そういうことか!幸せの方程式を解き、人生が大きく変わった【Vol.2】
Mさんは結婚後にさまざまな問題に悩まされ、心が病みましたが、ミロステクノロジーに出会い、人生を紐解くことで思い通りにならない根源を発見していきます。
「そういうことか!」と理解することで、バラバラに散らばっていた出来事が一つのパズルのように結びついていきます。
※Vol.1はこちら
https://note.com/vast_eagle460/n/n62f4552a23a2
目次
【Vol.2】
❒バラバラに分散していた出来事が一つに繋がっていく
・「私なんて」という誤った思い込み
・自ら背負った十字架
・対人恐怖が増幅した事件
・愛のない両親を自分たち夫婦もやっていた
・職業や趣味嗜好も運命の意図だった
・過干渉になったわけ
【Vol.3】
❒人生はひとつのストーリーになっていた
・罪滅ぼしの人生だった!
❒思い込みでつくり上げたドラマ
・親を理解したことで、完全に過去が変わった
◆編集後記◆
☆interview☆
<インタビュアー:小田朱里/研究員 ライター:佐藤康代>
そういうことか!幸せの方程式を解き、人生が大きく変わった【Vol.2】
❒バラバラに分散していた出来事が一つに繋がっていく
身体を壊すほど、子育て、仕事、家事に奮闘していたMさん。
なぜこんなにも頑張るのか?
彼女は人生を紐解いていくうちに、その答えに出会っていきました。
・「私なんて」という誤った思い込み
幼い頃から両親は共働きで留守が多く、寂しい思いをしていました。妹が生まれたことで母の愛情を奪われたように感じて、幼稚園の頃には「私なんて」という思いが芽生えました。
父と母は私に無関心に見えて、さらに弟が生まれると、どんどん自分の価値が下がっていきました。
母に認められたい気持ちから、甘えることも我慢して、妹や弟の面倒を見ながら頑張っていたのだと思います。
つまり、私の過剰な頑張りの原動力は「私なんて」という自分に対する誤った思い込みだったんです。この思い込みが「私なんて」と感じる世界をつくり上げていたのです。
そして、「両親は私に無関心」「私より妹や弟の方が可愛いのだ」と感じて、自分で自分の価値を下げていることにも気づかず、認めてもらおうと頑張っていたのです。
・ 自ら背負った十字架
小学1年生の夏、両親が仕事で留守にしている中、私は2歳半の弟と90歳の曾祖母と一緒に家にいました。
でも、退屈してしまい、友達の家に遊びに行ってしまいました。
帰宅すると、祖父と曾祖母が必死に弟を探していて、私も一生懸命に探しましたが、弟は汲み取り便所の中で見つかり、祖父が急いで引き上げシャワーで洗い流しましたが手遅れでした。
お葬式では、弟はトンボの浴衣をまとい、小さな棺に収められていました。
母は錯乱したように泣き叫び、その姿に私は大きなショックを受けました。
当時の事はよく覚えていませんが、母を悲しませてしまったことと、弟の死が私の責任だと感じてしまったのです。
今思えば、退屈して友達の家に行くことはやむを得ないことだったかもしれません。
でも「私なんて」という思い込みから罪悪感を感じ、背負わなくてもいい十字架を自ら背負ってしまったのです。
・ 対人恐怖が増幅した事件
小学3年の時、曾祖母が亡くなり、その頃、埋葬方法が土葬から火葬に変わりました。弟も火葬にしようということになり、もう一度葬式をしました。
この時も母は近所に響き渡るほどの大声で泣いていました。その母の泣き声を学校でからかわれたことが一番辛かったです。
「あいつの母さんの泣き声、うるさかったなあ!」とか「俺の家まで聞こえたわ」と言って笑いました。
本当に悲しくて辛くて、人が怖くなりました。
それ以来、他人の目や声を異常なほど気にするようになり、特に集団の中では自分をどう表現していいのかわかりませんでした。
母にも近づけなくなり、不安や困ったことを相談しても、理解されず、怒った口調で返されたり、はぐらかされたり、一度も母に受け入れられたことがありませんでした。
弟の死で抱えた罪悪感が、母がクラスメイトにからかわれた出来事で一層深まりました。周りに嫌われないように、本音や感情を隠し、人に愛され認められるために「こうあるべきだ」というルールを、自分の中で築き上げていったのです。
・ 愛のない両親を自分たち夫婦もやっていた
家族もバラバラでした。父は、母を助ける気持ちも、理解する気持ちもないように思えて、大嫌いでした。父は祖父とも仲が悪く、喧嘩が絶えず、家族との食事も摂ろうとしませんでした。本当に迷惑な存在でしかなかったです。
母も、父に期待しなくなり、しっかり生命保険をかけていて、愛がない両親だと思っていました。
でも、両親の関係性をそのまま自分たち夫婦もやっていることに気づいたんです。父を見て感じていたことが、そのまま夫にスライドし、母の姿はまさに私自身でした。
・ 職業や趣味嗜好も運命の意図だった
保育士になったのは、進路を決める際に資料を見ていたら、”保育士”の欄に目が留まったんです。これなら出来ると思い、迷いなく選びました。
対人関係が苦手でも、”保育士”という肩書があるからそれなりにやれたんです。子どもたちの前では私らしくいられたし、あるがままの子どもとの触れ合いは癒しそのものでした。
でも、亡くなった弟と同じ年頃の子どもたちを預かる職業に就いたのは、成り行きや偶然ではないことが後々分かっていったのです。
そしてもう一つ、心を癒してくれるものが茶道でした。それは夫との出会いのきっかけでもありました。
結婚前、夫から養育している子どもがいることを知らされた時、ホッとしたのは、私自身の評価が低すぎて、夫になる人が完璧だと困るからです。
他の女性との間に子どもがいるのってショックだと思いますが、それくらいのハンデがあることで釣り合いがとれたんです。
・過干渉になったわけ
そして娘が生まれると、私は過干渉な母親になりました。
それは「私のようにはなってほしくない」「誰からも愛される子」にしたいという思いから、「こうあるべき」という理想を娘に押し付けた結果でした。
ちゃんと出来ない娘に噴き出す怒りは、私自身の劣等感や不安によるものでした。
こうしてミロステクノロジーで人生を紐解くことで、なぜこんな人生になってしまったのか?その疑問が解けてきました。
自分の考え方や人生の選択が、どこからきているのかも見えてきました。
すべての出来事が辻褄を合わせていく中、最終的にMさんがたどり着いたものとは何なのでしょう?