子どもとアートを巡る冒険/「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」展は、未来の鑑賞者たちを育てる場となりえていたか?
【⑥】未来の鑑賞者を育てる場所。国立西洋美術館は確かにその機能と使命を持っていると思う。国立だし。
けれど、「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか」展の目的は、そこじゃなかったと確信する。
この企画展の受益者は存命アーティストや現代アートを解する人に相当に絞られていた。だったら集客ターゲットも絞って、もっとクローズドな場に振り切れば、もっと濃密な内容、もっと難解な言語で、もっと利益を最大化できたかもしれない。
けれどここは「美術振興のナショナルセンター」を標榜する国立美術館だ。「多様な鑑賞機会の提供」が求められている。(ただし一般公衆への教育目的を前提とした博物館法が定める登録博物館ではない。この矛盾にはさまざまな議論やすり合わせも行われてきたが、ここで踏み込む必要性も、知識もない)
「多様な」という言葉は、強迫観念ではない。必ずしもすべての企画がいつでもあらゆる人にオープンでなければならない、という意味ではないだろう。ディズニーランドのように、料金が高額化したり変動したりできる幅や、対象者を限定した企画もあっていいと思う。一方で子どもや、鑑賞にハードルのある人々がアートの楽しさに触れられる環境整備にも、今以上に取り組んでほしい。
私は今回、「展示室にキッズスペースがあれば…!」と何度思ったか分からない。けれどルーブル美術館だって、名画の近くに遊具を置いている訳ではない。なのにミュージアムと子どもたちとの近さが感じられるのは、キッズスペースの有/無という即物的な要因よりも、文化と生活、教育の密着度合いの違いなのだろう。
↓最近、大好きな「子供のための『はじめての美術館』」さんの記事
子連れが、もう少し居心地よく美術鑑賞したいなら、当然ながら自助努力も必要だ。既存のファミリー向けサービスを使ったり、公共の場でのルールを弁えさせたり、それができないなら抱っこ紐やベビーカーで制御したり。できれば周囲の方も、できるだけ温かく見守ってくださると嬉しい。できることから少しずつ。ありきたりだけれど、結局そういうことなんだと思う。
↓1000円からできる寄付サイトの存在は今回の記事を書きながら知った。環境を変えるには、こういう方法もある。
こんなのもあった。みんなの3Dロダン…?!達成率はちょっと不安だけど、寄付集めはどんどんやったらいい。
最後に、お土産について。いつもの企画展だと、レジに長蛇の列ができるほど賑わう臨時のミュージアムショップが、今回はめちゃくちゃスペースが小さかった(!)。見た限り、作品の絵葉書も売っておらず、図録を買う気力も懐の余裕もなかったので、企画展の戦利品はなし。展示の写真も撮らなかったから、記憶しか残っていない。だから、少なくともここに書き残せて、自己満足ではあるけれど、よかったと思っている。
企画展に直接関係ないけれど、鑑賞し終わった直後ですっかり「現代アート」と「子連れ」の壁の厚さに打ちのめされていた私が、常設のショップで買ったのが以下。
現代アートって誰でもできそうだ。子どもでも描けそうな絵がなんでそんなに凄いの?そんな問いにドンピシャで応えてくれそうな右の本。中身を見ると19世紀末から現代まで100人100作品が解説されていて、ビジュアル的に読みやすいように工夫されているがなんとも理屈ぽく、現代アートは基本的にコンセプチュアルアートなのだと分かる。作家の意図や時代背景が分かると、やはり見る目が変わって面白い。この点、近代の「読む絵画」と楽しみ方は同じだ。
左は出産した友人へのギフトに。これは理屈抜きで面白く、赤ちゃんも不思議がってくれるかな?終始、「アートと子ども」について考えさせられた日だった。
ところで、行くかどうか迷っているうちに、国立新美術館のマティス展(2月14日〜5月27日)に行き損ねた。昨年の東京都美術館での回顧展が相当によかったし、切り絵やロザリオ礼拝堂についても限定的とはいえ、秀逸な展示があったから、改めて切り絵にフォーカスした今回の展覧会は、いいかなあ…という思いもあった。平日は仕事を休むのが難しいため、混雑する週末に再び子連れで行くことへのためらいもあった。
会期が終わってしまうと猛烈に悔やまれて、せめてと思ってAERAの特集号を買った。ニース市マティス美術館などから重要な作品が多数出展していて、素晴らしい内容だったことが分かる。展示では恐らく見切れなかったディテールや解説もじっくり堪能できたから、改めて紙媒体の良さも思い知った。
振り返ると展覧会に行かなかったのは、切り絵だからと侮る気持ちもどこかにあった。老体のマティスが筆を取れない「代わりに」ハサミを取ったのだろうと。
それこそ、切り絵は子どもにも身近な遊びだ。精神を病んだ高村千恵子が切り絵で才能を開花させたことも知られている。どちらかというと、遊びやセラピーのイメージがあった(それはそれで非常に大事な効能であることは言うまでもない)。マティスにとっても最初はそうだったかもしれない。けれど、代表作〈ブルーヌードlV〉に至るまでのマティスの模索の軌跡をたどると、心の奥底にあった切り絵への侮りが、ぶちのめされる衝撃を受けた。
ページを開けば、花が花を超えて鮮やかに咲き乱れる。具象で表現できない抽象画の凄みを目の当たりにする。保育園で作っている切り絵と同じだと思った娘が気安く近寄ってきて、目を見開く。5歳の子にできそうでできない芸術がここにある。
子どもとアートを巡るとき、その時間は鑑賞の楽しみを奪われたという後悔に覆われてしまったとしても、そのネガティブさがエンジンとなって、価値を再発見する振り返りの旅に駆り立ててくれる。この反動的なモチベーションは、子どもが成長するにつれて薄まってしまうのだろう。そのとき、もっと自律的にアートや自分と向き合わなければならない。
いつか来るそんな日を、少し恐れ、楽しみにしながら、子連れアートの冒険を続けていきたい。ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。