蜻蛉日記の話④ 藤原兼家という男


義父、師輔の死/帝と藤原北家/菅原道真の怨霊/孝行息子の譲位/兼家の姉、安子/ナチュラルボーン権力者/兼家の挫折/章明親王との贈答/催馬楽『夏引』/二、三人どころの話じゃない/九条殿の女御殿の御方/有職故実/小野宮流と九条流/源高明と愛宮/村上天皇の崩御/冷泉天皇包囲網/朱雀天皇の忘形見/皇太弟問題/登子との交流/安和の変/蜻蛉日記の政治性/伊尹独走体制/次男兼通/最後の除目/寛和の変/藤原道綱/愛と命を賭けたロマンティック大冒険/



【以下文字起こし】

さて、蜻蛉日記解説の第4回です。前回は、町の小路の女に関する記事を辿っていって、彼女が零落した後も、結局兼家の寵愛は、道綱母へは戻らなかったこと。そしてそれを憂えた彼女が、凄まじい規模の長歌を作成して兼家を圧倒したこと、などについて話しましたね。

あのあたりのやり取りをしていた時期って、元号で言うと天徳と応和の間くらいのことで、まぁ大体西暦960年ごろなんですけど、実はこのタイミングにおいて、政治の表舞台ではとても大きな動きがありました。それは何かっていうと、とある重要人物が死んだんですよ。時の右大臣、藤原師輔。兼家の父親にあたる人物です。

ここで一度、当時に至るまでの政治状況や人間関係を整理しておきましょう。平安前期における天皇家と藤原氏のつながりっていうのが大事なんですが、まず、平安京に遷都した桓武天皇の息子である嵯峨天皇って人が、非常に影響力の強い、重要人物だったんですね。彼と結びついたのが、藤原北家という家系の冬嗣という男でした。冬嗣の息子である藤原良房は承和の変という政変を起こし、自身の甥っ子である文徳天皇を帝位につけます。この文徳天皇は良房の娘を后としますので、生まれた息子、つまり良房からすると孫に当たる男の子が、清和天皇という次の帝になりました。

この清和天皇という人は文学史的に結構な重要人物でして、『伊勢物語』にでてくるヒロインのモデルと目される女性、藤原高子は、清和天皇に入内するんですよ。しかし、良房の後継者にして高子の兄でも合った藤原基経は、妹が産んだ陽成天皇を廃し、新たに光孝天皇という、文徳天皇の兄弟にあたる人物を帝に立て、そこから宇多天皇、醍醐天皇と続いて、これが菅原道真の仕えた帝にあたります。

この説明、さらっと流しているので意味不明だと思うんですけど、今話したあたりの時代については、以前、伊勢物語の話と、それの前振りとして語った菅原道真の話で詳しく時間を割いています。もし興味があったら、そちらを聞いてみてください。

逆に、菅原道真の話を聞いてくれた人は、あれの最後の方を思い出してもらえるといいのですが、彼の晩年って、藤原基経の息子である時平と醍醐天皇がタッグ組んだ若手チームと、道真を重用しまくってる宇多上皇との対立構造みたいなものができてたんですよね。その結果として昌泰の変が起こって道真は流され、醍醐天皇と時平の時代が訪れます。

時平は妹を入内させていました。穏やかな子と書いて「おんし」あるいは「やすこ」と呼ばれる女性です。彼女は男の子をたくさん産んで一族を喜ばせたのですが、残念ながら時平は甥っ子が帝になるのを目撃することなく39歳の若さで世をさります。

後を継いで政治の中枢を握ったのは、時平の弟にあたる、忠平という人物です。忠義心の忠に平で忠平。以後、長年にわたって、忠平と穏子の二人が影響力を振るう時代が続きます。

穏子が産んだ最初の皇子は保明(やすあきら)親王という皇太子だったのですが、彼は即位の日を迎える前に21歳の若さで世をさりました。遺された彼の息子が次の皇太子となりましたが、この子もまた、5歳という幼さで薨御します。

ここでちょっと面白いのは、相次ぐ不幸を受けた当時の人々が、「これって菅原道真の祟りじゃない?」って騒ぎ始めたことですね。この後、帝の暮らす清涼殿に落雷が直撃して死者が出る、という大事件が発生するんですけど、これもまた道真の怨霊と結びつけて受け取られました。ショックを受けた醍醐天皇は病に伏し、そのまま崩御してしまいます。

位を譲られたのは穏子が産んだ二人目の皇子で、これを朱雀天皇と言います。わずか8歳で即位することになったこの幼帝は気の毒な人で、在位中、ろくな目に合っていません。

承平天慶の乱、という大反乱が起こってしまうんですよね、この時代。「平将門の乱」っていう、学校で習って名前は知ってるけどいつ起きたことなのか全然覚えていないイベントが、皆さんの耳や頭に残ってると思うんですけど、あれです。関東で起こったあれと、藤原純友の乱っていう瀬戸内海の辺りで起こった反乱を二つ合わせて「承平天慶の乱」と言います。これ、当時の貴族たちにとっては、本当に恐ろしいことだったんですよ。おまけにこの頃は天変地異も多く、心労ばかり味わって、朱雀天皇は24歳の若さで位を下ります。そうして新たに即位したのが、彼の弟だった村上天皇です。

この譲位は、うーん、どういう事情だったんでしょうね。歴史物語である『大鏡』には、孝行息子だった朱雀帝が、母親のために譲位したエピソードが収められています。どういうことかっていうと、朱雀帝が帝として穏子のもとを尋ねたときに、彼女がいうんですね。こうやって帝の位についていらっしゃるあなたのお姿を見ることができて私は満足です、と。そして、次は、皇太子になっているあなたの弟が即位した姿を見てみたいものです、と、彼女は言った。穏子って、結構な高齢出産で、朱雀帝や村上天皇を産んでるんですよね。だからまぁ、こういう台詞も確かに言いそうではある。そしたらそれを聞いた朱雀帝は、そうか、お母様は弟が帝になった姿を見たいんだな、だったら早く譲位しよ、っということで、さっさと位を下りてしまった。それを知った穏子はびっくりして、いやそういうつもりじゃなくて、もっともっと未来の話として言ったのに、と嘆いた。ってエピソードなんですけど、まぁ、これは多分嘘でしょうね。いくらなんでも愚かすぎるから。でも、なにかしら政治的な意図を持って、母親である穏子が退位を唆したという可能性は、あったかもしれない。

朱雀帝という人はどうやら病弱だったらしく、退位した後、30歳の若さで崩御しています。当時の貴族たちは、ほとんど誰も、彼のところに娘を入内させていません。見込みのない、中継ぎ天皇だってことが、結構早い段階で決まっていたのかもしれませんね。

さて、ここまで大丈夫でしょうか。平安時代の前期には、藤原冬嗣、良房、基経、という血筋が、天皇家と深く結びついて権力を振るってきました。そして今度は、その基経の子どもである時平、忠平、穏子が醍醐天皇と結びつき、穏子の息子である朱雀帝と村上帝の時代を迎えます。

当然、摂政関白として政治を担うのは穏子の兄である忠平だったわけですが、彼、村上天皇が即位した頃にはもう70歳近い高齢だったので、まもなく引退しちゃうんですね。そして彼の息子である実頼と師輔が、それぞれ左大臣右大臣として次の権力者となりました。

真実の実に頼るで「さねより」。師匠の師に車編の輔で「もろすけ」。ここで大事なのは、忠平の嫡男は実頼の方だったということです。母親が違うんですね。師輔の方は、源能有(よしあり)っていう、菅原道真とか藤原時平と一緒に政治捌いてた有能な人物の娘から生まれています。ちなみにこの能有さんは文徳天皇の息子です。

一方実頼は、宇多天皇の娘から生まれた人物だと言われています。おまけに長男だったから、父親が死んだ後は、彼が藤原氏の氏長者となりました。

ところがここで、この時代特有の逆転現象が起こる。帝への入内合戦で実頼は敗れるんですね。師輔は安らかな子と書いて安子(あんし)と呼ばれる娘を村上天皇に入内させて、最終的に三人の皇子を得ました。一方、実頼の娘だった述子(じゅっし)は子どもを産めないまま亡くなってしまう。

