと揺れながら腰元に落ち着いている。可愛いなぁ。私は、彼女の暖かな春を纏う雰囲気が、とても好きだ。
内服薬のカセッターが空になっていることを確認して、そっとカーテンと窓を開けて、夜の風を浴びた。夜を感じるひとときは、平等に時を進める当たり前を、部屋の中に引き入れて、月明かりの余韻は、私の心を満たしていった。
私達は異質な世界を棲家とせざる得ない患者の治療に携わり、治療が終わると追い出すように、新しい患者を招き入れ、名前と顔と疾患名を転々と風のように見送り続けている。
「eriさーん、ちょっといいです?」
「ん?」
私は窓から離れて華ちゃんの声を探す。患者の部屋からひょこっと彼女は顔を出して手招きしている姿を確認して私は足を早める。
「あー、刺し替えだね」
患者の点滴針は、針先の皮膚をほのかに桃色に変えて、液漏れを起こしている。このまま放っておくと静脈炎になるし、脆くて細くて硬い血管は静かに死んでいく。
「もう、刺すところないんですよねぇ」
「んー、なくは、ないかな。やってみようか」
私は、患者の前腕をひょいとひっくり返し、駆血帯を巻くと、太く盛り上がる血管を見つけ、22Gのサーフロー針をすっと浅めの角度で進めていった。血液の逆流はあるし、滴下も問題ない。クレンメを調節しながら、60速を目視し、華ちゃんに目をやる。
「入ったねぇ」
「入りましたなぁ」
私たちは、そんなふうに、お互いに笑みをこぼしながら、視線を交わすハイタッチをする。「じゃ、ラウンドしてくる、なんかあったら声かけて」
「承知」華ちゃんは敬礼し、患者の耳元で、「ご協力感謝です」と、声をかけた。
時々カタカタっと、窓からの風は院内をすり抜けていき、日常の夜は走り抜けていく。
首元から下げたリッドマンの聴診器は、私の結えて垂れ下がった髪の毛を控えめにこすりながらカシャンカシャンと揺れる。
患者のラウンドとは別に、私のPCには、管理者からくる直メールで溢れていたことを思い出し、両腕を天井高く上げて少しだけ伸びをした。
「さ、やりますか」私は、私にだけ聞こえる独り言を体に染み込ませた。周りからかけられる期待と、膨れ上がった仕事を処理する生活に少しだけ頭痛がした。耳鳴りのように、遠くでモニターのアラーム音が鳴る。私は進んでいた方向と真逆のステーションに、小走りに走る。進んでいるのか、止まっているのか、戻っているのか。私は時の進め方に、酷く悩んでいた。「華ちゃん、アプニア出てる、ちょっと見てきて」「はーい」私達は、月を眺めていたことをはるか昨日の事のように思いながら、目の前の仕事をする。今日も、そんな日常を噛み締める。
そんな風に16時間という長い勤務を終えると、「eriコーヒー飲んで行かない?」と、茜さんに声をかけられる。華ちゃんは、「お疲れちゃんです、eriさんまた」と、ふわふわのコートを着込んで、颯爽と帰っていった。9時に仕事が終わるのに、9時9分発の電車に乗ると豪語して。駅までの道のりは、どんなに急いでも15分はかかるのに。のんびり屋さんの彼女のいく末を想像すると、少しだけ笑いが込み上げてくる。
そしてまた、朝がやってきた。私と茜さんは華ちゃんの向かう駅と同じ方角に、のんびりと足を伸ばした。
「インドの屋台は、人生のあり方を表す台所だと思っていて」茜さんは静かに話し出す。夜勤明けの午前9時20分をすぎた頃、私は、茜さんとコメダ珈琲店で、ミックストーストをシェアしていた。香ばしい焼き色は、レタスに卵にきゅうりに、ハムに、主役を譲り渡すようで、私の嚥下を不安定にさせたし、ブレンドコーヒーは初めからその味に調和していたし、席に座る客たちはモーニングという時を当たり前に過ごしていたし、同調の正しさは、橙色のライトの中に存在していた。
「思い出を流す程度」それが彼らの皿の洗い方だと言う。通行人の多く通る路地で、屋台を建て、flyだらけの食材を持ち、その場でとったオーダーを一つ一つ丁寧に調理していく。バケツに溜まった薄茶色の謎の水に、使用した皿をドボンとつけると、皿は白さを取り戻し、また、同じように注文を受けると、その皿の上にさらりと盛り付けていく。
