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ことりひとり

あの頃住んでいた家の近くに緑豊かな遊歩道があった。長い長い小道の両脇には、天に向かって伸びる欅や楠、スズカケノキやトチノキなどの樹木がずらりと並び、色濃い緑の木陰を作る。桜や銀杏や楓や紅葉は季節ごとに彩りを添え、ハナミズキやコブシ、木蓮、紫陽花、躑躅などの折々に開く花々も美しく、ひとりの散歩も飽きることがなかった。

木漏れ日のなか、自分のペースで歩いたり時には走ったり。気になる植物があれば立ち止まったり。私は、ひとりぼっちの、けれど自由なことりのような気分だった。

小一時間ほど歩くと、少し脇に逸れたところにとても美味しい珈琲を出すお店があった。おそらくは個人経営の、豆や焙煎、抽出にこだわり、一杯ずつ丁寧に珈琲を作る専門店である。私はそれほど珈琲通というわけではないが、豆を選ぶならば酸味のあるブルーマウンテンやキリマンジャロあたりが好きで、その香りに癒されもする。適度に体を動かした後にほっとひと息をつく、ちょうどいい場所にその珈琲店はあった。

ひとりソファに座り人ごこちつく。マリーローランサンの描く柔らかい女性が、光のない大きな目で私を見つめる。チックコリアの、エッジが効いたエリナーリグビー。珈琲の馥郁たる香りを吸い込むとき、なんの不足があろうかと思う。

自由で頼りなげな、孤独なことりのままで良かった。

しばらくして五歳年上の男性と知り合い、私たちは恋人同士になった。穏和で思慮深そうに見えたその人は、航空物理学を研究したのち、とある民間企業でミサイルの設計をしていた。彼はよく手料理を作ってくれたし、また、ふたりで鮨屋や蕎麦屋に出かけたものだった。そして、私ひとりの散歩道と珈琲店に彼もついてくるようになり、季節が過ぎて行った。彼は私のことをとても好きだったようだ、もしくはただ執着していたのかもしれない。私はといえば、彼を本当に好きだったのか、今となってはよく分からない。一緒にいても、ことりだった頃の自分をよく思い出していた。

わりと簡単に小さな嘘をついたり、少しずるいようなところが目についてきて、一年ほどでお別れをした。外見から入るのはもうやめようとその時思った。孤独でも、自由なことりの自分が愛おしかった。ずいぶん昔の話だ。

あれから何があっても、さみしくて悲しくてうっすら涙がにじむことがあっても、自由なことりは小さな翼でぱたぱたと羽ばたき続ける。たったひとりで、孤独を愛して。


フランソワーズ・サガン
『愛と同じくらい孤独』

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