彼女が世をさったのは天暦元年、西暦でいうと947年のことです。その3年後に、師輔の娘であり、兼家の姉でもある安子が皇子を産みます。彼は生後わずか2ヶ月で皇太子となりました。のちの冷泉天皇です。この瞬間、実頼と師輔の力関係は逆転したと言ってよいでしょう。天暦4年。西暦950年のことです。

この四年後の天暦8年に、道綱母と兼家は結婚しました。当時藤原師輔の一族に仲間入りするということが、どれほど意味の大きな出来事だったか、改めて実感してもらえると幸いです。死んだ関白太政大臣の忠平の孫。左大臣実頼の甥で、右大臣師輔の息子。それに加えて、皇太子の叔父さんだったんですよ、兼家って。

こういう立場で生まれ育った男なら、あぁいう感じの大人になるのもわかるなぁって、ちょっと思いますよね。若い頃の兼家って、ナチュラルボーン権力者なんですよ。

ところが、960年に師輔が死んだことで、彼は生まれて初めて挫折を経験することになります。

少納言の、年経て、四つの品になりぬれば、殿上もおりて、司召に、いとねぢけたるものの大輔など言はれぬれば、世の中を、いと疎ましげにて、ここかしこ通ふよりほかの歩きなどもなければ、いとのどかにて、二三日などあり。

これ蜻蛉日記の記述なんですけど、何の話してるかっていうと、兼家の官職が変わったっていうんですね。もともとは小納言だったんですけど、そこから「いとねぢけたるものの大輔」になってしまったらしい。「ねぢけたる」というのは、兼家の様子に対する周囲の評価です。彼、兵部大輔っていう官職をもらったんですけど、それが気に入らなくて捻くれてしまったっていうんですよ。

この辺りの感覚、ちょっと難しいですね。兵部省っていう役所は軍事を司る部署なんですけど、そこのトップである兵部卿っていうのはこのとき皇族の章明(のりあきら)親王って人が勤めていましたから、その次官である兵部大輔というのは、実務上のトップだった。だからまぁ、そうめちゃくちゃ悪い職ではありません。この時代において兵部大輔っていうのは有名無実な閑職だったっていう指摘もあったりはするんですけど、少なくとも、位の高さ的には、そう不自然な人事でもないように思われます。

ただ、兼家って若い頃は、侍従とか少納言を務めていたんですよね。侍従っていうのは「侍り従う」って字の通り、帝の側に仕える仕事で、少納言もそれと関連するポストだったらしい。だから侍従とか少納言だったときの兼家っていうのは、殿上して帝の側で働いていたんですよ。おまけに、時の帝である村上天皇と兼家はわずか二歳差でした。帝の側で共に青年期を過ごすこと10年。兼家が33歳の年に父である師輔が世を去り、その二年後に彼は兵部大輔となりました。

改めて読み返してみると、蜻蛉日記の記述に、「殿上も降りて」と明記されていたのは、重要なことのように思われます。彼はそれまでずっと、当たり前のように殿上の間に登って、帝と同じ空間で過ごしてきたわけですけど、このタイミングで、その立場を失うんですね。だからこそ、彼は「いとねぢけたるものの大輔」になってしまったのではないか、という指摘があって、なるほど、そうかもしれないなぁ、と思わされました。

兼家ってこの時期、自分の庇護者を立て続けに失っているんですよ。村上天皇のお母さんだった藤原穏子は兼家からするとおじいちゃんの兄妹あたるわけですけど、彼女は兼家のことを結構可愛がっていた様子で、自身の権限を利用して、若い兼家に従五位下、という位をプレゼントしています。

その穏子も、師輔が死ぬ数年前に薨去している。彼女が死んで、お父さんが死んで、帝のそばも離れて、俺の人生これからどうなるんだ? って感覚が、この頃の兼家にはあったかもしれません。

ここで皮肉というか、面白いのは、蜻蛉日記に、

世の中を、いと疎ましげにて、ここかしこ通ふよりほかの歩きなどもなければ、いとのどかにて、二三日などあり。

と書いてあることですね。人事異動が気に食わなくて、世の中厭になっちゃった兼家は、あんまり外を出歩かなくなって、道綱母とのんびり二、三日過ごしたといいます。これが多分、彼女は結構嬉しかった。他の女のところに通うことが絶えたわけじゃないんですよ。よその女の影は相変わらずチラつく。チラつくんだけど、それでもやっぱり、人生全体の中では幸福な時期だったんだと思います。そうじゃなかったら、「いとのどかにて」って表現はでない。つまりこれ、兼家が貴族として、政治家としてうまくいっていない時の方が、道綱母は個人的幸福度が高かったってことで、なんというか、人生ままならないですよね。

これは別に、ただ兼家とのんびり一緒にいられたことだけを指して言ってるわけではなくて、実はこの後、彼女って凄まじい体験をするんですよ。兼家と結婚し、かつ、その兼家が兵部大輔って立場をある種の挫折と捉えたからこそ起こり得た幸運が、彼女の人生に降り注ぐ。

それは何かっていうと、皇族との交流です。章明親王から和歌が届くんですよ、この後。憶えてますか、章明親王。さっきちょっと話題に出た、兵部省における兼家の上司にあたる人です。兼家がいじけて引きこもってるもんだから、彼気を遣って手紙を寄越すんですね。せっかく同じ職場になれたのに、どうしてあなたは絶えて現れないのでしょうか、みたいな歌をわざわざ作って。それを彼女は、兼家と一緒に読んでいる。

で、当然受け取った和歌に対して兼家が返事を書くんですけど、そこにはおそらく、道綱母のサポートが入ってるんですよきっと。兼家一人で作ったんじゃなくて、彼女と相談しながら歌を返したはず。だからこのあたりの蜻蛉日記の記述は、一見するとただ、章明親王と兼家が延々和歌のやり取りしてるだけみたいに見えるんですけど、それって実際のところ、間接的に彼女と親王が和歌の贈答をしたって記録なんです。

これがねー、彼女は本当に嬉しかったんだと思う。とんでもない誉れだった。だって、もし兼家に見初められなければ、絶対に起こり得なかったことですからね、こんなことは。

おまけに、多分、このとき彼女はとびきり楽しかった。章明親王という人は、どうやら気の利いた風流人だったらしく、兼家の傍に彼女がいることをわかった上で、面白がって手紙送ってきてるんですよ。つまり、向こうも最初っから、兼家を間に挟んで道綱母と贈答する気満々で仕掛けてきている。お手並み拝見といったところです。

こういう事実から逆算することで、ああやっぱり彼女って、当時から歌人として評判高かったんだなってことがわかりますね。例えば、親王からこんな歌が届いている。

夏引のいとことわりや ふためみめ よりありくまにほどのふるかも

これ、詳しい説明をしだすと長いので省くんですが、要するに、二、三人の妻の元を歩き回ってるせいで時間がなくなって、私のところへ出仕できないんですね、みたいなことを言っています。これに対する兼家の返しが次の歌です。

七ばかりありもこそすれ夏引のいとまやはなきひとめふために

どちらの歌も「夏引」という言葉を共有していることに気づくはずです。当時、和歌とは別に「催馬楽」という歌謡が存在しまして、その中の一作品として、「夏引」っていうのがあったんですね。
これどういう歌詞かっていうと、女が男を誘うんですよ。この夏作った新しい糸が七ばかりあります。これで衣を織ってあげるから、あなた、今の奥さんと別れて私のものになってよ。とね。

章明親王がこの催馬楽を前提にした歌を送ってきたことがまず挑発的で面白いし、それに対する返しも面白い。返歌が何言ってるかっていいますと、「夏引」の糸とおんなじで、七ばかり、つまり七人くらいの女性と私は関係を持っています。だからそんな、一人二人の女性の相手で余裕を失ったりはしませんよ、みたいなことを言っている。

