薄闇に溶けて
駐車場から少し歩いて、この春に竣工したばかりだという端正なマンションに着いた。エントランスのオートロックを解錠してもらい、高層階の彼女の住まいを訪ねる。招き入れられた居室には甘い干し草のような香りが漂っていた。
「トバッコトスカーノよ」
サンタマリアノヴェッラの男性用オーデコロン。音楽なら例えばスタンダードジャズの名曲のような、普遍的な香り。ワックスタブレットから放たれるフレグランスは、霞になって控えめに私たちを包み込む。
久しぶりに会った彼女は、髪をとても短く切っていて印象がガラリと変わっていたけれど、すこやかな表情をしていた。そして、何もかもがきちんとしていた。柔らかな話し方もいつもの彼女らしい。ただ、薄茶色の瞳にかつてあった輝きが感じられなかった。その奥は、深い暗闇につながっているようにも見えた。
「まあね、まだまだこれからなの。でもね」
そう言って彼女は瞳を閉じ、息を吸い込む。
「もう一度何かを書くことができたなら、また生きてゆけるかもしれないって」
私は、わずかに頷いてピオニーが描かれたティーカップを手にとった。冷めかけたアールグレイ。
比喩ではないのだ。喪失と再生の物語。そうしたことは現実に、確かにある。不条理を甘受し、ひっそりと乗り越えて回復し、また涼しい顔をして生きてゆく。誰にも何も言わずに。
おいとまをする前に、ふたり並んでバルコニーから外の景色を眺めた。街並みの向こうに美しい山の稜線が幻影のように浮かび上がる黄金の夕景。
ようやくきれいなものをきれいだと感じられるようになったの、と彼女は言った。
そうしたら、と。私は答えた。
もうすぐ何か書けるはず。書いてみて。あなたが生きてゆくために。
帰りはエントランスの外まで一緒に来てくれた。いつまでも見送る彼女のシルエットが、薄闇に溶けてゆく。
マイ・フーリッシュ・ハート
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