紫式部の言語学
本棚に眠っていた岩波新書『日本語をさかのぼる』という本を読み直しました。大野晋さんという著名な言語学者の書いた本です。
内容は万葉仮名の分析とそれが奈良時代、平安時代、江戸時代、現代と時代の流れに従ってどのように変化していったか事例を調べ、日本人の信仰と幸福感を考察するというものです。
先ず心を引かれたのは、識字率の低かった奈良時代、平安時代の表現と理解について。
「およそ今日の人間は、皆文字を読む。だから、文字に頼って言語を考えようとしがちである。しかし、文字という文化的な手段は、人類史的に考えればごく最近に広まったにすぎない。今でこそ日本は99%以上の識字人口を持っているが、奈良時代、平安時代などの識字人口は、極めて少なかったに相違ない。文字を知らない人々にとって、言語とは、全く発音だけが頼りの表現と理解の手段である。それゆえ、古代の日本語については、文字、ことに漢字から全く離れて、語の問題を考えなければならない。」(pp. 89-90)
この文章が書かれてから50年を経た現代、みんなが本を読まなくなり、音声や動画や音楽でコミュニケーションを持ちたがる状況を見ると、現代人の感性は奈良時代や平安時代の人々の感性に先祖返りしているのではないかと感じるのです。
大野氏は紫式部の『源氏物語』を、現存する平安女流文学の中で和文の文章として最高の達成度を遂げた文章であると評価しています。
当時、男性たちは漢文を読み、漢文が書けるようになろうと心を砕いていました。「それが男の自由な心にとって、先ず第一の重圧でなかったはずはない」と大野氏は言います。そして、その努力の限界を厳しく指摘します。
「仏典を読み、儒学を学び、作詩に巧みであると言われ得たとしても、所詮それは外国語の学習である。母国語のように自由をあやつるのみならず、進んで中国語に対して新しい表現の工夫を加えるというようなことは困難であった。して見ればそれは結局物まねの域を出ない。しかもその程度の実力であるにすぎないのに、日本では知識ある人として遇される。… 模倣によって身につけた、とらわれた物の見方で、日本の自分たちの相を見ても、そこからはすぐれた創造の生まれ出ることはあり得ない。」(80ページ)
一方、当時の女性に対しては、従来の観点とは違い、男性に比べて有利で、自由であったと言います。
「『源氏物語』の時代には、むしろ女性は有利な位置にいた。当時は、女性は財産の相続権を持っていた。結婚にあたって婿取りの儀式をする場合でも、その費用は女性の方が出した。…そして、女たちは、漢字文化に毒されずにいることができた。…物の見方、感じ方は、女の社会の方がはるかに自由で、ことの真実の良くみえる立場にいた。」
「ただ、宮廷における女房は、権勢ある貴族たちの中に立ちまじって、その男の中の一人が、あるいは自分を気に入り、愛し、大切にしてくれるかもしれないという、さだかならぬ期待と不安の中で生きていた。そうした女の行く末を凝視できるようになった女自身が、その女の運命を客観化、つまり文字化して、たしかな形を与えたのが『源氏物語』である。」
「もとより、それは、ひとりの才能豊かな女の出現によらなければ実現されなかったに相違ないが、女の運命の客観化にあたって、女である作者[紫式部]は、借り物の外国語によらず、生れたときから聞いていた母親の言葉、母語を精錬することによってそれを形象化した。」
(以上、80 – 81ページ)
この後、大野氏は自説を『源氏物語』の語彙と文体を丁寧に紹介・分析して裏付けています。
言語学、特に国語学のできることって、こんなに深いんですね。
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