これをね、道綱母が一緒になって作ってるから面白いわけですよ。章明親王は、兼家のことだから二、三人の女性を股にかけて忙しくしてるんでしょうね、と言ってきたわけですけど、それに対する彼女のアンサーは「二、三人どころの話じゃない」だった。兼家は苦笑したでしょうね、こういう歌で返しましょうって提案されたとき。

裏を返すと、そういう冗談を言えるような境地に、この頃の彼女は達していた、ということでもあります。町の小路の女に対する兼家の寵愛が終わり、それでも戻ってこない愛情を憂えて長歌作ってたりしたあの頃から、4年ほどの月日が経過しました。良くも悪くも、兼家という男との付き合い方に慣れてきた感がある。

このあとも、章明親王との贈答は何度か繰り返されまして、蜻蛉日記上巻の中で結構な字数を占めます。このやりとりの裏に、道綱母と兼家の微妙な距離感があるのだと思うとなかなか面白いので、興味が湧いたらぜひ読んでみてください。

さて、ここで改めて、蜻蛉日記という作品の特徴を指摘しておきたいのですが、今回の章明親王との贈答に代表されるような、高貴な人間との交流というのが、しばしば描かれます。それは兼家のパートナーという立場になったからこそ、そういう人生だったからこそ体験できた人間関係なので、ある種の自慢というか、彼女自身が純粋に誇らしくて嬉しかったから書き残しておいた面も確かにあるでしょう。

しかし根本的な動機として、そういう、書くに値する特別なトピックを記録するのが日記の役割だ、という意識も、おそらくあったはずです。これは蜻蛉日記解説の第一回、かな? でも言いましたよね。当時男性貴族の日記っていうものは、後の人々の参考になるような情報を書き残すためのものでしたから。

加えて、蜻蛉日記におけるこうした交流の記録が、藤原兼家という男の表の人生、すなわち、貴族社会における政治の動向と、それに伴う兼家の立場の変化に対して、かなり密接な連動を見せているということもまた、多くの研究者が指摘するところです。

章明親王との贈答もそうですよね。あれは兼家が兵部大輔になったっていう、ある種の政治的挫折と連動した出来事でした。兼家にとっては挫折の時期なんだが、彼女にとっては、歌人として、そして兼家を愛する女性として、ある種小気味良い体験だった。

ここがね、蜻蛉日記という作品の、一つとても面白いところで、この作品を読むと、大政治家である藤原兼家の波瀾万丈な人生を、裏側から覗くことができるんですよ。その覗き窓となるのが、高貴な人々との和歌贈答の記録でした。今回はこの話がしたい。

もう一つ例をあげてみましょう。

康保4年、つまり、兼家が兵部大輔になってから五年後のことなのですが、この年に彼女は、「九条殿の女御殿の御方」と交流しています。これ誰かって言いますと、藤原師輔の娘、兼家の妹に当たる怤子という女性です。

ここで、少し遠回りさせてください。さっき、冬嗣から兼家に至るまでの藤原氏の系譜を説明したわけですが、彼のおじいちゃんに当たる忠平が、一つ重要な仕事を貴族社会に残したんですね。それが「有職故実」です。

今まで何度か話してきましたが、貴族社会って「先例」がめちゃくちゃ大切なんですよ。古くからの習わしね。こういう儀式の時はこういう格好をして、こういう道具を使って、こういう風に作法守って振る舞う、ってことを、古い先例に従って正しく守れる人が立派な貴族とされていた。この大事な大事な先例を体系的に整理したものが「有職故実」です。

そして、この有職故実を整えた代表的な人物が藤原忠平でした。彼は自分の息子である実頼と師輔に知識を受け継ぐのですが、そこから実頼が自分の子孫に伝えていった作法と、師輔が自分の子孫に伝えていった作法が、微妙に異なるんですね。実頼の一族が伝える有職故実を小野宮流、師輔の一族が伝える有職故実を九条流と呼びます。この九条とか小野宮とかいうのは、当時彼らが住んでいた邸宅の名前に由来する呼称でして、そのまま、実頼の一族を小野宮家、師輔の一族を九条家、と呼んだりもします。だから、蜻蛉日記に「九条殿の女御殿の御方」と書いてあったら、あぁこれ師輔の娘だなってことがわかる。

ちなみに、当たり前の話ですが忠平の子孫以外の貴族たちの中にも有職故実に精通した人物は存在して、この時代でいえば、源高明という人が名高い識者でした。彼は醍醐天皇の息子で、臣籍降下したのち、博学有能な貴族として大臣の位までのぼります。西の宮の記録と書いて「西宮記(さいぐうき)」とか「さいきゅうき、せいきゅうき」と呼ばれる有職故実の伝授書があるのですが、これを書いたのが高明です。

彼は同じく有職故実に通じる者として、藤原実頼と師輔の双方と親しくしています。両方の娘を娶ってるんですよ、高明は。特に師輔は、嫁がせた一人目の娘が死んでしまった後、わざわざもう一人別の娘を嫁がせることで、高明とのつながりを維持しています。この娘は、愛情の愛に宮と書いて愛宮(あいみや、あるいはあいのみや)と呼ばれます。

こうやって話していると、師輔の娘がやたらたくさん出てきますよね。逆にいうと、この大勢の娘たちが、師輔やその子孫である兼家たちの権力を支えていた。村上天皇に入内した安子、源高明に嫁いだ愛宮、そして、今回蜻蛉日記に登場した「九条殿の女御殿」こと怤子は、当時、時の東宮憲平親王に嫁いでいました。日本国憲法の「憲」に平で「憲平」。彼はのちに「冷泉天皇」となる人物です。だから、怤子は「九条殿の女御殿」と書かれるんですね。後の天皇に嫁いでいるから。

ここ、ちょっと奇妙に思う人がいるかもしれません。憲平親王は東宮、すなわち皇太子ですから、村上天皇の息子です。安子と村上天皇の息子なんですよ。だから怤子は、自分の姉の子供に嫁いだことになる。現代人の感覚からするとこういうの変な感じするかもしれないんですけど、当時はよくありましたね。まぁ、かなり年の離れた妹だったんでしょう、怤子は。

で、この怤子に対して道綱母が突然手紙を送っている。なんでいきなり?って話なんですけど、これにはちゃんと文脈があって、この年、兼家は東宮亮という官職についてるんですよ。これはその名の通り、東宮の側近的な仕事です。

つまり、兼家が東宮と親密な立場へ登ったタイミングに、それぞれのパートナーである女性同士でも交流があったってことなんですよ。当然、手引きしたのは兼家でしょう。道綱母という女性は生まれそこそこの家柄ですけど抜群に和歌ができたから、歌を贈答することによる社交ができるんですね、こういうとき。

ちなみに、今回に限って言えば、彼女は自分から和歌を詠んだわけじゃなくて、とある面白いプレゼントに手紙を添える形で交流をスタートさせています。それがね、雁の卵を糸で括って十個重ねたものなんですよ。雁って、あの、渡り鳥の雁ね。あの雁の卵を、割らないように頑張って糸で繋ぐ。そういう物を作る遊びが当時はやってたらしい。結構神経使う難しい作業だと思うんですけど、彼女は手慰みにこれを作って、せっかくだから手紙を添えて怤子に送ったという。するとね、向こうから歌が送られてきて、道綱母もそれに返歌を返す、という贈答が成立した。

繰り返しになりますが、こうした女性陣のやり取りは、おそらく兼家が望んでお膳立てしたものでした。彼はこの時期、このタイミングにそれが必要だと思った。なぜか。それは、蜻蛉日記が次の記事で書いている内容を読めば、薄々察することができます。

五月にもなりぬ。十余日(じゅうよひ)に、内裏(うち)の御薬のことありて、ののしるほどもなくて、二十余日(にじゅうよひ)のほどに、かくれさせたまひぬ。東宮、すなはち、代はりゐさせたまふ。

