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変えられないものを受け入れるというある種の強さ

ーやればなんでもできる

学校生活になじむのが得意で、それなりに上手くやってきたものだから、何となくそう思っていた。自分の意思さえあれば、周りは応援してくれると。

でも、人生そういうわけにいかないこともあるのだと気付かせてくれた中2の秋。


学校の自然体験学習で登山に来ていた。
当時、私は摂食障害(拒食)の影響で体力がなかった。
でも、自分ではそんな自覚はなくて、
登山当日の朝、青少年の家で食べた朝食ではご飯をおかわりして、
「たくさん食べて山登るぞ〜!」と気合い十分だった。

クラスごとに宿から歩いていき、
登山口が見えて「さあここから」と意気込んだ時だった。
クラス担任兼部活の顧問でもあった先生が、私の目をまっすぐ見て言った。
「〇〇さん、もうここまで」
目の前がさーっと暗くなっていくようだった。

なんで?どうして?ここからが本番だよ?
私いっぱい朝ごはん食べてきて体力あるよ?

声には出せなかったけれど、頭の中では必死に抵抗していた。

でも、先生は登山口を塞ぐかのように立って、
涙目で私を見つめながら「もうこれ以上はだめ」と言った。
私は、突然登山ができなくなったことへのショックと混乱で、
涙が止まらなかった。

先生は他の生徒も見なければいけないので、登山口の先へと進んでいった。しばらくして、まだ登山口の前で泣きじゃくる私の隣にそっと座って声をかけてくれたのが学年主任の先生だった。
「諦めることが必要な時もあるんだ」
「心と身体はつながっている」

頭がパニックになっていて、先生の言葉を詳細に覚えていないことが悔やまれる。ただ、確かにこんなことは伝えてくれていた。

「頑張って登山をする」という行動は、決して不良行為のような道理から外れたことではなく、むしろ褒めて後押ししてくれるものだろう。
当時の私自身もそう思っていたし、そのような時は必ず周りの人が「いいよ、頑張って!」と応援してくれていた。
だからこそこの時、頑張ろうとしている自分を止める人間がいることを理解できなかった。

どうしたってその時は「登山ができない(行うのが危険)」という事実は変わらなかった。今考えれば、きっと事前に先生と親が話し合って決めていたのだろう。
しかし、その「できない事実を認める/受け入れる」ことが、この病気を治療していく第一歩であり、それを乗り越える=「できない事実」を受け入れることができれば、それはやがてひとつの強さとなるのだろう。


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