「薄汚れた水で皿を洗うように、過ぎ去る事実のような、こびりついた汚れは、案外周りには見えてないの。」インド旅行を趣味にする茜さんの話はいつだって新鮮で興味深い。白く透き通った肌質と、皺もなく艶を纏う彼女は、50歳という年齢を感じさせない、誰よりも生き生きとした美しさを持つ、異国情緒溢れる風貌を持ち合わせている。
「eriはそのまんまでいいのよ」ことんと、茜さんはカフェオレを置いて、私をまっすぐと見つめた。前触れもなく、茜さんは、話し続ける。
「あなたはずっと、あなたのまんま。周りが変わってしまったの。あなたが、そうさせたの。その変化は、決して悪いものではなくて、いい風をあなたがここに入れてくれたと言う紛れもない事実。」
インドの台所は、自らの信念を曲げない強さを持っていると言う。毎日を楽しく、自分の思うように進めていく自由さが、インドを旅する醍醐味で、自らを否定することなく受け入れる、風土を持ち合わせているようだ。私達のテーブルのトーストの破片が少しだけ残った、白くてツルツルの清潔感のあるお皿が目を引く。
茜さんは、スマホを取り出して、インドで食べたクレープを私に見せてくる。「チョコのクレープを頼んだのよ、そしたら、ちょっと待てって、インド人の店主は、私を随分と待たせたわ。一枚だけの板チョコを隣の隣のお店から買ってきて、私のためだけの一回きりのチョコのクレープを作ってくれた。日本人は真面目よね。たくさんのストックを持って、どんな状況にも対応できる食材と知識をもち備えてる。私はいいなぁって思ったの。目の前のことにだけ、真摯に向き合って、一回きりのクレープを作ることに。不安や、先の心配は、その時に考えればいいじゃない。チョコが手に入らなかったらどうするのか聞いたら、別のものを作ればいいって、店主は笑ってた。
eri、肩の力抜きなさいよ。でもね、自分の価値を理解しなさい。あなたが変わる必要はない。それでも、あなたは自分の価値を安売りしてはいけない。仕事も、男も。なに?全然わかってない顔してるわね!」
私たちは、もう一度コーヒーとカフェオレをおかわりして、しばらくインドの台所事情に会話の花を咲かせた。
茜さんは5日後から、乳がんの抗がん剤治療を受け始める。このままでいいのか、周りの期待を背負って、私はもう押しつぶされそうだった。長い長い夜も、朝も、何度も繰り返して、私は長いこと不眠という恐怖と闘っていた。眠くない。眠れない時間はそれでも毎日淡々と日を跨いで行って、倦怠感と隈は、私の体を新たな棲家にしたようだった。
人間が同じ人間を視るという現実を解放したくて、それでも、私には看護の道しかなくて、これからの長すぎる人生を一人で歩んでいく恐怖しかなくて、目を背けることもできなくて、澱んだ気持ちを塗り重ねながら、日々を過ごしていた。
「お皿は濁った水でも洗えるの。それは、思い出をほんの少し残しながら、上っ面だけ綺麗になれば、たった一枚のクレープに彩りをつけてくれるの」茜さんは、残りのカフェオレを飲み切って、最近オレという商品が喫茶店から消えていくと愚痴をこぼしていた。
私は、華ちゃんのことを思った。もうとっくに自立してあるはずなのに、私を頼るそぶりを見せる優しさに。私は茜さんの顔を見た。逃げることができない自らの病を持ち合わせながら、目の前にいる私、に時間を割いてくれる懐の深さに。
「待ってるね」私は茜さんに言った。抗がん剤治療が落ち着いたら、彼女はまた働きたいと笑っていたから。
「私たちの仕事は尊いよ。eriは特に。自分の天職を手放してはならないよ。eriの優しさは、才能だよ」
外に出ると、満月はもうとっくに消えて無くなっていて、薄い雲と青空が広がっていた。それでも、昨日の淡い月灯りの残像は、私の瞼の奥を照らしていた。
「月はずっと置いてあると思いますよ。空は後から追いかけてきただけ」
あるものを、目の前のことだけを大切に生きていく。空は、不安は後から追いかけてくるけれど、目の前の優しさを心に留める努力を、私は怠ってきたのかもしれない。私はJRの駅の改札にスマホをタッチして、いつもの家路につく。そんな他愛もないシンプルな毎日を、ただ過ごしていく。そうして、日常の幸せを噛み締めながら、カタンカタンと揺れる電車に身を任せて、私は、静かに瞼を閉じて、眠るふりをした。