これ、意味わかりますか。先ほど道綱母が怤子と交流したのは3月ごろのことだったんですが、そこから二ヶ月経った5月に、村上天皇が崩御したと書いています。そして、東宮だった憲平親王が即位した、と。

後から振り返って歴史を見つめた時、これは決定的な瞬間でした。父師輔が死に、一時は不本意な官職に甘んじていた兼家が、やがて権謀術数を駆使して出世街道を上り詰めていく、その第一歩がこの代替わりだった。波乱の幕開けと、言い換えてもいい。

状況を整理しましょう。

新たに18歳で即位した憲平親王こと冷泉天皇は村上天皇と藤原安子の間に生まれた息子です。この安子は師輔の娘だから、兼家にとって冷泉天皇は姉の息子にあたります。加えて冷泉天皇は同じく師輔の娘である怤子と、師輔の長男である伊尹の娘を女御にしますから、兼家にとっては、姉の息子であると同時に妹の夫、姪っ子の夫ということにもなる。そして兼家自身、東宮亮として代替わり前からこの新しい帝の側近を務めていました。

こうやって整理してみると、冷泉天皇という帝が、師輔の子孫たちによって包囲されていることがわかります。一方、師輔の兄である実頼は冷泉帝との間に一切の姻戚関係を持っていません。一族最年長の彼が一応は関白を務めますが、その権力は弱々しいものでした。

関白太政大臣が藤原実頼。左大臣は先ほど紹介した源高明。そして師輔の嫡男にして兼家の兄である藤原伊尹が右大臣を務める、というのが、冷泉天皇即位後の人事配置です。

兼家自身はどういう立場にあったかというと、冷泉天皇即位後蔵人頭に任命され、東宮時代から引き続き、帝の側近としての立場を我がものにしています。

このタイミングで彼は、自身の前半生で獲得した政治的なカードを初めて一枚切りました。時姫との間に生まれていた長女を冷泉天皇に入内させたのです。怤子と道綱母の交流といい、自身の娘の入内といい、当時の兼家はひたすら冷泉天皇に接近しようとしています。

しかし、こうやって取り囲んだ冷泉天皇と師輔一族の関係も実は全然盤石ではなくて、次に述べる2点において、兼家たちは当時大きな不安を抱えていました。

一つ。冷泉天皇には、師輔や伊尹の娘以外に有力な后がいたこと。それは誰かというと、朱雀天皇の一人娘、昌子内親王です。日曜日の「日」を大小二つ重ねた文字に子供の子で「しょうし」あるいは「まさこ」内親王と呼びます。

先ほど話したように朱雀帝は30歳の若さで世を去るんですが、彼の弟である村上天皇が忘形見の昌子を保護養育し、皇太子だった憲平親王、後の冷泉帝に入内させていました。当然、冷泉天皇の妻の中で、彼女が最も尊重されるべき存在です。

だから兼家の妹とか姪とか娘とかがどれだけこぞって入内したとしても、この昌子内親王が皇子を産んで仕舞えば、外戚政治の道は絶たれてしまいます。これが、当時兼家たちの抱えていたリスクの一つ目です。

じゃあ二つ目は何かっていうと、それは安子の不在です。師輔の娘、兼家の姉にして冷泉天皇の母だった安子は、村上天皇が崩御する3年ほど前に崩御しています。ちなみにこれは、師輔の死から4年後のことでもあります。

外戚政治ってね、摂政や関白を務める男たちの方ばかりをついつい注目しがちですけど、実際のところ、帝の近くで日々を過ごしてその動向に影響を与えるのは母親なんですよ。だからそのポジションに立つはずだった安子の早死には、兼家たち兄弟にとって計算外の損失だった。

これ、冷静に考えてみるとめちゃくちゃ面白いことで、村上天皇の視点から、安子が亡くなった後の朝廷を眺めてみてほしいんですよ。

まず、皇太子は亡き安子が産んだ憲平親王に決まっています。のちの冷泉天皇ですね。未来の皇后としては昌子内親王が入内していますが、彼女の後ろ盾になるはずの朱雀天皇はとっくの昔に世を去っており、おまけに、彼女は一人も兄弟姉妹がいません。もし村上天皇が死んでしまったら、誰も頼る宛がない。

そんな昌子より先に皇子を産んでやろうと、師輔の一族から何人も娘が入内している。この先どう転ぶかわからない、非常に不安定な領域です。

しかも、師輔自身はすでに亡くなっており、権力を掴もうと頑張っているのは彼の子供世代の若造たちでした。おまけに安子まで崩御したとなると、九条流と憲平親王の結びつきっていうのは、それだけで政権をつかめるほど強固なものではなかった。

じゃあ現在氏長者を務めている藤原実頼が権力者の器かって問われるとそれも微妙で、彼は娘が少なかったせいで、次期天皇である憲平親王との姻戚関係を一切結べていませんでした。

つまりこれ、とんでもなくカオスで、誰が有利なのかもよくわかんない歪な権力構造が繰り広げられてるってことなんですよ。この状況をね、村上天皇の立場になって眼差してみてほしい。これ、わしが死んだらどうなるの?って、心配になりません?

村上天皇が崩御する前、若い憲平親王にはまだ皇子がいませんでしたから、彼が即位した後は皇太弟を立てることになると、村上天皇は考えたはずです。意味わかりますか? 次期天皇は憲平親王こと冷泉天皇だけど、彼にはまだ息子がいないから、皇太子を立てることができない。そのため、憲平親王の弟に当たる人物を皇太弟として次期天皇に立てる必要があるわけです。ちょうど、朱雀天皇の弟だった村上天皇が皇太弟になったのと同じ構図ですね。

憲平親王には同じく安子を母に持つ弟が二人いました。次男が為平親王。三男が守平親王といいます。順番で言えば、次男の為平親王を皇太弟として立てることになる。

するとどういうことが起こるかっていうと、皇太子だった憲平親王に誰が入内するかが重要だったのと同じように、皇太弟となる為平親王に誰が嫁ぐのかってことが問題となってきます。

為平親王は安子が死んだ後に元服するんですが、不思議なことに、当時の藤原氏一同は誰も娘を嫁がせませんでした。さっきも言ったように、当時はめちゃくちゃ微妙なパワーバランスのもとに貴族社会が運営されていましたから、相互に牽制しあって誰も手が出せなかったのかもしれない。

そこで登場するのが、今回何度か名前の出ている源高明です。有職故実に詳しく、師輔の娘を妻にしていた人物ですね。為平親王は、この高明の娘を娶ることになりました。

これはねー、高明自身が野心を持ってやったことだという人もいるし、村上天皇が困った末に差配したことだという人もいますね。

いずれにせよ、この結婚は状況をさらにややこしくしました。ここ本当に複雑で、勉強してて難しかったんですが、頑張って、いくつか場合分けしながら考えてみましょう。

もし、村上天皇がまだまだ長生きして、譲位することもなく、その間に憲平親王の息子が生まれたとしたら。のちに即位した冷泉天皇は、自分の息子を皇太子に立てることになるでしょう。

しかしこのルートには、誰が憲平親王の皇子を産むのか? という問題があります。それは師輔の娘かもしれないし、伊尹の娘や、兼家の娘かもしれない。ここには、藤原北家九条流内部での闘争が勃発する余地があります。その一方で立場的、あるいは血筋的に最有力なのは昌子内親王ですよね。朱雀天皇の娘ですから。ただし彼女が皇子を産んだ場合、後ろ盾になってくれるのは村上天皇しかいません。これもまた不安の種です。

加えて、憲平天皇って病弱だったんですよね。だから下手をしたら、彼は皇子を残せないまま世をさる可能性すらあった。

では逆に、村上天皇がさっさと譲位した場合どうなるか。まだ息子がいない冷泉帝が即位し、皇太弟として為平親王が立つことになります。為平親王の外戚は源高明ですから、冷泉帝が退位した後は彼の時代が来るでしょう。加えて、高明の娘が皇子を産んだ場合、冷泉帝の血筋と為平親王の血筋でどちらが今後の皇統を継いでいくか、という問題が発生する可能性もある。こうした流れの中で、藤原氏がどこまで権力の座に食い込めるかは不透明です。

このどっちに転んでも波乱が起きそうな政治状況の中、村上天皇が在位のまま崩御する。これはね、「在位のまま」というところが大問題でした。つまり彼は、「冷泉帝に譲位して為平親王を皇太弟に立てる」という構想を、実行する前に他界してしまったわけです。

するとどうなるか。憲平親王が村上天皇の皇太子であることは揺らぎませんから、彼が冷泉天皇として跡を継ぎます。しかし、為平親王を皇太弟として立てるかどうかについては、未だ決定事項ではありません。ここに政争の余地がある。

結果からお伝えしましょう。為平親王は皇太弟に指名されず、彼の弟、つまり安子が産んだ三番目の皇子である守平親王が、冷泉帝の即位から三ヶ月以上経った9月1日に立太子されました。

このあまりに不自然な路線変更を誰が主導したかについては研究者の中でも諸説あって、明言することができません。しかしまぁ一般的には、藤原氏が源高明の権力を恐れ、押さえ込もうとして行ったことだと理解されています。

このあたり本当にややこしくて、たとえば『栄花物語』っていう歴史物語があるんですけど、そこには村上天皇が死ぬ前に、為平親王ではなく守平親王を皇太弟とするように認めたエピソードが描かれています。でも、これは事実と異なる可能性がありますね。村上天皇の許可のもとで守平親王が皇太弟に立てられたのか、彼の死後、何か陰謀があって皇太弟が交代したのか、という違いなんですが、残っている資料にはそれを書いた人々の意図が含まれてしまうので、色々と判断が難しい。まぁ実際のところ、死ぬ前に譲位していない時点で、後継者問題について村上天皇を自由にさせない圧力みたいなものは、何らかの形で働いていたことでしょう。

いずれにせよ、ここでにわかに、守平親王という人物が重要になってきます。そして彼って実は、蜻蛉日記にも登場しているんですよ。

さっき、道綱母が、雁の卵を10個繋げたやつを怤子にプレゼントしたってエピソードを紹介したじゃないですか。実は、あそこの記述の末尾に、「五の宮になむ奉れたまふと聞く」と書いてあるんですよ。怤子様は私が送った卵を五の宮様に差し上げなさったと聞きます、って内容なんですが、この「五の宮」というのが守平親王のことです。彼は安子の産んだ皇子の中では三男ですが、村上天皇の息子全体で見れば5番目の子供でした。

守平親王は冷泉天皇や為平親王とは結構年が離れていて、母親である安子が世をさった時、まだたったの5歳だったんですよね。そんな彼を保護養育したのは、安子の妹である登子という女性でした。登山とか登下校の「登」に子供の子で「とうし」です。当然彼女は、兼家の妹でもあります。

この登子って女性と道綱母がね、めちゃくちゃ仲良いんですよ。登子はもともと、村上天皇の腹違いの兄である重明親王って人に嫁いでたんですけど、この親王と安子が死んでしまってからは、村上天皇に寵愛を受けながら、母親代わりとして守平親王を養育していました。だから登子にとっても村上天皇の崩御はかなりショックだったはずで、それを慮った道綱母は、さぞお嘆きのことでしょう、という旨の和歌を即座に送っています。

その後も二人の交流は続くんですが、同じ年の11月、だから、村上天皇が崩御し、守平親王が立太子した直後くらいのタイミングで、蜻蛉日記は次のような面白い記述を残しています。

かかる世に、中将にや三位にやなど、喜びをしきりたる人は、「所々なる、いと障り繁ければ、悪しきを、近うさりぬべき所いできたり」とて、渡して、乗物なきほどに、はひ渡るほどなれば、人は、「思ふやうなり」と思ふべかめり。十一月なかのほどなり。

これ何言ってるかっていいますと、村上天皇が崩御して、いろんな人々が嘆き悲しんでいる世の中において、兼家は出世して嬉しいことばかり続いてるっていうんですよ。ちなみにこの頃、彼は三位中将だけじゃなく、蔵人頭として冷泉帝の側近をやりながら、同時に、春宮権亮として守平親王にも近しいポストを占めています。

そんな彼が、道綱母に次のような話をした。「私とあなたで住んでいるところが別々なのは不便なので、私の邸宅の近くにふさわしい家を見つけましたよ」とね。で、実際引っ越してみると、乗り物に乗らなくても行き来できるくらいすぐそばの立地だった。

これ、普通に考えたら、道綱母がめちゃくちゃ喜びそうなイベントですよね。なのにそういう感情は一切書かれていなくって、逆に、私がこれで満足してると兼家は思っているようです、という冷ややかな一文が残されています。なぜか。それは、この引越しの後に起こったことを読めばわかります。

十二月つごもりがたに、貞観殿の御方、この西なる方にまかでたまへり。

貞観殿というのは、先ほど紹介した登子のことを指します。つまり、道綱母が引っ越した邸宅で、登子も一緒に暮らすことになったっていうんですよ。だから道綱母は、あぁそういうことかって理解して、その瞬間には喜んでたのかもしれないけど、少なくとも後から振り返って書いてる日記には、一切嬉しそうな感情を書かなかった。

これどういうことかっていうとね、守平親王が立太子したことで、その母親がわりである登子の政治的な影響力も大きくなってるんですよ。そんな彼女と、自身の身内である道綱母を引き合わせて結び付けたいって意図が、この引越しの裏側に透けて見えるわけです。別に愛情が理由で近くに呼び寄せたわけじゃなくて、政治的な駆け引きの一環としてやってるんだなってことが、道綱母もわかった。なのに兼家は、「どーだねわしの近くにこられて満足だろう?」みたいな顔してるもんだから、日記の文章も白けた感じにならざるを得ない。

このあたりの傲慢さとか策謀家っぷりが、いかにも藤原兼家って感じで、面白いんですよね。ちなみにこのあと、登子との濃密な交流が描かれたところで、蜻蛉日記上巻は幕を閉じます。

では、話を政治の表舞台に戻しましょう。

冷泉帝の次の皇太弟が守平親王になった。それだけでも、もともと皇太弟候補だった為平親王や、その外戚である源高明からするとショックだったと思うんですけど、さらに追い打ちをかけるような事件が、村上天皇の死から2年後に起きました。その年の元号を取り、これを「安和の変」といいます。

安和の変については、以前源氏物語解説の第一回でも話したことがありますね。結論から言うと、流されちゃうんですよ、高明が、太宰府に。変な噂が広まるんですね。高明が今の朝廷を転覆させようと目論んでるぞ、みたいな。そこで治安維持組織である検非違使が高明の邸宅を包囲して、逮捕、左遷に至ったと。

当然この事件は、皇太弟問題とセットで藤原氏による策謀だと解釈されるわけですが、考えてみるとこれは、天をも恐れぬ思い切った所業と言えます。

思い出してみてください。村上天皇の父親である醍醐天皇が死んだのはどういう経緯でしたか? 彼が太宰府へ左遷した菅原道真の怨霊が、彼の子孫を相次いで早死にさせ、あまつさえ落雷まで起こしたと、騒ぎになったからでしょう?

それとほとんど同じことを、この時の朝廷はやっている。よもや、道真や醍醐天皇のことを忘れたはずはないでしょう。それでもやった。この、おそれを知らぬ行動力は、のちに更なる政変を引き起こします。

では、ここで一旦、蜻蛉日記に目を向けてみましょう。

「あいなし」と思ふまでいみじう悲しく、心もとなき身だに、かく思ひ知りたる人は、袖を濡らさぬといふたぐひなし。あまたの御子どもも、あやしき国々の空になりつつ、行く方も知らず、散り散り別れたまふ。あるは、御髪おろしなど、すべて言へばおろかにいみじ。大臣も法師になりたまひにけれど、しひて帥になし奉りて、追ひくだし奉る。そのころほひ、ただこのことにて過ぎぬ。身の上をのみする日記には入るまじきことなれども、「悲し」と思ひ入りしも、誰ならねば、記し置くなり。

高明が流されたと知って、道綱母はひどく悲しんだといいます。自分みたいな人間でさえそうなのだから、このことについて詳しく事情を知っている人は一人残らず涙に袖を濡らす有様だ、とも書いている。

この書き振りからしても、高明の左遷は無実だ、という当時の認識が窺われますね。でもそうだとすると、兼家や道綱母は世間的に一体どういう立場だったんだ? という疑問が残ります。

さっきから何度も言っているように、今回の一連の政変について、首謀者が誰なのかは定かになっていません。ですが、時の天皇の蔵人頭で、皇太弟の春宮権亮だった兼家が、一切無関係のはずはないでしょう。

ところが蜻蛉日記の記述は、兼家について一切触れず、ひたすら高明の不遇を嘆きます。彼の子供たちは散り散りになり、高明自身も出家までして無欲を示したが許されず、無理やり九州へ追放されてしまった。本当は、自分の身の上に関することだけ書くはずの日記だけれど、「悲しい」と心底思ったのは他ならぬ私自身だから、こうして書き記しておきます。とね。

じゃあ兼家のことは一体いつ書かれるのかと言うと、この次の記事に、物忌で山寺に籠ってる様子が描かれます。彼が寂しがって心細そうな手紙をよこすものだから、道綱母はその身を案じるような和歌を送り、兼家もその想いに応えるような歌を返した。以上。それだけ。まるで、今回の政変に対する兼家の関与からわざと目を逸らすような書き振りです。

と、言ってしまうと、私の説明も恣意的になってしまうんですが、このあたりの蜻蛉日記の記述は、道綱母なりの政治として機能しているんじゃないか、という指摘があります。

源高明と兼家たちって、かなり密接なつながりがあったんですよ。さっきも話しましたが、高明は師輔の娘を二人も娶っていますし、安子からも信頼されていて、中宮大夫という職にも就いていました。この師輔と安子が早死にしてしまったことが高明の不幸だったわけですけど、兎にも角にも、師輔の一族と高明は結びつきが強かった。

だから、安和の変という悲劇が彼を見舞ったとき、師輔の一族はその不幸を嘆かなければならないはずなんですよ。誰かがそれをしなければならなかった。

その微妙で白々しい役割を引き受けたのが道綱母だったのではないか、という指摘があるわけです。だから彼女は、ただひたすらイノセントに高明の不幸を嘆いた。

加えて彼女は、愛宮へ見舞いの歌を送っています。憶えていますか? 愛宮。師輔の娘で、高明に嫁いでいた女性ですね。彼女は安和の変のあと、世を儚んで出家してしまいました。それを知った道綱母は、わざわざ長歌を作って送っています。本気で思いを届けたい時に繰り出す、彼女の必殺技ですね。

だから、多分、道綱母としては、心の底から気の毒に感じてたんだろうな、とも思います。今回、彼女の歌の力が、政治家としての兼家の社交に一役買っている場面を多数紹介しましたよね。彼女は多分それを、政治だと知りながらも、自分なりに精一杯、心を込めて歌を詠んだのではないかと思われます。この点に関しては、つまり、蜻蛉日記という作品の政治性に関しては、とても解釈が難しいところなので、ぜひ自分で本文を読んで、考えてみてください。

ではでは、ここで再び、兼家の人生に戻りましょう。ここから先は蜻蛉日記との結びつきが薄くなってくるので、飛ばしちゃおうかとも思ったんですが、他の文学作品を読むときにも役立つ重要な情報だから、後少しだけ頑張ることにします。

安和の変の後も政治的な動乱は続き、なんとあれから数ヶ月後には冷泉天皇まで退位してしまいました。在位期間わずか2年。当然これも、誰かしらの政治工作が産んだ結果だと思われます。

少し前後するんですが、安和の変で高明が流されるより数ヶ月前に、冷泉帝の第一皇子が誕生していました。母親は「懐かしい」に子供の「子」で「懐子」。この女性は、兼家の兄である伊尹の娘にあたります。

このタイミングで冷泉帝が退位するとどうなるか。まず、皇太弟だった守平親王が即位しますね。わずか11歳の帝、円融帝の誕生です。円は円周率の円、融は「ものをとかす」って意味の、「融」ですね。「融解」とかに使う文字です。

そして空いた皇太子の座に誰が座るかっていうと、先ほど生まれた冷泉帝の息子がこのポストに収まる。まぁ当然ですよね。11歳の円融天皇にはまだ子どもなんていませんし、村上天皇と安子の間に生まれた皇子は彼が最後ですから。

この幼い帝と皇太子を摂政として支えたのは藤原北家の長老だった実頼です。憶えていますか? 師輔の兄、小野宮流の実頼ですね。彼は病がちだった冷泉天皇の関白も務めていたんですが、この時期の帝たちと姻戚関係を結べていなかったため、摂政とか関白とかの地位は得るものの、今ひとつ権力を掌握しきれません。結局彼は、そのまま病でこの世を去りました。円融天皇の即位からわずか一年後のことです。

実頼の後を継いで藤原氏の氏長者、そして帝の摂政となったのは藤原伊尹でした。師輔の長男にして、兼家の兄にあたる人物ですね。これ、結構凄まじい状況が到来しているんですよ。だって、伊尹の娘である懐子の息子が今の皇太子ですからね。伊尹は次期帝の祖父です。そして、現在帝位にある円融帝は、伊尹の妹である安子の息子ですよね。しかも、円融帝に対して最も発言力を持つはずだった安子はすでに他界しており、安子や伊尹の父親だった師輔、そして藤原氏の長老だった実頼もすでに世を去っています。完全な独走体制に入るんですよ、このときの伊尹って。安和の変で、源高明も排除したしね。もはや行手を遮るものはいない。

こうした流れに伴って、兼家は猛烈な勢いで出世していきます。具体的にいうと、三位の中納言兼右大将までのぼる。公卿に名を連ね、国政を動かす地位を得ています。父師輔の死から10年。西暦でいうと、970年ごろのことです。こうしたスピード出世はおそらく、兼家が伊尹に協力的で、ここ数年の政治的動乱に際しても重要な役割を果たしたからだろうと推測されています。

ところがここで、明らかに人生で最もライジングしているこのタイミングで、兼家は生涯最大の挫折を経験することになります。

きっかけは、兄伊尹の死でした。彼は当時の貴族社会を席巻したにも関わらず、実頼の死からわずか2年後、972年に病で世をさります。享年49歳です。

彼の死後、後を継いだのは藤原兼通という人物でした。兼家と同じ「兼ねる」の字に、「通る」と書いて「かねみち」です。彼の名前は初めて出しますね。しかし実は、この兼通こそが、兼家にとって最も激しい敵対関係にあった政治的ライバルなんですよ。どういうことか、頑張って説明してみましょう。

兼通は、藤原師輔の次男です。つまり、伊尹の弟であり、兼家の兄にあたる。この三兄弟って、村上天皇の時代までは大体順当な年功序列で出世していくんですけど、その次の冷泉天皇の時代で、逆転現象が起きるんですね。蔵人頭が入れ替わるんですよ。今回、最初の方でお話ししましたが、兼家って冷泉天皇が皇太子の時代から側近をやってたので、彼が即位したタイミングでそのまま蔵人頭に就任しましたよね。実はそのタイミングで、もともと蔵人頭をやっていた兼通が降ろされてしまっているんですよ。どうやらこの辺りから、二人の間に不和が訪れています。

思い出して欲しいんですけど、村上天皇が死んだ後は動乱続きでしたよね。まず、次期皇太弟と目されていた為平親王が退けられ、その弟である守平親王が立てられました。そしてこの問題に、為平親王へ娘を嫁がせていた源高明も結びついていたと。

実は兼通って、この高明と関係が深かったんですね。さっき、高明は中宮大夫として安子から信任を得ていた、って話しましたけど、同じ時期に兼通は中宮権大夫を務めています。高明の部下だったってことですね。そして兼通の息子の一人は、高明の娘を娶っています。

だから、かどうかは推測の域を出ませんが、高明が左遷された安和の変の後、伊尹と兼家は順調に出世していくにも関わらず、兼通の地位は伸び悩みます。彼は参議を経て権中納言に進むのですが、弟である兼家は参議を経ることなく、二つ飛ばしで中納言に登り、その後間も無く権大納言にまで至ります。完全に、弟の方が兄を凌いだ格好です。まぁそりゃあ仲悪くなるよな、って感じですね。

ところがこのタイミングで、長男の伊尹が死に、官位の上では劣っていた次男兼通が後を継ぐ。この人事が一体どういう政治力学に基づいたものだったかは、なんとも言えませんね。随分前に亡くなった安子が、遺言でそのように差配していたからだ、という説もありますし、そんなの現実味がないから、他の誰かが画策したことだと理解するべきだろう、という見方もあります。

いずれにせよ、これまで弟の後塵を拝していた兼通は一躍貴族社会のトップに躍り出て、権力を握りました。権中納言から、中納言と権大納言と大納言を飛ばして、一気に内大臣まで出世するんですよ。もう無茶苦茶ですよね。

こうした兼通政権の背景として、時の帝である円融帝との結びつきも重要視されています。円融帝ってね、冷泉天皇の皇太弟だったじゃないですか。村上天皇の嫡男として、ではなくて、冷泉帝の弟として後を継いでいる。そして今、すでに冷泉帝の息子が誕生し、皇太子の位についていますよね。これどういう状況かっていうと、円融帝はただの中継ぎ天皇に過ぎないよね、って流れなんですよ。村上、冷泉、冷泉の息子、そしてさらにその息子、っていう風に皇位を継承していくのが正当な流れで、円融はその途中に時間稼ぎとして挟まっただけ、という構図です。

だとすると、当時の貴族たちは、円融帝に娘を入内させるメリット、あんまりないじゃないですか。孫が産まれたって、その子が帝位を継がないならね。実際この時期、伊尹や兼家は円融帝に娘を入内させていませんでした。そんな中、兼通だけは娘を入内させ、この女性がそのまま、円融帝の中宮となっています。

こうして兼通と円融帝が政治を動かしていた時期、兼家の出世は完全にストップしていました。彼にとってはもどかしい日々だったでしょう。

やがて、977年、目の上のたんこぶだった兼通がようやく世をさります。嘘か本当かわかりませんが、有名なエピソードがありまして、兼通が病で伏せっていると、兼家の車が近づいてくる音がするんですね。そこで兼通は思うわけですよ。ここ数年、兼家と自分は政治的ライバルとしてずっと仲が悪かったけど、今はもうこっちが病気で、死を迎えようとしているから、さすがの兼家も、家族としてお見舞いに来てくれたんだな、と。だから兼通は、病気で苦しかったんだけど、眠るのやめて、弟の来訪を待ったんですね。

ところが兼家の牛車は、兄の家を素通りして内裏に向かった。彼は兼通の死後、自分が次の権力者になるために、帝の元へ政治工作しに急いでいたんだ、あいつはやっぱり最後まで私の敵だ、と、兼通は思う。

そこで彼は、周囲の者たちに、私の体を起こせ、と命じる。そして重篤な身を押して、無理やり宮中へ向かいます。もうフラッフラなんですけどね、帝の前に参上して、「最後の除目を行いに参りました」っていうんですよ。除目って、あれね、人事異動のことです。

彼は死の直前、まだ自分に権力があるうちに、出来うる限りの嫌がらせを兼家にしました。まず第一に、自分が死んだ後の後継者として藤原頼忠を指名しました。頼忠は、かつて藤原氏の長老だった小野宮実頼の息子です。普通だったら弟の兼家が権力を継ぐはずだったわけですけど、それをするくらいなら、自分たちとは血筋の違う親戚に譲った方がマシだ、ってことですね。

加えて兼通は、当時兼家が就いていた右大将の地位を没収します。ここでもう、完全に嫌がらせだってことがわかる。さっき紹介した、兼家が家の前を素通りするエピソードは、『大鏡』っていう歴史物語に載っている話ですから、嘘や誇張の可能性がありますけど、人事異動は事務的な事実ですから、なんというかまぁ、ほんとに仲悪かったんでしょうね、この兄弟って。

こうして兼家は、兼通政権において、最後の最後まで苦渋を舐める。あまりにも酷い目に遭わされるもんだから、兼家は愁訴のための長歌を作って円融帝に送っています。長歌ってあの、長い和歌ね。ここにさぁ、昔道綱母と長歌送り合った経験が生きてるの面白いですよね。あるいは今回の長歌についても、道綱母がサポートした部分があったかもしれません。

兎にも角にも、また一人権力者が死に、あたらしい政治体制がスタートしました。トップは関白となった藤原頼忠。彼はもともと、今の皇族たちとあんまり深い姻戚関係も持っていなかったんですけど、円融天皇に娘を嫁がせることで政治的な一手を打ちました。それと時を同じくして、兄兼通の嫌がらせから政界復帰した兼家も、時姫が産んでいた次女を円融帝に入内させます。

そして皮肉なことに、この兼家の次女が唯一、円融天皇の息子を宿すんですね。兼通の娘でもなく、頼忠の娘でもなく、兼家の娘だけが皇子を産む。そしてこの入内と出産こそが、兼家を、そしてその息子である藤原道長を、平安中期最大の権力者へとのし上げます。

さっきも言ったように、円融天皇っていうのは中継ぎのための弟天皇だったんですよね。おそらく、当時の社会認識としては。だけど彼本人の親心としては、自分の皇子に帝位を継がせたいじゃないですか。するとこの一点において、円融帝と兼家の利害は一致しますよね。兼家だって、自分の孫が帝になるのはやぶさかじゃないから。

だから円融帝は、この人おそらく、兼家のことあんまり好きじゃなかったと思うんですけど、政治的な取引として、自分の息子を皇太子にする、っていう条件と引き換えに譲位するんですよ。

すると次は冷泉天皇の息子が即位しますね。彼は花の山と書いて花山天皇といいます。思い出して欲しいんですが、この人は兼家のお兄さんである伊尹の孫です。だから兼家からすると、花山天皇の治世なんて短ければ短いほどいい。

そこで兼家は、陰謀を用いてこの花山天皇も早々に退位させます。当時の元号をとって、この事件のことを寛和の変と呼んだりもする。さらっとお伝えしていますけれど、冷静に考えて、これはとんでもないことです。それまでも何度か、いろんな人が圧力をかけたり、政治的な取引をしたりして時の帝を降ろすってことはありましたが、今回の花山天皇退位はそういう次元じゃなくて、ほぼ騙し討ちと言っていい。

当時の花山天皇って大体20歳くらいだったんですけど、ある日めちゃくちゃ寵愛していた女御が死んじゃうんですね。彼はそれをすごく悲しんで、自分も世を捨てて出家して、彼女を弔ってあげたい、と願う。こういう気持ちって、大事な人を失ったら誰しも抱くところだと思うんですけど、人の心の常として、しばらくしたらまぁ、傷ついた心も落ち着いてくるじゃないですか。そうやって日常生活に帰っていくわけでしょ。だけどこの時兼家は、当時帝の側近をやってた自分の息子を使って、花山帝の気持ちを煽るんですね。私も一緒にお供しますから、今すぐ出家しましょう、みたいな感じで。

そうして花山天皇がお寺に向かっている間に、皇位継承で必要とされる三種の神器を別の息子が回収した。三種の神器っていうのは、天皇家が代々継承してきた剣と鏡と勾玉のことを指します。これを受け継ぐことが、すなわち皇位の継承を意味するわけですね。

これを持ち出した人物こそが、他でもない、藤原道綱です。蜻蛉日記の作者である女性と兼家の間に生まれた一人息子はこうして、政治的大事件の片棒を担いだ者として歴史にその名を残しています。

そのまま花山天皇は退位し、円融天皇の息子、兼家の孫にあたる人物が幼くして即位しました。一条天皇の誕生です。そして次の皇太子は、冷泉帝の息子が立ちました。この人は、花山天皇とは別の母親から生まれています。一体誰か。思い出してください。兼家は随分前に、自分の長女を冷泉天皇に入内させていましたよね。彼女が産んでいた皇子が次の皇太子です。つまり兼家は、この寛和の変によって、幼い帝の祖父にして、皇太子の祖父でもある、という盤石の地位を獲得したことになります。とうとう彼は、貴族社会の頂点へ上り詰めました。

やがて、成長した一条天皇は、兼家の嫡男である道隆の娘を后に迎えます。清少納言の主人として名高い、中宮定子です。そして道隆の死後は、彼の弟である藤原道長の娘彰子が、もう一人の中宮として帝の隣に立つ。彼女に仕えた女房の一人が紫式部でしたね。ここから先は、枕草子や源氏物語の時代です。

長かったー。あのー、聞いてくれたみなさんも、正直、あんまり意味わかんないところとかあったと思うんですけど、今回お話しした人間関係とか、政治闘争の流れがね、背景知識として結構大事になってくるんですよ。枕草子とか源氏物語とか、そういうメジャーな古典作品について勉強しようとすると、いろんな貴族とか、帝とか、姫君の名前が出てくるじゃないですか、たくさん。で、ああいう歴史上の人物って、その人のことだけ調べてもいまいちよくわかんないんですよね。結局、その人がどういう人物かってことは、周囲の人々との人間関係によって理解されるものですから、単品の知識ってあんまり意味がないんですよ。ですがご安心ください。もう大丈夫です。ああいう人たちは大体みんな、今回登場した人々の子供か孫です。だから今回説明した内容を理解してもらえると、当時の人々が家とか血筋レベルでどういうふうに絡み合っていたかがわかります。これがわかってくると、また一段階違った解像度で、古典や歴史を楽しめるようになるわけですねー。

ただし、念のため明言しておきますが、今回お話しした政治的動乱に関する私の説明は、かなり大雑把でいい加減なものとして受け取っておいてください。この状況において、この人はこういうことを考えて振る舞ったはずだ、そしてそれは当時こういう意味を持ったんだ、みたいなことをまことしやかに語りましたが、それが全部正しいかっていうと全然そんなことはないですからね。この時代については、結構いろんな資料が残っています。栄花物語と大鏡はぴったりこの辺りを描いた歴史物語ですし、後世の説話もあれば、当時の人々の日記もある。ですがどんな資料も、それを書いた人物の意図や事情を差し引いて読まなければならなくて、それって高度に訓練した人にしかできない作業なんですよね。残念ながら私は、そこまでの専門家ではありません。

例えば今回登場した冷泉天皇と花山天皇は、いくつかの資料においてあまりいい描かれ方をしていません。奇行、怪しい行いね、が目立つ危険な人物として扱われている。ですがそれについては指摘があって、この二人って、兼家の一族が台頭していくにあたって、政治的に割を食ってる人たちなんですよ。あっという間に退位させられたり、自分の子孫が皇統から外されたりして。そういう人たちが後世、人格的に危うい人だったって描かれるのには、なんらかの作為を読み取った方がよかろうって考え方もあるわけです。資料に書かれていることを鵜呑みにするんじゃなくてね。でもそういうことを本気で突き詰めていくととんでもないことになるから、程々のところで割り切ってお話ししています。

だからすっごく難しかったんですけど、その難しさも含めて滅茶苦茶面白かったですね、この時代は。聞いてるみなさんはもううんざりしてるかもしれないですけど、やってるこっちは終始楽しかったです。今回紹介した蜻蛉日記と藤原兼家って、伊勢物語の時代、つまり、在原業平や菅原道真の時代から、枕草子や源氏物語の時代までを橋渡ししてくれる、本当にちょうどいい存在なんですよね。

そして何より、この藤原兼家って人物自体が、めちゃくちゃ魅力的で、面白くないですか? なんかもう、気が遠くなってくるでしょ? 今回お話ししたような激しい政治闘争の経緯を聞くと、町の小路の女に浮気して道綱母に文句言われてたのとか、何だったのあれ、って、気分に、なってきません? 遠い昔のことみたいに思うでしょ、もはや。

でもねぇ、ああいう姿もまた、藤原兼家なんですよね。女性たちの間をのらりくらりと渡り歩いて、無神経な発言したり、ギリギリのところでフォローを入れたり、一人で嬉しそうに冗談飛ばしたりしてるのも兼家だし、そうやって授かった息子や娘をフル活用して貴族社会の頂点までのし上がったのも兼家なんですよ。

だから、最後に、もう一つだけ、兼家のプライベートな顔についてお話ししてもいいですか? こんだけ喋ってまだあるのかよって感じだと思うんですけど、面白いので、これ、蜻蛉日記の中でもぜひ読んで欲しいところなので、紹介しておきますね。

今回お話ししたように藤原兼家って人は、同年代の帝だった村上天皇が世を去ったあたりから、本格的に政治闘争のプレーヤーになっていくんですね。で、実は彼って、その直前のタイミングで、ちょっと変な病気を患って、一回死にかけるんですよ。

これがちょうどねー、道綱母を訪ねている時に苦しみ出すもんだから、彼女めちゃくちゃ心配するわけですよ。で、兼家は兼家ですっかり参っちゃって、どんどん気弱になっていくよね。自分はもう死ぬんだー、っつって。するとどうなるかっていうと、段々お互い盛り上がってきて、すごい感動的な、悲劇の物語の主人公とヒロインみたいになってくんですよこの人たち。これでもうお別れだって思ってね、いつもの兼家だったら絶対言わないようなセリフ吐くわけ。私がどれほど大切に思っていたかわかりますか? みたいなね。それ聞いて、道綱母は泣くし、周りにいた侍女たちも泣いた。ドラマですよね完全に。

で、兼家は療養するために自分の邸宅に帰るんだけど、彼、寂しがって手紙で言うんですよね。あなたに会いたい、会いにきて欲しい、と。そんなこと言われても困りますよね。みなさんご存知の通り、当時の貴族女性っていうのは自分から男性を訪ねたりしないものですから。そんなはしたない真似、普通に考えたらできない。

でも結局ね、道綱母は行くんですよ、兼家の屋敷に。痺れるでしょ、これ。最高ですよね。当然彼女も躊躇って悩んだんだけど、兼家が何度も何度も頼むもんだから、とうとう決断するんですよね。彼女のこういうところがねー、本当に大好きですねー、私は。

屋敷にたどり着いた道綱母と兼家がいったいどういうやりとりをしたかは、ぜひ、ご自分で蜻蛉日記を読んで確かめてみてください。私が本文を引用して紹介しちゃうのは、なんだか野暮ですね。

ちなみに、余談なんですが、さっき説明した、兼家が自分の邸宅に帰るタイミングにおいて、道綱母の弟が彼に付き添ったんですよね、介助役として。その弟が牛車に乗る時のセリフが面白くって、もうね、二人は今生の別れみたいになってるんですよ、兼家と道綱母はね。でも彼すっごい冷静で、「え、何泣いてるんですか。」って言うんですよ。「いや、こんなの別に大して特別なこともないですから、さっさと牛車乗ってください」つって、淡々と搬送するんですよね。なんか滅茶苦茶白けてんですよこの人。だからね、そのー、本当は大したことなかったかもしれません、兼家の病気って。

でもまぁ、客観的事実なんてこの際どうでもよくて、大事なのはね、少なくとも道綱母にとって、この騒動は愛と命をかけたビッグイベントだったってことなんですよ。人目を忍んで兼家の元を訪ねたあの夜が、どれほどロマンチックな大冒険だったか、ぜひ本文を読んでみて欲しいですね。

ではでは、お疲れ様でした。また次回。

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